YAMAKOME

気まぐれ山・旅日記

薬師池公園9(自由民権の像)

2014-06-20 13:45:13 | Weblog
薬師池公園9(自由民権の像)
H26.06.19 晴れ
 平成10年に建立した町田市の市制施行40周年記念モニュメント「自由民権の像」である。「板垣死すとも自由は死なず」の例の自由民権運動である。町田地域出身の石坂昌孝、村野常右衛門等の青年たちが中心となって運動をした。情熱あふれる青年たちの奮闘・努力ぶりを未来に伝えるために建立したのだそうだ。(写真:自由民権の像)
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薬師池公園8(カメとアオサギ)

2014-06-20 12:51:16 | Weblog
薬師池公園8(カメとアオサギ)
H26.06.19 晴れ
 池の中には大きな鯉がたくさん。天気がよかったのでカメが甲羅干しだ。アオサギ(かな?)も自分の陣地なのか、1時間以上もこの場所から動かない。小魚を狙っているのだ。この池の主たちだ。(写真:薬師池のカメとアオサギ)
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薬師池公園7(古民家)

2014-06-20 12:45:57 | Weblog
薬師池公園7(古民家)
H26.06.19 晴れ
 古民家が2棟あった。旧永井家(国の重要文化財(農家))と旧萩野家(東京都指定の有形文化財(医院))。旧永井家は3年前に屋根の葺き替え、壁の改修を行ったそうだ。茅は石巻からの取り寄せで、ちょうど東日本大震災の時で請け負った業者は大変な思いをしたそうだ。ちなみに屋根壁等の改修で10か月、1,000万円だったそうだが、業者の利益はなかったそうだ。(写真:旧荻野家。管理のおじさんが、家の中で煙を起こしていた。虫よけのためだそうだ。時々煙をおこさないと茅葺きの屋根が虫の住み家になるとか。子供のころの田舎を想い出す)
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薬師池公園6(薬師池)

2014-06-20 12:44:21 | Weblog
薬師池公園6(薬師池)
H26.06.19 晴れ
 薬師池は溜池である。安土桃山時代に水田用水地として開拓された。しかし、たびたび泥砂で用水地が埋まった。そのたびに水不足で飢饉になることがあった。そこで江戸時代の後期に溜池を掘り直して作ったものが現在に至っているのだそうだ。(写真:薬師池とタイコ橋)
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薬師池公園5(見分け方)

2014-06-20 12:40:14 | Weblog
薬師池公園5(見分け方)
H26.06.19 晴れ
 季節ごとに花を楽しませてくれる場所だ。梅園(250本)、椿園(410種、1,100本)がある。桜の大木もある。花菖蒲(185種、2,200株)、アジサイ(数不明)、ハス(300平方メートル)、紅葉(モミジが多い)。今後時々お邪魔します。(写真:いずれアヤメかカキツバタ、見分け方看板)
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薬師池公園4(花菖蒲)

2014-06-20 12:38:40 | Weblog
薬師池公園4(花菖蒲)
H26.06.19 晴れ
 菖蒲田は段々になっており、常に水が流れている。カモのカップルが菖蒲田の中で食事をしていた。(写真:ハナショウブ。花弁の中心部に黄色の筋があり、湿地に生えているのでハナショウブ、かな?)
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薬師池公園3(花菖蒲)

2014-06-20 12:36:56 | Weblog
薬師池公園3(花菖蒲)
H26.06.19 晴れ
 花菖蒲。先般、三溪園の物を掲載したが、ここ菖蒲田は趣が違う。幅10~20メートルぐらいで奥行100メートル以上ある。見事だ。(写真:花菖蒲。写真撮影、絵描き屋さんが多い。車いすの見学者も多かった)
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薬師池公園2(アジサイ)

2014-06-20 12:35:08 | Weblog
薬師池公園2(アジサイ)
H26.06.19 晴れ
 アジサイ園があった。満開といったところだ。アジサイにはすべて名札がついている。来園者への配慮が行き届いている感じでとても良い。山アジサイ系が多い。全国の山々を歩き回り苦労して集めたものだろうなあ。原産地名も記していた。(写真:グランデフローラ。北米原産)
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薬師池公園1(ハス田)

2014-06-20 12:29:56 | Weblog
薬師池公園1(ハス田)
H26.06.19 晴れ
 町田市の薬師池公園に行ってみた。道が混んでいたが自宅から車で1時間ぐらいで着いた。四季折々に花を楽しませてくれると聞いていた。町田市が管理をしている。なかなか素晴らしいところである。駐車場は「本日無料」となっていた。木曜日だ。(写真:ハス田。7月中旬から8月中旬に大輪の花を咲かせる大賀ハス。千葉県検見川遺跡で見つかった2000年前の3粒の種のうちの一つが発芽。それを増やした)

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三溪園9(花菖蒲)

