1月29日(水)<中居正広がX子を食事に誘ったんだって!>週刊文春が問題の記事を差し替えて謝罪した。当初、フジテレビの社員・Aが、同社の女性アナウンサーX子に「中居さんや自分を含めた大人数で食事をしよう」と誘ったとしていたが、それは誤りで、中居がX子を誘ったというのだ。週刊文春はこれを27日の有料の電子版だけで報じ、お詫びして昨日のホームページ上に公開した。ただし、A氏が問題のトラブルに関与した事 . . . 本文を読む
〈2014年12月3日に書いた以下の記事を復刻します。〉
総選挙の公示で昔、テレビ局でいろいろな選挙報道を手がけたことを思い出した。大変だったが、今になれば楽しい思い出である。冬の選挙となると、雪の多い地域の取材は大変だった。ある時、たしか北陸地方や長野などを担当したことがあるが、短い期間に強行スケジュールで取材をしなければならない。ちょうどこの季節だったと思うが、長野県のある所で一泊し、北陸の . . . 本文を読む
〈以下の記事を復刻します。〉
サラリーマンとしてFテレビにいた時、最もやりがいがあったのは地方のテレビ新局づくりである。いつも失敗談ばかりしているので、たまには自慢話もいいだろう(笑)。しかし、これは本当の自慢ではなく、思いがけないことが幸いした話だ。やや専門的になるので、難しい話がいやな人とはここでお別れしよう。私は「小選挙区制」というのが嫌いで、今でもその思いは変わらない。できれば中選挙区制 . . . 本文を読む
<以下の記事を復刻します。>
新聞でもテレビでも、記者になったら一日も早く現場で仕事がしたいだろう。私もテレビ局入社後、報道に配属された時にそう思った。ところが、内勤の仕事などが長く続いてなかなか外へ出してくれない。早く記者クラブに出たいと希望を言うのだが、3年半ぐらい内勤の仕事をしていた。ようやく26歳になった頃、人事異動で「警視庁記者クラブ」への配属が決まった。私は嬉しくなって「よしっ、やる . . . 本文を読む
<以下の文を復刻します。>
下手なカメラマンとは私のことだ。もう50年以上も昔の話だが、私はフジテレビの報道局に入ってから記者の仕事をしていた。当時は内勤の整理記者だったが、ある時、報道局の幹部が「テレビ記者というのはこれから、書けて、話せて、写せることが出来なければならい」と訓示した。要するに記事を書くだけでなく、テレビの前でレポートをし、さらにカメラで撮影しなければならないというのだ。記事だ . . . 本文を読む
<古い記事ですが、以下の文を復刻します。>
1) つい先日、逸見政孝君のことを思い出した。逸見君と言えばフジテレビの元アナウンサーで、その後フリーになってテレビで大活躍した人物である。覚えておられる方も多いだろう。その彼が48歳の若さで、胃癌で亡くなった時は驚いた。もう20年以上も昔の話である。私もかつてフジテレビの社員だったから、逸見君のことはよく覚えている。一緒に仕事をしたこともある。そこで . . . 本文を読む
<2011年1月11日に書いた記事を一部修正して復刻します。>
元フジテレビの大プロデューサー・横沢彪(たけし)さんが8日、都内の病院で亡くなった。73歳。横沢さんについては多くを語る必要はないだろう。彼のお陰で、視聴率最悪のフジテレビが、起死回生の復活を遂げたのだから。いわば、フジテレビの最大の功労者の一人である。何かテレビの“申し子”のような . . . 本文を読む
<だいぶ昔の話で長くなりますが、2002年3月に書いた記事を一部修正して復刻します>
1) テレビ局には、実にさまざまな電話がかかってくる。 私は定年前の約3年間、某テレビ局の「視聴者なんでもサービスセンター」という部署にいたので、いやと言うほど、視聴者からの電話を受けた経験がある。 電話の大半は、問い合わせである。 放送予定や番組内容、出演者、曲名、テレビ局のことなどが、問い合わせの主だったも . . . 本文を読む
〈2014年10月6日に書いた以下の記事を復刻します。〉
例・・・イコンの一つ
昨日は大量の浮世絵の名品がアメリカへ持っていかれた話をしたのでむしゃくしゃしたが、今日は逆に、ある美術品を日本に持ち込んだ話を思い出したのでする。それは「イコン」と言って、聖像とか聖画像と呼ばれるものだ。2人の先輩はもう他界したのでプライバシーとは関係ないと思うが、昔 私が某テレビ局の外務省担当記者をしていた頃 . . . 本文を読む
<瀬戸内寂聴さんは2021年11月9日に他界されました。享年99歳。この記事は2015年6月に書いたものです。>
先日、作家で文化勲章受章者、僧侶の瀬戸内寂聴さんが、新安保法案に反対し「反安部」の強い決意を表明して大きな話題となった。その模様を見て私も感銘し、彼女の小説『夏の終り』などを初めて読んだしだいである。93歳の瀬戸内さんが“反戦”にかける思いは強烈なもので、 . . . 本文を読む
もう50年以上も昔のことだが、当時勤めていたテレビ局の朝のニュース番組に「記者席」というコーナーがあった。ここでは毎日、記者が取材したものを話すことになっていたが、ある日、私がそのコーナーで話しをする番になった。早朝なのでいつものように車で局に駆けつけるのだが、その日は、首都高速道に入ると間もなく大渋滞に巻き込まれてしまった。どうやら交通事故が起きたらしく、車はにっちもさっちも進まない。時間に余裕 . . . 本文を読む
某テレビ局の報道に入って、初めて取材に行ったのが「かなりや祭」だった。これは毎年4月3日に、東京・上野の不忍池(しのばずのいけ)のほとりで開かれるもので、有名な童謡『かなりや』を記念するものだ。今でも開かれているのだろうか・・・私が某テレビ局に入ったのが昭和39年(1964年)だから、とんでもなく古い話だ。古いのは承知で、これも思い出の一つだからお許し願おう。当時は“デンスケ&rdqu . . . 本文を読む
<2008年8月に書いた以下の記事を復刻します。>
誰だって「始末書」なんか書きたくない。事故を起こした場合、その当事者が事故の経緯を上司に報告する文書だからだ。しかし、私にはその嫌な経験が1回だけある。実に不名誉なことだ。私の場合は、いつものようにテレビ放送に関するものだが、もう20年近く前になるだろうか、昼ニュースのデスクを担当していた時に不祥事が起きた。ニュースというものはしばしば&ldq . . . 本文を読む
<以下の記事を一部修正して復刻します。>
最近、古い日記を読んでいたら、昔の「フジサンケイグループ」というのは、日本の左翼はもとより、中国や北朝鮮など共産圏諸国から徹底的に嫌われていたのを思い出した。 それは当時、フジサンケイグループを取り仕切っていた鹿内信隆(しかない・のぶたか)氏が、日経連出身の根っからの“反共主義者”だったからだろう。例えば、中国と台湾の位 . . . 本文を読む
13) 個人的な話になるが、その頃の私は報道の職場が嫌になっていた。入社以来28年もいると飽きも出てくる。N報道局長ともあまり上手くいかないし、50歳になると体力も衰える。前にも言ったが、組合出身の同期生らが非組合系の私よりどんどん上役に就く。不満が溜まっていた。 ある日、同期のM君(組合出身)が私に「部長になる気はないか」と言ってきた。たぶん、N局長の意向を受けて話してくれたのだろうが . . . 本文を読む