12)1963年・昭和38年
新しい年・昭和38年を迎えた。 行雄は気持も改まる思いで、今年中に自分の進路を決めなければと考えているうちに、にわかに百合子を誘って歌舞伎を見に行こうと思い立った。各劇場の正月公演を調べてみると、歌舞伎座では「助六」などの出し物が予定されていた。
彼は以前、歌舞伎研究会の資料で「助六」のカラー写真を見たことがある。その中で、女形役の最高峰と言われる揚巻の打掛け衣装は豪華けんらんを極め、ぜひ一度まぢかで見たいと思っていた。それは歌舞伎の美しさの頂点を極めるものであった。
その時、行雄は、大柄で色白の百合子が揚巻を演じたらどうなるだろうかと、勝手に空想したものだ。それは恍惚とした艶やかさの極致を想わせるものであった。 それ以来、百合子と二人だけで「助六」を見るのが彼の夢となっていたのだが、その夢が実現するかもしれないと思うと胸が躍ってくる。
小遣いの他にも、家庭教師のアルバイト料が入って行雄は2万円ほど持っていた。歌舞伎座の最上等の席で、百合子と一緒に観劇することは十分に可能なのだ。そう考えると矢も楯もたまらない気持になり、彼は百合子にすぐに電話をかけて誘おうと思った。
しかし、これまで彼女に誘いをかけて何度失敗しただろうか! 百合子の家を訪れたいと言って、厳しく撥ねつけられたことが二度ほどある。付き合いを再開しようと申し入れて、罵倒されたこともある。それを思い起こすと、行雄はどうしても怖じ気づいてくるのだ。その日、彼は電話をかけるのをためらって一日を過ごした。
翌日も行雄は躊躇しながら、百合子との想定問答をあれこれと考えていた。しかし、いくら想定問答を考えてもラチが明かない。冬休みはもうすぐ終わろうとしている。彼女の都合を聞いて、歌舞伎座の良い席を早く予約しないと「助六」の観劇自体が難しくなってしまう。これ以上無駄な時間を費やしているわけにはいかない。
行雄は追いつめられた気持になり、ついに電話の前に立った。恐る恐る受話器を取り上げると、彼は覚悟を決めてダイヤルを回し始める。最後の「4」の数字を回す時には緊迫の極に達した。やがて、呼び出しのコール音が聞こえると、誰が電話に出てくるのか全神経が集中する。
出てきたのは百合子の母であった。行雄は努めて冷静に落ち着いた声で、取り次ぎを頼んだ。程なくして百合子が電話に出てきた。「村上ですが、今年もよろしくお願いします。 実はこの正月に歌舞伎座で『助六』を見ようと思っているんだけど、もし良ければ君と一緒に行ければと思って電話したんだ。ああ勿論、代金は僕が持つということでどうだろうか・・・」
彼女の前ではしばしば引っ込み思案になることがあるが、行雄にしては珍しく率直に滑らかな口調で申し入れをしたつもりである。ところが、百合子からの即答がない。とたんに彼は不安と焦燥に駆られてきた。暫くして彼女が答えた。「わたし、『助六』は去年見たばかりです。今のところ行くつもりはありません」
百合子の返事は極めて“ぶっきらぼう”で素っ気ないものであり、その声音は冷ややかで何の温もりも感じさせないものであった。被告が裁判官から冷厳な判決を言い渡されたようなものだ。 期待を裏切られ、短気な行雄は逆上し冷静さを失って叫んだ(これが彼の最大の欠点なのだが)。「君は生意気なんだ! 生意気だ! 生意気だ!」 目の前が真っ暗になった感じである。
すると、百合子は早口になって一気にまくし立てた。「あなたは芯がないんです! どんどんどんどんずれて行くんです。何を考えているのかまったく分かりません。わたしにはまったく分かりません。あなたは本当に芯がないんです・・・」 行雄は意識が“もうろう”とする感じで、そのあと百合子が何を話しているのかよく理解できない状況になった。
彼女が行雄を非難していることだけは確かで、それ以外には何もないようだ。これ以上、電話で何を話すことがあるだろうか・・・「もういいよ、どうでもいいんだ! さよなら」 行雄はそれだけ言うと、電話をガチャンと乱暴に切った。彼は、今度こそこれで全てが終ったのだと思う。
もう二度と百合子とは付き合わないし、また付き合ってはならないと思った。リング上で叩きのめされたボクサーのような気分ではあったが、二度とリングに上らなくても済むのだという安堵感のようなものが込み上げてきた。極めて空しい気持と共に、何かから解放されたような気分に浸ったのである。