2014-06-17 13:23:52 | Weblog
三溪園9
H26.06.16 晴れ
 三溪園内は、和装の婚礼衣装を着たカップルが多い。結婚にあたっての写真の前撮りに来るのだそうだ。多い日には40組も来るそうだ。庭園内は和服の女性もそよそよと歩いている。まさに和に適した庭園である。三溪園にはいくつかのアクセス方法があるが、横浜駅東口2番乗り場から8系統(または148系統(急行))のバスで行き(35分ほど乗車)、本牧三溪園前で下車し、徒歩5分ぐらいだ。横浜の住人で65歳以上で「濱ともカード」を持っていれば入園無料である。(写真:花菖蒲。前撮りをしているカップル4組と出会った)

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三溪園8(聴秋閣)

2014-06-17 13:07:03 | Weblog
三溪園8(聴秋閣:ちょうしゅうかく)
 H26.06.16 晴れ
 原三溪は昭和14年に70歳で亡くなった。その後、三溪園は原家から横浜市に寄贈され、昭和28年に財団法人三溪園保勝会の管理となった。内苑が一般公開されたのは昭和33年からである。 三溪園内の説明をするボランティアの方が常時15,6名いるそうだ。登録している人は約100名ほどいるらしい。「説明案内いりませんか?」に、一度は断ったが、あまりにヒマそうにしているので案内をお願いした。70歳前後のおば様である。毎週月曜日を仕事にしているらしい。「脊柱管狭窄症で腰が悪いから運動のためにも・・・」と。でもオラのように腰が曲がっていない。とても懇切丁寧な説明である。ありがたかった。が、時間がかかりすぎるので1時間程度で案内を中断していただいた。(写真:聴秋閣。徳川家光k公が京都の二条城内に建てて、後に春日局に賜ったとされる建物だ。屋根の形がどこから見ても左右対称ではない。佐久間将監作。障子が心配。閉園の時はすべて雨戸を閉めるのだそうだ。大変な作業だなあ)

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三溪園7(臨春閣)

2014-06-17 12:26:03 | Weblog
三溪園7(臨春閣:りんしゅんかく)
H26.06.16 晴れ
 三溪園には京都、鎌倉等から移築した重要文化財を含め17の建物がある。その中の一つ臨春閣は、紀州初代藩主頼宣公が紀州の紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造りの別荘建築だ。大正6年に三溪園に移築された。この障壁画が有名である。後に描かれた障壁画の本物は三溪記念館にある。大正の初めに、この建物を3円で売り出されたが、三溪は移転費用が膨大なので2円に値切った、という話があるそうだ。8代将軍吉宗公が紀州時代に遊び育った屋敷だそうだ。(写真:臨春閣の一部、客を接待する奥座敷といったところか。この部分は2階もある。現在も使用されることがある。ここからの観月は素晴らしいとか。観月会は9月5日~9月9日、~午後8時半。是非行ってみたいものだ)
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三溪園6(睡蓮)

2014-06-17 12:18:29 | Weblog
三溪園6(睡蓮)
 富太郎の経営の視点は、「私」ではなく「公」であった。たとえ自社の不利益になることでも、製糸業界や横浜の利益になることであれば、私を無にすることもあった。 また富太郎は、絵や書道にも長けていた。号は「三溪」とし「原三溪」と称した。岡倉天心との出会い等から、若い美術家の育成、交流を図り、美術分野の発展にも貢献した。三溪記念館に足跡が展示されている。(写真:睡蓮池の睡蓮。あじさいはあちこちに綺麗に咲いており、密集してはいない。睡蓮は7月からだなあ)
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三溪園5(鶴翔閣)

2014-06-17 12:08:38 | Weblog
三溪園5(鶴翔閣:かくしょうかく) 
H26.06.16 晴れ
 富太郎は、経営の近代化、国際化を図り生糸の大手輸出業者になった。明治35年に本宅を野毛山から三溪園に移した。鶴翔閣がその本宅である(三溪園に入って右に進んだ最初の建物)。富太郎は、自ら絵を描くとともに美術品の収集家でもあり、全国の古建築の建物wを買い取り三溪園に移築をした。その後、明治39年に庭園の外苑部分を一般市民に解放をした。(写真:鶴翔閣。現在は、結婚披露宴、各種宴会、会議、茶会、句会等各種催しに広く活用されている)
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三溪園4(涵花亭・観心橋)

2014-06-17 12:03:37 | Weblog
三溪園4(涵花亭・観心橋)
H26.06.16 晴れ
 青木富太郎氏は、跡見女学校の生徒だった原屋寿(はらやす)さんと結婚することになるが、屋寿さんは生糸商売で成功した原源三郎の孫娘で、婿取りをしなければならない立場であった。青木富太郎も長男で跡取り息子であったが、明治25年に28歳で屋寿さんと結婚、原家に入籍をし、原富太郎となった。それから7年後、明治32年、31歳で原家の稼業を継いだ(原源三郎が明治32年72歳で逝去)。(写真:藤棚から大池、涵花亭、観心橋を望む)
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