YAMAKOME

気まぐれ山・旅日記

三溪園9(花菖蒲)

2014-06-17 13:23:52 | Weblog
三溪園9
H26.06.16 晴れ
 三溪園内は、和装の婚礼衣装を着たカップルが多い。結婚にあたっての写真の前撮りに来るのだそうだ。多い日には40組も来るそうだ。庭園内は和服の女性もそよそよと歩いている。まさに和に適した庭園である。三溪園にはいくつかのアクセス方法があるが、横浜駅東口2番乗り場から8系統(または148系統(急行))のバスで行き(35分ほど乗車)、本牧三溪園前で下車し、徒歩5分ぐらいだ。横浜の住人で65歳以上で「濱ともカード」を持っていれば入園無料である。(写真:花菖蒲。前撮りをしているカップル4組と出会った)

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三溪園8(聴秋閣)

2014-06-17 13:07:03 | Weblog
三溪園8(聴秋閣:ちょうしゅうかく)
 H26.06.16 晴れ
 原三溪は昭和14年に70歳で亡くなった。その後、三溪園は原家から横浜市に寄贈され、昭和28年に財団法人三溪園保勝会の管理となった。内苑が一般公開されたのは昭和33年からである。 三溪園内の説明をするボランティアの方が常時15,6名いるそうだ。登録している人は約100名ほどいるらしい。「説明案内いりませんか?」に、一度は断ったが、あまりにヒマそうにしているので案内をお願いした。70歳前後のおば様である。毎週月曜日を仕事にしているらしい。「脊柱管狭窄症で腰が悪いから運動のためにも・・・」と。でもオラのように腰が曲がっていない。とても懇切丁寧な説明である。ありがたかった。が、時間がかかりすぎるので1時間程度で案内を中断していただいた。(写真:聴秋閣。徳川家光k公が京都の二条城内に建てて、後に春日局に賜ったとされる建物だ。屋根の形がどこから見ても左右対称ではない。佐久間将監作。障子が心配。閉園の時はすべて雨戸を閉めるのだそうだ。大変な作業だなあ)

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三溪園7(臨春閣)

2014-06-17 12:26:03 | Weblog
三溪園7(臨春閣:りんしゅんかく)
H26.06.16 晴れ
 三溪園には京都、鎌倉等から移築した重要文化財を含め17の建物がある。その中の一つ臨春閣は、紀州初代藩主頼宣公が紀州の紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造りの別荘建築だ。大正6年に三溪園に移築された。この障壁画が有名である。後に描かれた障壁画の本物は三溪記念館にある。大正の初めに、この建物を3円で売り出されたが、三溪は移転費用が膨大なので2円に値切った、という話があるそうだ。8代将軍吉宗公が紀州時代に遊び育った屋敷だそうだ。(写真:臨春閣の一部、客を接待する奥座敷といったところか。この部分は2階もある。現在も使用されることがある。ここからの観月は素晴らしいとか。観月会は9月5日~9月9日、~午後8時半。是非行ってみたいものだ)
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三溪園6(睡蓮)

2014-06-17 12:18:29 | Weblog
三溪園6(睡蓮)
 富太郎の経営の視点は、「私」ではなく「公」であった。たとえ自社の不利益になることでも、製糸業界や横浜の利益になることであれば、私を無にすることもあった。 また富太郎は、絵や書道にも長けていた。号は「三溪」とし「原三溪」と称した。岡倉天心との出会い等から、若い美術家の育成、交流を図り、美術分野の発展にも貢献した。三溪記念館に足跡が展示されている。(写真:睡蓮池の睡蓮。あじさいはあちこちに綺麗に咲いており、密集してはいない。睡蓮は7月からだなあ)
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三溪園5(鶴翔閣)

2014-06-17 12:08:38 | Weblog
三溪園5(鶴翔閣:かくしょうかく) 
H26.06.16 晴れ
 富太郎は、経営の近代化、国際化を図り生糸の大手輸出業者になった。明治35年に本宅を野毛山から三溪園に移した。鶴翔閣がその本宅である(三溪園に入って右に進んだ最初の建物)。富太郎は、自ら絵を描くとともに美術品の収集家でもあり、全国の古建築の建物wを買い取り三溪園に移築をした。その後、明治39年に庭園の外苑部分を一般市民に解放をした。(写真:鶴翔閣。現在は、結婚披露宴、各種宴会、会議、茶会、句会等各種催しに広く活用されている)
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三溪園4(涵花亭・観心橋)

2014-06-17 12:03:37 | Weblog
三溪園4(涵花亭・観心橋)
H26.06.16 晴れ
 青木富太郎氏は、跡見女学校の生徒だった原屋寿(はらやす)さんと結婚することになるが、屋寿さんは生糸商売で成功した原源三郎の孫娘で、婿取りをしなければならない立場であった。青木富太郎も長男で跡取り息子であったが、明治25年に28歳で屋寿さんと結婚、原家に入籍をし、原富太郎となった。それから7年後、明治32年、31歳で原家の稼業を継いだ(原源三郎が明治32年72歳で逝去)。(写真:藤棚から大池、涵花亭、観心橋を望む)
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三溪園3(花菖蒲)

2014-06-17 11:42:54 | Weblog
三溪園3(花菖蒲)
H26.06.16 晴れ
 原三溪は、もともと岐阜県の生まれで、青木富太郎という名前であった。彼の父は養蚕、養豚などのかたわら村の村長をしており、裕福な家庭に育った。子供のころから学問、絵、詩文などを学ぶ環境にあった。後に東京の跡見女学校(上流家庭の女子教育を目指した学校。現在の跡見学園女子大学)の漢籍の助教師をやりながら、東京専門学校(後の早稲田大学)で政治・法律を学んだ。(写真:花菖蒲。花弁の中心を見て網目模様があるのはアヤメ、白い筋があるのはカキツバタ、黄色い筋があるのはハナショウブと書いてあった。オラにはさっぱりわからない。ちなみにアヤメ、カキツバタ、ハナショウブの順で咲くそうだ)
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三溪園2(花菖蒲)

2014-06-17 11:37:51 | Weblog
三溪園2(花菖蒲)
H26.06.16 晴れ
 三溪園は、以前にも掲載したことがあるので、一部重複するかもしれないがご容赦のほど。
三溪園は、ご承知の通り原三溪が作った庭園である。実はこの土地は、原源三郎(埼玉県出身)という人が生糸商売で成功し、一代で横浜屈指の業者になり購入した土地だそうだ。源三郎は生業のかたわら、銀行の頭取、市議会議長、衆議院議員、衆議院多額納税議員等々で活躍した。明治元年に野毛山と三溪園の土地を購入し、野毛山(現在の野毛山公園)に本邸、三溪園に別邸を作った。(写真:三溪園の八つ橋の花菖蒲)
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三溪園1(花菖蒲)

2014-06-17 11:31:03 | Weblog
三溪園1(花菖蒲)
H26.06.16月 晴れ
 日本国民が一丸となって応援したワールドサッカーだったが、残念ながら初戦は負けてしまった。初戦敗退の場合、決勝トーナメント進出の確立が10%を切るらしい。絶対的に不利になったが、ここからの勝ち上がりが日本人のど根性だ。頑張ってくれーっ!日本国民が一丸となり盛り上がる絶好の機会でもある。少しでも長く楽しませていただきたいものだ。
梅雨の合間の晴れだ。新聞で三溪園の菖蒲が紹介されたので、行って見た。(写真:三溪園、大池の花菖蒲)

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