行雄は一瞬、これを機に歌舞伎研究会を退会しようかと考えたが、せっかく入会しているのに、百合子とのこんな“いさかい”で辞めるのは沽券(こけん)に関わりそうなので、暫くは留まろうと思い直した。 それにしても、彼女から「あなたは芯がないんです」と言われたことが耳の奥にこびりついて離れない。
俺には“芯”がないのか。 芯がないということは、真実でも誠実でもないということだ。百合子は俺のことを「どんどんずれて行く」とも言った。どんどんずれて行くというのは、信頼が置けないということだ。彼女の非難が心に重く伸しかかり、行雄は沈うつな気分になった。しかし、このあと彼は開き直った。
俺が芯のないデタラメな人間だと言うのなら、もうどうでもいい。百合子のことはどうでもいい。俺は彼女のことなんか一切構わずに勝手にやるだけだ! これから何をしようと俺の勝手だ! 悲しみと怒りが込み上げてきて、行雄は“破れかぶれ”になった。
百合子への面(つら)当てから、彼はとんでもないことを思い付く。よしっ、女を買いに行ってやろう。俺もいい年をして童貞だなんて、ふざけるな! 金はちゃんと持っているぞ、彼女と歌舞伎座に行くための資金がここにあるぞ! 2万円もあるのだ、それで女を買えばいい! これこそ破廉恥でデタラメな考えだったが、行雄は“はらいせ”のために、断固として女を買いに行く決意を固めた。
翌日の夕方、彼は新宿に出かけた。駅で下りて旧赤線地帯の方へ歩いて行くと、真冬の冷たい風が時たま吹き抜ける。身体が寒々としてくるのでコートのポケットに両手を入れていたが、歩くうちにだんだん猫背になってくるようだった。
寒さと空腹感から行雄は熱いものが食べたくなり、途中のラーメン店に立ち寄った。50円の醤油ラーメンを平らげると、身体全体が暖まり心も落ち着いた気分になった。 店を出ると日暮れにはまだ時間が少しあったので、彼は喫茶店に入った。
ホットコーヒーをゆっくり味わっていると、窓の外もすっかり暗くなってきて、ネオンサインの明りが鮮やかに点滅している。ここは新宿の歓楽街のど真ん中なのだと思う。 彼は点滅する赤や黄色、緑色などの明りをぼんやりと眺めていた。
俺はこれから女を買いに行く。そう決意すると、行雄は戦場に初めて出陣する“若武者”の気分になってきた。 彼はふと、全学連のデモの先頭に立って、機動隊の厚い壁に初めてぶつかっていったことを思い出した。あの時は正直言って怖かったが、武者震いする思いだった。それと同じような気分ではないのか。
あの時と違って今は、俺のやろうとすることを誰も阻む者はいない。機動隊も放水車も催涙弾も何もないではないか。 女を買いに行く・・・こんなに簡単に楽に出来るものがあるだろうか。懐に金さえあれば出来るのだ。彼は自分にそう言い聞かせた。
腹ごしらえをして身体も暖まり、コーヒーを満喫して行雄は十分に“戦闘態勢”を整えた。後はやるだけである。 彼は喫茶店を出た。胸を張ってゆっくりと歩き出す。やがて旧赤線地帯に近づいてきた。せっかく暖まったはずなのに、夜風が首筋に冷たく感じられる。今夜は特に冷えるのだろうか・・・
暫く行くと、髪を短く刈ってサングラスをかけた若い男が街角に立っている。見るからに“いかがわしい”感じのその姿を認めると、行雄はビクリとして身体が緊張してきた。素知らぬ振りをしてその前を通り過ぎようとすると、若い男が声をかけてきた。
「おにいさん、いい所があるよ」 彼は半裸の女の写真を色刷りしたチラシを手渡そうとしたが、行雄はそれを無視して逃げるように足を速めた。若い男はなおも「おにいさん、おにいさん」と言って追いかけてくる。行雄は怖くなって逃げ出した。
「ふん、童貞野郎!!」 背後から悪罵が浴びせられた。行雄は気が動転し心臓がドキドキと鼓動を打ち始めた。こんな所でこういう悪罵を受けるのは初めてだ、彼は恐怖心で一杯になった。“若武者”になった気分で歓楽街に乗り込んできたのに、この不様な動揺はどういうことだろうか。
忌々しいチンピラめ、あんな奴とは絶対に関わるものかと思いながら進んでいくと、旧赤線地帯に入った。道沿いに居酒屋風の店が軒を連ねている。行雄は歩を緩めて周囲を注意深く窺った。 店の奥から通りに目をやる“おばさん”風の女性が何人もいる。あんな女とやるのかと思うと、彼は情けない気持に襲われた。
もっと若い女性がいるはずだと思いながら、次々と飲み屋の前を通っていったが、店にいるのはほとんど中年の女ばかりで、中には老婆のような者も数人いる。 行雄はすっかり嫌気がさしてしまった。彼を嘲弄するかのように、タバコを吹かしながらニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべる太った年増もいる。
