<2012年8月に行ったサハリンの州都・ユジノサハリンスクの記事を復刻します>
サハリン(樺太)の州都・ユジノサハリンスクは、日本統治時代に「豊原」と言ったが、今でも戦前の面影が残っている所が幾つもある。 中でも「郷土博物館」は1937年(昭和12年)に建てられた純日本風の建物で、和風の庭園には旧日本軍の戦車や大砲が置かれている。戦前にタイムスリップした感じがした。
郷土博物館の全景
. . . 本文を読む
〈2018年6月に書いた以下の記事を復刻します〉
2年ほど前、サハリン(樺太)へ旅行する前に偶然 見つけた素晴らしいブログがある。私は鉄道にはまったく素人だが、面白くて素晴らしいのでよくお邪魔したものだ。参考までにご紹介しておきたい。『鐡旅』と言う。(2018年6月3日)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~kokuden/tetu.htm
. . . 本文を読む
〈2002年4月に書いた以下の記事を復刻します。〉
1) 私は時たま秩父へ行くのが好きだ。 もちろん全ての所に行っているわけではないが、ひなびた風情がとても良い。 都会の生活に疲れたり飽き飽きしてくると秩父に行く。 山あいや田舎の景色が心をなごませてくれるし、季節の移り変わりが新鮮に感じる。40年以上も前になるが、大学1年だった私は、極左過激派の闘争や思想についていけずに挫折し、転向を余儀なくさ . . . 本文を読む
<2016年11月に書いた以下の記事を復刻します>
小学生のころ2年近くだったが、静岡市に住んでいたことがある。父親の転勤によるものだが、そのころはよく駿府城公園へ遊びに行ったものだ。私は相当な“悪ガキ”で棒切れなどを持ち、仲間と一緒に公園の中をよく徘徊した。今度、久しぶりに駿府城跡地へ行ったので、懐かしくて写真を何枚か撮った。思い出にそれらを載せておきたい。(2016年 . . . 本文を読む
<2016年11月に書いた以下の記事を復刻します>
小学生のころ住んでいた静岡市・西千代田町へ行った。景色はずいぶん変わったが、変わらないのが家の前を流れる小川だ。澄んだ水は昔のまま流れている。60数年の歳月が流れたのに、小川の流れは変わらない。ここから歩いて10分あまり、いつも通った横内小学校がある。懐かしい。ちょうど小学生たちが列をつくって通った。急いでカメラに収めたが、われわれも昔はこんな . . . 本文を読む
<以前 書いた記事を一部修正して復刻します。>
沖縄の象徴・首里城(那覇市)
57年前(1967年)の真夏のある日、私は友人のW君と一緒に、東京・晴海埠頭から船に乗り沖縄へ向かった。当時の沖縄はアメリカ軍の管理下に置かれていたため、旅行をするにはパスポートや検疫証明書などを用意しなければならず、また通貨も全てドル建てだったので、事前にずいぶん手間がかかった。晴海埠頭を出発してか . . . 本文を読む
<2012年8月29日に書いた記事を原文のまま復刻します。>
サハリン・樺太へ旅行したのは(2012年8月)、第2次大戦の終戦時に、集団自決した9人の乙女を弔うことが最大の目的だった。つまり、慰霊の旅である。 1945年8月、旧ソ連は日本との中立条約を一方的に破棄し、樺太などに侵攻してきた。そして、日本人は至る所で殺された。樺太南部の西海岸に真岡(まおか)という町があったが、今はロシア領・サハリ . . . 本文を読む
子供のころ、熱海をなぜ「あたみ」と呼ぶのだろうかと不思議に思った。なぜ「ねっかい」ではないのか、日本語は難しいと思ったものである。そんなことはともかく、きのうテレビを見ていたら、熱海に観光客がたくさん来て賑わいを取り戻しているというのだ。年間の観光客がたしか570万人で、箱根に次いで全国2位だそうである。本当か? と疑ってしまった。熱海は観光客が減って“かんこ鳥”が鳴いてい . . . 本文を読む
去年、サハリン・樺太へ旅行した時は、稚内からフェリーでコルサコフ港(旧大泊港)という所に着いたが、私を迎えに来てくれたのが現地観光会社のBさんという年配の女性ガイドだった。彼女は率直な人で、すぐに自分は韓国人だと述べた。 実を言うと、私は初め嫌~な感じがした。というのは、サハリン旅行の前に、韓国や韓国人への非難をブログにさんざん書いていたからだ。 ご存知のように、イ・ミョンバク(韓国大統領)は竹島 . . . 本文を読む
サハリン・樺太へ旅行するため、先日、北海道の稚内市に初めて入った。日本の最北端である。稚内は人口の減少が著しく 、5万5千人ぐらいいたのが今や3万8千人を割っているそうだ。典型的な過疎地域である。 200海里規制でスケトウダラ漁業が大打撃を受け、さらに酪農の廃業が進んで不景気となり、就職が難しくなった若者たちが外へ流出しているそうだ。つい最近、某道立高校も廃校が決まったという。町を歩いていても本当 . . . 本文を読む
宮沢賢治は最愛の妹・トシを亡くした後、悲しみのあまり樺太(からふと)へ鎮魂の旅に出かけたという。樺太の南半分は戦前、日本の領土であった。過日、映画『樺太1945年夏 氷雪の門』を見たら、終戦直後、旧ソ連軍が真岡(まおか)という所に侵攻する場面があった。大勢の日本人が殺害されたが、郵便電信局に勤めていた9人の乙女が、もはやこれまでと集団自決するシーンは何とも悲劇的であった。涙、涙、涙である。このブロ . . . 本文を読む