ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

無関心・同調を打破できないのか?(試論 1)(20220718)

2022年07月18日 | 考え直すために

(Ⅰ)無関心と「同調」心理
 日本国民(有権者)は、またまた参議院選挙でも自公政権を支持し多数とした。改憲勢力が3分の2を超えた。安倍元首相への銃撃事件を見て、多数の人々も哀れんでいるようだ。なぜこうなるのかを根本から考えないとなるまい。なぜなのか?!

① 無関心
 日本人の多数は、政治に無関心を決め込んできた。古くを訪ねれば、封建制社会の時代からだろう。強き者に従い、波風を立てず。抵抗の歴史は、公式な記録から消されてきた。いきなり飛ぶが60年反安保も、70年反安保も、沖縄の闘いについても、気づきが足りなかった。そして、大方、忘却してきた。
 日々、一生懸命成り上がろうとあがき、あるいは無難に、上司の目線を気遣いながら生きてきたのだろう。1990年代を迎え、政治状況は連立政権ができるなど一時変わったが、「中流」意識はしぼんでいった。賃金も雇用も営業も不安定化し、劣化してきた。格差の拡大が広がっている。
 それでも抵抗の芽・対抗の力は育まれていない。それどころかますます国家に同調する人々が増えている。このままいけば、私たちはいかなる事態を迎えるのだろうか?

② 同調
 大勢に気遣い、付き従うことは、楽なのだろう。「そうね」と追随していく。これはイジメに顕著に現れる。イジメとは、イジメる奴がいるばかりではなく、イジメる側に同調する奴らがいるから激しいイジメになる。先生がイジメの片棒を担ぐなどの事例も少なくないようだ。イジメる側に立たなければ、自分がイジメられるのだ。
 同調は、組織的に行われると非常に怖い。米国の核爆弾の製造に関わった「マンハッタン計画」や大日本帝国下の「731部隊」などによる生物兵器などの人体実験。人間が悪魔になる事例は少なくない。事実は隠され、反省する機会さえなかなか表に出てこない。
 しかしもっと恐ろしいことは、戦時といえない「平時」の今、起きていることだろう。例えば入管施設で、法的根拠も曖昧なまま行われている拘禁。必要な医療を施さず、放置し、死に至らしめてしまう例。職員内に同調圧力が蔓延し「おかしい」という声はでてこない。第3者の関与など封じ込められ、当局が絶対だ。民族差別が同調を強化している。さらに機密が同調を塗り固めている。

③ 段階を画する時代の中へ
 かって皇国(神の国)だった日本は「大政翼賛会」を作り上げた。政治・軍事・経済ばかりか、あらゆる文化もとりこんで、完璧なまでに天皇を頂点に国家・臣民一体の国を作り上げた。
 今日本は再びこうした時代に踏み込もうとしているのではないか。今は核兵器も原発も多数ある時代の中だ。科学技術も飛躍的に発展している。地球の裏側から、この車が「標的」だと指定すれば、ミサイルを撃ち込める時代だ。他人が苦しんでいる姿を見ることもなく、ゲームにうつつをぬかしているうちに、地球の生命(人間の命を含む)の破滅を迎えるかもしれないのだ。気づかないことは罪深いことだ。

(Ⅱ)個と孤について
  私たちは、今更こうした社会を変えることができるのだろうか? できるかできないかなどと逡巡している場合ではない。一歩前に踏み出さなければなるまい。私は国家の下に踏み潰されたくない。日本が踏みつけてきた沖縄をこのまま破滅に追い込みたくない。私は誰かの贅沢のために殺されたくない。
 だとすると私たちはどこに着目したらいいのだろうか。月並みだが、個から出発するしかあるまい。日本人は「近代的自我」を獲得できないまま、近代がもたらした物質幻想に束縛されている。物と身体・意識の矛盾は半端でない。物を制御できる頭脳がないのだ。例えば電気のために原発を必要だと考え、核汚染による被曝を無視したがるなど。

① 個と孤について
人間は社会的な動物だ。だが、この社会を統御できる能力をもちあわせていない。権力は容易に人を操り、制御できる。人々はマスとなって付き従う。なぜだろうか。個(個体・個性・固有)なのだが、孤でもある。孤独は苦手なのだ。困ったことだが、これを私も否定できない。
 個から始めると言うとき、個/孤を常に考え合わせないとならないだろう。ここがめんどうくさいのは、組織的な集団(決定)と、個人的なつながりを区別しながらも同時に考えないと、個を組織内に埋没させてしまう。その極端な例は連合赤軍の末路だろう。「同士殺し」と言われて批判された。党内権力についた「指導者」が「気に入らない個」を殺していったのだ(1972年)。
いかなる組織でも普段から、かなり丁寧にやらないとおかしなことになる。また、スマホで孤を補うことは、基本的に不可能だ。一人一人の個別の関係を重視しなければ、人間はますます膨大な情報の中で、オタオタしてしまう。
 親は子どもを産み育て、守る。だから子は安心感を得られるのだ。これが得られないと、悲劇となりかねない。だから社会的なフォロー(公助)が必要になる。子は成長していく中で自立し、親離れしていく。同時に親も子離れしていかなければならない。
 私たち人間にとって、孤独とは何だろう。この孤独が、強き者、多数の意思に追随させていくのではなかろうか。私自身余り考えたことがなかったので、今こうだと言えないが、人間は「孤を楽しむ強み」もあろうが、孤独を癒やそうとする「弱み」もなるだろう。お互いを尊重し合える友情を育みたい(男女も含む)。

② 近代的自我について
 自我がなければ、自分を立てようがない。自己を問う。私たちは、自己を見つめる鏡をもっているのだろうか。支配とは露骨な暴力支配ばかりではない。やんわりくるものもある。やんわりと包まれてしまうと、自分を立てられない。近代的自我は、「支配者」(例えば青年にとっては親)との闘いを契機としてしか育めない。誰が支配者なのか、ここを見定めているのか? 思いのほか難しい。

③ 階級意識について
 現代の日本も資本主義社会であり、【資本と賃労働】の関係が基軸としてある。働くということは資本に搾り取られているのだ。労働者階級と言うことになる。しかし、存在と意識が結びつくことは容易でない。「存在が意識を規定する」とK・マルクスは規定してくれるのだが、なかなかそう見えてこない。労働者階級が姿を現す時代は再びやってくるのだろうか? 
 ただし先日の参院選で社民党の大椿ゆうこや服部良一が、労働運動との結合を語っていた。分断支配を大胆に乗り越えていく階級的労働運動の再生が急務だろう。個を意識しながらもっと大きな形で展開できないか。(続く)

註:後半ほぼ書けていますが、ちょっと時間の関係で前半だけ挙げます。いや本来、3部構成になるものです。(3)についてはもうしばらくお待ちください。



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