2 ゆとり教育の来歴(由紀草一)
「ゆとり教育が学校からゆとりを奪った」構図は今言われたとおりだろうね。しかし、ここではもう少し細かく見ておくべきことがあるように思う。夏木さんには明らかなんだろうが、一般の人にはなかなか明らかにならず、現に議論されていることがある、という意味でね。そのためにも、話を進めて、ゆとり教育という方策がどのようなもので、なぜ、このような状況を生み出すことになったか」に踏み込んでおこう。
ゆとり教育は、けっこう長い歴史を持っている。現行のものは、平成八年の中教審答申「二一世紀を展望した我が国の教育の在り方について」で導入が唱道され、平成十一年に改訂された学習指導要領に全面的に盛り込まれ、小中は平成十四年から、高校は平成十五年から実施された。
しかし、小学校一、二年の理科・社会を廃止して生活科を置いたのは平成元年の指導要領改訂から(平成六年に小学校から高校まで完全実施)だし、これにともなって四年には第二土曜日が学校休業日となっている。さらにさかのぼって昭和五十二年の指導要領改訂から学習内容・授業時数の削減は始まっている(昭和五十七年完全実施)。我々が教員になる少し前から、ゆとり教育は少しずつ進行していたんだよ。
実際、教員になってから使った英語の教科書は、私が高校生の時使ったのと比べて格段にやさしくなっていた。特に高一のがそうだった。構文の複雑さも、語彙数も、我々の中三時代に使った教科書のほうがずっと難しい。文法事項にしても、かつては中学ですべて一通り教わったのに、今は仮定法が高二で出てきて、そこまで完成しない。
総合的学習の時間も、覚えているかしら、私が教員になったのは昭和五十八年で、次の年に夏木さんが同じ学校に新採教員として配属されてきたんだが、あの学校には週に一時間、「ゆとりの時間」または「学校裁量の時間」と呼ばれるものがあったじゃないか。これが元祖ね。当時は試行期間だから、すべての学校にあったわけじゃないけど、話に聞くと、小中では相当多くの学校がやらされたらしい。ある小学校の校長が、
「『これはゆとりの時間なんだから、子どもを自由に遊ばせておいて、先生方はお茶を飲んでいてもいいんだ』なんて教育委員会は言うんだが、冗談じゃない。先生達の目が離れたところで、子どもが怪我でもしたら、やっぱり学校の責任になってしまうんだから、とても子どもだけで遊ばせるなんてできない話だ」
と言っていたよ。当時は、少なくとも行政のほうは、のんびり構えていたとも言えるのかな。現場の困惑は今と変わらない。
我々の「ゆとりの時間」でも、全校集会をやったり校庭の草取りをやったり学校行事でつぶしたりしたが、それでも残っちゃった時間をどうやって消化するのかに迷って、「ゆとりの時間のおかげでゆとりがなくなってしまう」とは、当時からささやかれていた。ただし、教育委員会への報告には、きっとそんなことは書かなかったろう。なんらかの成果があったと報告されて、やがてめでたく総合学習の時間全面導入となるわけだ。教育関係の「試行」では、決して本当のことは学べないといういい見本だね。
さてそこで、このような「ゆとり」要求がどこから出てきたのか、ということだけど、文部省(当時)から、とは言えない。日教組も、マスコミも、「学校にゆとりを」という論調が主流だったのだから。その論調の主要なものは、結局「学校の勉強がたいへんで、子ども達が苦労しているから、なんとかしよう」というものだった。「落ちこぼれ」なる言葉が登場したのも、この頃だった。
ところでどうだい? その頃から教員稼業を、どちらかと言えば勉強が得意じゃない子どもを集めた学校で始めた者の実感として、生徒達は本当に勉強ができなくて苦しんでいたかい? そりゃ、全然平気だったと言えば嘘になるけど、勉強は彼らの青春の悩みのうちで、一割以下の重さを占めていたにすぎないんじゃないか?
