私は、「歩き続けて、歩き続ける」を掲げ、自分に課してきた。若い頃からだ。自分への励ましであり、意思表明だ。これは、「写真を撮り続けて、撮り続ける」とも重なる。歩くことと撮ることを重ねながらやっており、歩く中での発見・想像・創造を楽しみにしているからだ。現実には見たくないことも多々あるが…。
写真を撮ることは、自分なりの真実(リアル)を撮ることだろう。真実とは何か? ここを極めていかないと、自分イズムはできないのだ。ミーイズムではない。自個イズム。社会の中に生きている自分だから、政治にもモノを言う。この点の追求をみちんとやっていきたい。
その上で、写真には3つのことが重要だ。①写す自己の問題。➁天候・大気などの光と空中の問題。室内写真でも、同様なことがある。人工物の処理。③被写体に何を選び、どう撮るのかという問題。そしてこの3つが輪になっており、重なっている。だからそうそう上手くいかない。この3つを揃えなければ、決していい物はできない。完璧はありえないが、ベストを尽くす。いつもそんな元気を保てないにしても…。
①写す自己の問題
自分自身の心身の調子がいいかどうか。体調がいいか、気になっていることが他にないかなど。ベストコンディションなど、なかなかないのが現実だ。悩みを外すためには集中することだ。一心不乱になリ過ぎると周囲が見えなくなり、気づかないマイナスが生じうる。集中できないときは撮らない方がいいかもしれない。どうしてもの時は、適当に撮りながら意識を集中させていく。
だから側に他人が近くにいると集中できない。一人で撮ることになる。他者といれば、自ずと微妙に変わってくる。これがプラスになるときもあれば、マイナスにしかならないこともある。誰かと連れ立っていくときは、この準備が重要だ。お供にはプラスになる人を選ぶことだ。
➁天候と大気などの光の問題。
これも決定的な要素だ。写真は光のないところでは不可能だ。その場合は自ら発光させるしかない。ストロボや様々な照明装置。私たちを取り巻く大気中に、太陽という発熱と光を出してくれている存在があるから、生物は誕生したのだ。そして私たちは生きている。太陽を神として拝むのは人間の本性と重なっており、理屈に合っている。理屈の組み立て方が問題だが。
光は光源。如何なる光を取り入れるか、はずすか。これひとつで全く別物になる。また反射光は曲者だ。これに邪魔されて大ボケもある。また、意外に良かったりすることもある。但しまぐれに任せてはならない(暗中模索はあり)。この光を邪魔するのが雲などの大気中の浮遊物質。ただ上手くコラボできれば、別世界に引き込まれる。朝焼けとか夕焼けは、太陽と雲などのアンサンブル。海や山々や流氷も含めてのことだが。
ここで留意することは、私が見ている場面の光(乱反射)と、被写体があるところでの光の状況が違うのだ。距離が遠ければ、光源である太陽の位置にもよるが、この違いに気づくのが鈍くなる。これは何百メートルの距離で起きることだが、わずかな距離の違いでも起きる。これも曲者だ。撮ろうと思っていたら、大型車両が通過とか。100%NGだ。撮ろうと思っていた被写体が近づくとそれが大きな影を作ってしまいNGとか。太陽の位置と距離にご用心(太陽は常に動いている。否、地球が常に動いている)。この手で言うと自分が影を作ってしまうNGもある。最悪のパターンだ。相手が動態でなければ、よく見極めること。動態ならば、瞬間で見極めること。判断が間に合わないときは撮っておくことだ。
乱反射も曲者だ。画面だけでは見えないものもある。光源の強さと距離と角度。その間にある乱反射を作り出す物質の見極め。経験値を重ねることだ。
なお、この場面は今しかない。だから後で撮ればいいかは、ないのだ。同じ場面は2度と現れない。ダメなときはパスするしかない。試みることと、曖昧に撮ることは別だ。適当にやっていたらいつまでも適当になる。
③被写体の問題
何を撮りたいか、撮りたくないか。どうしたら自分が表現したいように撮れるか。これは被写体との共演だ。競演もあるし、逃げ、隠れようとするものを捕捉することもある。逃がさないぞの熱気が必要だ。
自分がボケッとしていたら撮れない。相手が人ならば、その人の魅力を探すこと。嫌な奴ならば、何故嫌な奴なのかを考えること。そこを考えないと、立ち塞がる警官とかガードマンに迫れない。頭にくることばかりだが、冷静さを欠いたら、いいものを撮り逃がす。主観主義はダメだ。真実に迫れない。被写体は無限にあるのだ。