ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

【拡散願います】願いがけと希望(20230219)

2023年02月19日 | 考え直すために

もう13時を過ぎてしまった。2023年2月19日(日)晴れ

 私は、しばしばあの山本太郎のやりとりを聞いている。先ほども聞いていた。ある人が政府は原発回帰策をすすめているが、どうすんの?ときいていた。後戻りできなくなると。太郎の答えは、政権展望への長期的な見通しを語るだけで、私は、あれあれと思った。しかしこう無関心な人々が多数派である以上、変えることは客観的に見たら、困難だ。悩まし過ぎる。しかし原発政策は、続ければ続けるほど、打開の道は、困難になリ、塞がれていく。核のゴミが益々たまっていくからだ。この処分の方法を誰も見つけ出していないのだ。原発など即刻止めるべきだ。もしも事故をおこさなくても、このまま行けば、人類の未来は放射能まみれになっていく。

 現に、あの福島第一原発の事故による汚染土をいよいよあちこちにまき散らそうと、今この国の政府が進めている。その実験として東京の新宿御苑等に撒くという。この実験の目標は、「汚染度はもう安全です」であり、まぁ「堅いこと言わずに認めてよ」とどこまで、市民の諦めを誘えるかにあるのだろう。放射性物質には多くのものがあるが、半減期の長いものがある。人生100年だとしても核年は万年とか。レベルが違いすぎる。とうてい人類が生きてきた時間では計れないものがあり、頭がクラクラしてくる。そう思ったら、思考停止に追い込まれてしまう。

 だからこそ、いかんものには、いかんと私たちは言い続けるしかない。国会で多数派をとれるか否かはともかく、今、不断にダメと言い続けるしかない。しかし日本人は絶望的に無関心。長いものに巻かれて生きてきた。神様にお願い事はしても自分で切り開く気概が弱すぎる。自分で考える学び、議論して考える学びを身につけていない。

 希望は私たちにあるのに、その希望を捨てている人たちが多すぎる。その結果が政治への無関心。

 他方で私も「願いがけ」をやっている。ただしこの願いがけは、「合格祈願」などではない。この条件ならこう撮れる、そこに被写体がきてくれないか、など。偶然を必然の中に落とし込むのが私の「願いがけ」。願っている相手は、神様でなない。自分自身。自分自身が希望であり、願いもする。

 山で遭難しそうになったとき、生き抜く力は、自分自身。「大丈夫だ」と願いがけするのも自分自身だ。政治とは救助態勢があるのかないのかだ。海難事故などもそうだし、交通事故への対策や地震対策。社会福祉や教育もそうだ。安保・外交問題も、この視点を譲れない。

 自分の命は、何によって守られうるのか、あるいは、弾き飛ばされるのか? 再び今大きな岐路に立たされている。大文字の国家の「安全」に希望をもつのではなく、小さな一人一人の安全に希望をかけるのが、私の生き方。それを私たちの生き方にしていきたい。 

 「希望は皆さんにある」という山本太郎の呼びかけはまさに正論なのだ。皆さん、つまり私たちの発想・思考、願い・希望を自分自身が持てるか否か。これは私たちが生きている社会をぐっと刺しぬいて、政治を変えていくことで、具体的な像が見えてくる。

 山で遭難したり海で遭難したらどうする? 今私たちが考えるべきなのは、街で「遭難」したり、殺されかねないことなのだ。自殺だって、誰が好き好んで自殺するのだろうか。追いこまれているのだ。身近な人からの暴力も、誰しも暴力を受けない権利が、一人一人は生き抜く権利があるのだ。あきらめちゃいけない。

 私が求める政治とは、小さな弱い一人一人が生き抜ける手段としての政治。これを求め、手に入れることはできるはずだ。勝つ方法は諦めないことなのだ。



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