これは今でも変わっていない。だいたい、勉強ができなくて実際に困る場面というのはそんなにないからね。落第なんて、義務教育期間には実際上もうなくなっていたし(制度的には可能)、高校だってめったになかった。ただ一つ、具体的に大きな問題になってくるのは、高校・大学への進学時でしょう。入学試験によって、きっぱりと振り分けられるんだからね。
これについて、現在に至るまでどれだけの言論が費やされたか、思い出すのも面倒なぐらいだ。「受験地獄」という言葉はもっと前からあって、昭和五十五年以降はそんなに聞かれなくなったかと思うんだが、「受験の重圧」とかね。これによって子ども達はたいへんな労苦を強いられている、という印象は、ほとんどすべてのマスコミが流していたものだ。苅谷剛彦の研究(『教育改革の幻想』平成14年)で、これも幻想であって、この頃の青少年は、受験は確かにたいへんな問題ではあったが、それなりには楽しく青春を過ごしていたことが明らかになっているがね。
本当に問題視したのは、親の側じゃなかったのかな。昭和六十二年に出た村崎芙蓉子『カイワレ族の偏差値日記』がいい例だが、ある種の親、たいていは高学歴の親と考えていいと思うんだが、彼らにとって、子どもがいい高校・大学へ入れないのは一大問題になる。そこで彼らの一部から出る「学校の勉強をもっとやさしくしてくれ」という声は、実質的には「もっと簡単に高校・大学へ入れるようにしてくれ」という意味になることが多かった。
この要望に応える一番の方策は、学習内容を減らすことなんかじゃなくて、高校・大学の数を増やすことだよね。事実、この頃大都市周辺では新設高校ラッシュで、我々が出会った高校もその一つだった。大学も新しいのがずいぶんできたし、高校は全入時代になった。
ところがそれで、村崎のようなタイプの親が満足したかというと、そんなわけにはいかない。だって彼らは、高校・大学と名がついてさえいればどんなところでもいい、というわけではなく、「いい高校」「いい大学」へ子どもを入れたいんだからね。彼らが多数いた場合、全員を満足させるのはもともと無理な話だ。だって、例えば東大の入学定員を十倍にしたとしたら、東大生であることの価値及び東大出身の価値はインフレによって十分の一に下がるよ。一方、それでも入れない人たちの不満は、質(不満の大きさ)も量(不満を抱く人の数)も十倍になるんじゃないか。
以上はつまらない冗談にしか取られないかも知れないが、全体としての高校・大学では正にこういうことが起こったんだよ。高校全入が実現されたら、高校進学の値打ちなんて、入った人にはほとんど感じられなくなる一方で、それでも経済的な事情その他で入れない人の不満とかコンプレックスが強くなってしまった。高校へ行くことは、なんでもない、普通のことだが、行かないことは大問題なんだ。次には大学が、同じようになるかも知れない。まあさすがに、二十二の歳まで子どもをただ遊ばせておいてもいいと考える親はそうはいないようだから、大学全入時代はまだだけどね。
この先が問題になってくるんだが、こんなふうに高校生の数、というか、高校進学者の割合が増えていくと、そのこと自体が、ゆとり教育、つまり学習内容を減らすことの現実的な根拠になってくる。だって、進学率が五〇パーセント以下の時と、九〇パーセントを超えた時とでは、同じ内容を教えるってわけにはいかない、と自然に感じられるじゃないか。小中はもともと全員が来るんだが、どうしても高校の学習の予備段階という面もあるから、やさしいことを教えるようになった高校へ入るためには、やっぱりやさしいことを教えたっていい、とこれまた自然に感じられてくるじゃないか。
どうも私の言うことは錯綜しているように思われるかも知れないが、これは私の頭が悪いせいじゃなくて、事情のほうが錯綜しているんだよ。村崎みたいな相当に頭のいいはずの人が、子どもをいい高校へ入れたくて狂奔したあげく、それを「偏差値教育のせいだ」と指弾する、という錯乱を演じるほどにね。
因みに、こういう人にとっても、学校の学習内容がやさしくなることに反対する理由はない。子どもたちがみんなやさしいことしか習わないで、その分ボンクラになったとしたら、自分の子どもは、自分で教えたり、塾に通わせたりして、ボンクラ度を解消できれば、それだけ受験では有利なんだからね。
そこで夏木さんが言った塾・予備校の跋扈も、この時期に始まる。みんなが塾・予備校へ行くようになったら、それもむだ、かえって行かないことからくる不安ばかり大きくなるというところは、さっき高校について言ったのと同じ。ただ、塾・予備校は学校よりは多様だから、少なくともそう思われているから、いい塾・予備校に当たったら、他を出し抜けるかも知れない。教育熱心な親というのは、この期待は捨てられない。
だいたいそういった事情で、ゆとり教育は、寺脇たちが強力に推し進める前は、たいした反対もなく進んできた。
ただ、さっき言った英語など文系科目とは違った事情も理系科目にはあるようだね。自然科学は日進月歩だから、大学の理工学部の先生などからみたら、高校時代にこれくらいは学んできてもらわないと困る、という基準が別にあって、そこからの圧力で、学習内容が変わり、必ずしも易しくはなってないって話を聞いたことがある。これ本当かな? 夏木さんならわかるだろう。
仮にそうだとしたら、理系科目まで、一律三割削っちゃって、有名になった例だと円周率三・一四をおおむね三、なんてしちゃったところが今回のゆとり教育の最大の失敗だったのかも知れないね。それになんと言っても、目立たないようにやらずに、「三割減」とバンと打ち出しちゃったところね。
これで子どもが「その分勉強をやらなくてもすむんだ」なんて思い込んだとしたらたいへんだ、と親はたいてい思う。「子どもにもっとゆとりを与えてくれ」と言っていた人も含めてね。
これまた当然の話だ。「学力」を「知識量」の意味に取るなら、教える内容を三割減らしたら、「学力」も三割方減るのは全く当たり前、というかトートロジーでしかない。テストでその結果が示されたからって、今さらオタオタすることはない。ホリエモンのように、「想定内です」ってすましていればいいわけだ。
そうは言えなかったので、代わりに文科省の言うことが微妙に変化していった。「ゆとり教育は、決して子どもを遊ばせようというものじゃないんだ」という具合に。ここで登場するのが、そもそも学力とは何か、の本質論だ。
夏木さんが言ったように、それが本当何を意味するか、多くの場合はっきりしないまま使われているから、逃げ道にもなる。「こんなことをするから、子どもの学力が下がっちゃったじゃないか」と言われたら、「いや、私たちは、詰め込み教育がもたらす学力じゃなく、本当の学力を目指していたんです」と。
そう言われてみると、確かに文科省はそういう意味のことを当初から言っていたようでもある。ゆとり教育が目指すのは、従来の学力とは違う、創造的な問題発見型の学力であり、そのための「自ら学ぶ力」なんだというふうに。
こういう、「隠れた、本当の学力」という概念あるいは信仰も、いろいろ名前を変えながら、たぶんゆとり教育より古くから教育の世界に居座り続けている。今でもゆとり教育の理念は正しかったんだという人も、ここに賛成しているんだ。
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