昨日の朝から書いていた「普天間と辺野古、『辺野古と復帰50年』を考える」を漸く今朝書き上げた。昨日は昼に集合が掛かっていたので、一旦、でかけてしまい、午後からは報告ものの執筆に集中したので、前記の執筆の続きは停まっていた。なかなか書けないものだ。今日も昼頃から撮影に出るつもりでいたが、天気が悪い。雨と視界が悪く、諦めかけている。
撮影ばかりは外に出ない限り一枚も写せない。先週は固め打ちのようにあちこちにでて、大忙しだった。それをまとめてブログに揚げたのは、11月28日の土曜日だ。遅いとか言われたようだが(確かに遅い)、体力がついていかない。撮影には事前の準備と事後の整理(カメラからパソコンに撮影データをあげるなどの物質的な整理と、撮影結果の意味合いを考える頭の整理)を伴う。これができないと、次の撮影に結びつけることができないのだ。こうした準備と整理に時間が掛かり、遅くなる。しかし様々な示唆を得て、次は如何するが決まってきた。年内に多少はやってしまいたい。
たったひとつの身体と頭と心で何もかもやるのは、辛い。しかし様々な問題をひとつの布袋にまとめ上げ、考えることができないと、とてもじゃないが、おいつかない。ひとりでやらなければ、集中できず、邪魔。同時に、一人ではできないことも多い。様々な人のご協力、助力があってこそできることも多いことに気づかされてきた2020年だった。私は、こうしたことに無頓着できたけれど、自覚的でなければなるまい。これは反省と課題だ。
本橋成一さんの写真集「位里と俊」(2017年オフィスエム刊)を見ると、お二人の協業ぶりが窺える。お二人とはあの「原爆の図」や「沖縄戦の図」を描かれた丸木俊さんと位里さんだ。いくら夫婦だって、個性の違う二人が一枚の絵を完成させるためには、どれだけの葛藤があるのだろう。半ばで破きたくなったことも一度や二度ではあるまい。拘り抜くところ、譲り合うところがあるはずだ。
私は「原爆の図」も「沖縄戦の図」もほぼ全部見ていると思う。どれが良いとか悪いとか言うのは僭越だが、それでもでき・ふできはある。お二人の微妙なコミュニケーションの善し悪しが多分に影響しているだろう。
ひとつひとつの「死体」を描くのも、そこに生身のモデルを見据えて書いている。この落差と、生への眼差しが鋭いのだ。原爆や沖縄戦を描いた絵は他にもたくさんあるが、これほど生への眼差しに貫かれた絵は、他にないのではないか。私には真似できない協業ではあるが、参考にすべきだろう。
たったひとつの身体と頭と心しかないからこそ、ささやかであれ協業も必要だし、ごちゃごちゃなものをかき混ぜながら整理していくことも、避けられないのだろう。あと何年(10年余り)しかないと思うと焦りを感じる。愚痴は言うまい。