その女と目を合わせると嫌悪感で一杯になった。こんな所に来るんじゃなかったと思うと、行雄は逃げ出したい気持になってきた。 どうして俺は女を買いに来たのだろうかと、軽い自責の念が込み上げてくる。売春婦に童貞を捧げるなんて、何て馬鹿な奴だ俺は・・・彼は百合子を想い出した。
彼女への“面当て”から俺はここに来たのだ、なんと恥ずべき行為だろう。そう思うと、百合子の幻影が一段と美しく神々しく輝いてくる。恥知らずめ! 行雄は心の中で自分を罵倒した。彼はもう周囲の飲み屋には目もくれず、次の四つ角を折れて新宿駅の方へ向かおうと足を速めた。
その時、10メートルほど先の飲み屋の前に、大柄ででっぷりと肥えた中年の女が現われ、行雄の行く手に立ちはだかるように道の中央に出てきた。 彼女は無表情というか、むしろ愚鈍な顔付きでこちらを見ていたが、やがて薄ら笑いを浮かべると二、三歩彼の方に近づいてきた。
行雄はギョッとして立ち止まるとこれまでにない恐怖感に襲われた。間違いなく売春婦だと思うと、心臓の鼓動が早鐘のように打ち始め、膝がガクガクと震えてきた。その女に食い殺されるのではという妄想が湧いてくる。彼は目眩がしてその場に倒れ込みそうな予感がした。
女がさらに一歩近づいた時、行雄は我を忘れて駆け出していた。彼は彼女の側を駆け抜けると、四つ角を右に曲って一目散に走った。しかし、膝の震えが止まらないので思うように走れない。酔っ払いが千鳥足で走っているようなものだ。
道順もよく分からないまま喘ぎながら走った。道行く人達が不審な目で彼の後ろ姿を追っているようだった。 10分経ったのか、20分経ったのか時間の意識がないまま、行雄は新宿駅にたどり着いた。その時、彼はようやく安堵の息をついたのである。
買春に行って失敗してから、行雄は自己嫌悪に陥った。俺はなんと破廉恥な人間だろうか、“はらいせ”のためとはいえ、やってはならないことをやろうとしたのだ。彼は真剣に反省すると共に自分を責めた。虚脱感が一段と募るばかりだった。
しかし、新学期が始まると直ぐに期末試験が近づいてきたのが幸いであった。彼はそれで気が紛れることになり、試験の準備と対応に追われるうちに自己嫌悪は薄らいでいった。 教室で百合子と会ってもほとんど気兼ねすることもなく、歌舞伎研究会の会合にも滅多に出席しなくなった。
期末試験に全力を注いだので、結果は素晴らしい出来だった。わずか2課目の「良」を除くと他は全て「優」の成績で終り、漠然とした空しさの中にも行雄は自信を取り戻したように感じた。 そして、百合子と断絶状態のまま春休みに入ると、彼は旅行の計画を練り始めた。
まだ寒さが残る季節だったので温暖な南の方に憧れ、1年前に行った九州は避けて四国への旅を考えた。 しかし、独りで行くのは寂しさが募る恐れがあるので、彼は友人の向井弘道を誘ってみることにした。話しをかけてみると向井も心良く応じてくれたので、二人は3月上旬を過ぎた頃に出発した。
坂出(香川県)に行雄の叔父夫妻が住んでいるので、そこを拠点として四国中を旅することになり、二人は叔父の家に一泊したあと予讃線に乗って愛媛県の方から回ることにした。もっぱら電車とバスを利用するしかなかったが、風光明媚な所は時間の許す限り歩き回った。
高知県では足摺岬から室戸岬にまで足を伸ばした。徳島県を経て坂出に戻った時は二人とも相当に疲れていたが、ひと休みすると、従弟に案内されて金刀比羅宮や栗林公園、小豆島にも赴いた。 2週間以上にわたる四国旅行だったが、向井と一緒の旅は楽しかったし、叔父の一家にも温かく持て成されて行雄は“憂い”を忘れることができた。
1年前、百合子に呪いの絶交状を出して九州を旅行した時は、独りだったせいもあるが、しばしば彼女の幻影に悩まされたものだ。 しかし、今回は友と連れ立つ旅だったので嫌なことは全て忘れることができた。彼は向井にも叔父の一家にも感謝しながら帰路についた。
家に戻ると、久乃が待ちかねていたかのように、森戸敦子の結婚式の写真を何枚も見せてくれた。敦子の母が数日前に送ってきたというのだ。 大学のチャペルでO氏と結婚式を挙げた時のもので、幸せ一杯という感じで花のように美しい笑顔を見せる彼女が写っていた。
敦子はまだ大学生だというのに、もう満開の幸福をつかんでいる。彼女との交友の思い出が幾つか甦ってきたが、行雄はそれらを打ち消すように思いを改め、心の中で「敦子ちゃん、おめでとう。ずっと幸せになってよ」と潔く念じた。