本日は2022年5月6日。雨は上がっている。これで買い物に行けるぞ。それはともかく、1989年の5月から33年が経っている。私が初めて沖縄の土を踏んだのは、5月6日だとばかり思いこんでいたが、当時のスライド(リバーサルフィルム)を見たら、5月5日だった(訂正)。32軍壕跡地、守礼門、旧平和祈念資料館、嘉手納基地を回り、6日に読谷のチビチリガマ、シムクガマ、7日に石垣島に渡り、白保の自然を守る人々と交流、竹富島、8日に帰ったようだ。
このときは、都区職員労働組合青年部有志の呼びかけによる沖縄の旅に参加したのだった。「沖縄に行けば安保が見える」との呼びかけに、もう私は青年部の歳を超えていたが、呼応したのだ。見るもの、聴くもの皆新鮮だった。沖縄島の空間と時間の極断片を見知っただけでも、無意味ではなかったと思う。
それにしても、当時、ここまでに至るとは思いもよらなかった。また91年6月23日前後に来ている。この前後は天皇の代替わり(89年1月7日未明ヒロヒトが死に、90年11月にアキヒトの即位式があった)の過程であり、超忙しかった。「昭和」から「平成」と謳いあげられたが、ヒロヒトの戦争責任は消えることがない。
そこに沖縄戦の死者たちが私の心の中に入ってきたのだから、重く淀んでいった。幸か不幸か、93年に糸満で天皇出席の全国植樹祭があり、私の沖縄行きは断続的ながら続いた。そこから95年9月4日の海兵隊員による少女暴行事件は、軍隊・軍人の性差別、「男というアホ」と言う問題を抱えながら、改めて軍隊とは何かを問い詰める・続けることになった。ここまでくると、単なる偶然が必然になり始め、96年の反戦地主による軍用地の契約拒否から、代理署名を巡る行政手続き、大田昌秀知事の署名拒否、国の提訴という大闘争に発展していった。
馬鹿な私もここまでくると、この「日本」という国と沖縄との関係はのっぴきならないものなのだと思うようになっていた。そうした中で、私は沖縄戦を強いたこの国の末裔だと意識するようになったのだ。父親は朝鮮人差別を口にすることはあったが、沖縄への差別を口にすることはなかった。ただ、この台湾・朝鮮・中国への差別に貫かれた視覚は、「大日本帝国」(「大日本帝国」と称する以前から)の歴史上、アイヌモシリ・沖縄・台湾・朝鮮・中国へと侵略・差別を拡大してきたのであり、沖縄と朝鮮が無縁ではあり得ない。
こうした歴史の積み重ねの上に、「安保の島」が造られていき、52年4月28日の「日本国の独立」は、沖縄を切り捨て、達成されたのだ。沖縄の基地は単に日本全国の米軍基地の70%だとかという議論ではこぼれ落ちてしまう問題を押し隠してきたのだ。
また、1995年から97年の時間は米ソ冷戦構造の崩壊による、米国の一極支配と対テロ戦争という問題が噴出し、「安保再定義」という政治が大手を振るいだした。「沖縄の負担軽減」というお題目を唱えながら、米軍再編が進み、対中国を意識しだしたグアム再編(2006年)や、自衛隊を先鋒とする「島嶼部への自衛隊基地の配備」(2011年以降)に至る。こうして歴史は繰り返えされるのか。
否、繰り返さない。繰り返させない。今ここが問われている。
しかし経済不況が深まるばかりの上に、コロナ禍に襲われ、ロシアによる戦争が沖縄を含む日本中に張り付くなかで、日本国民は「羅針盤」を決定的に失いつつある。岸田政権は、反ロシア感情に悪のりし、一気呵成に明文改憲に踏み込もうとしている。
沖縄が、このまま経済的な満足を第一義にしてしまえば、ぼろぼろになりながら得たはずの「命どぅ宝」を置き忘れてしまいかねない。いいや、日本の支配階級(権力)は軍事産業と軍隊で儲けるつもりなのだ。だからこそ私は、沖縄という鏡を通せば、見えてくるものを磨き上げたい。沖縄の自立の道は険しい。険しくしているのが、日本という国であり、私たち「日本人」なのだ。沖縄の自律は、属国日本を抜け出す道と重なってこそ、可能となるだろう。このことを自覚し直し私たちは新たな連帯の道を探り、歩き続けたい。