「海勢頭愛 ヴァイオリンリサイタル」から帰ってきました。行きのバスの中で「菅義偉 不都合な官邸会見録」(望月衣塑子+特別取材班 宝島新書 21年1月発行)をほぼ読破。安倍晋三首相の官房長官が首相になり、言葉を紡ぐべき首相が言葉を噤むになり、動脈硬化を起こしていることがよく分かる。
何しろ「国民のくらしを守る」との看板を出しながら、オリンピックに専念し、コロナ対策はずぶずぶのまま。菅氏にとって、「国民の暮らし」とは何なのだろう。この「国民」には、外国人のことは含まれていない事が、ウイシュマさんを死に至らしめた入管行政をみただけでもはっきりしている。また「国民」には沖縄県民のことも含まれていない。沖縄県民の命よりも米軍が大事。そうでありながら、「国民の暮らしを守る」という厚顔無恥さに、私たちは「致し方ない」といつまで諦めているのか?
私たちが主権在民の主人公なのに、いつまで諦めているのだろう。「見ない・聴かない・言わない」の黙り屋になっているのか。この拘束を解き放とう。バキ・バキ!・バキ!!と。でも拘束されていることに気がつかなければ、黙るしかない。泣くだけじゃダメなの。何故泣いているのかを思わなければ。人によって、泣く理由は様々だろう。泣くという日常の政治学が必要だろう。それを言葉にしていけば、発見があり、政治と繋がっていることに気がつく。
映画「パンケーキを毒味する」が近日上映予定らしい。予告編を見ただけだが、抱腹絶倒。ノンフィクションとフィクションのコラボなのかしらんが、シュールな世界は、リアリズムに裏付けられている。いやシュールな世界が支配のリアリズムを打ち砕く。
私たちが生きていける政治をつくり出さなければ、殺される。これは、香港やミャンマー、パレスチナだけのことじゃない。「お前はテロリストだ」と言われて殺されているパレスチナの人々だが、1948年にイスラエルに占領されて拡大されてきた歴史を忘れ、イスラエルを肯定する輩がいる。
私たちもこうしたことを黙認してきたから、再び軍事産業が膨らみ始めてきた。戦争の準備が整えられてきた。「気候危機」と言われているが、そればかりではなく、地球上の問題は複雑にぐるぐる回っている。でも自らの痛みに敏感になれば、そこから様々に見えてくるだろう。
何事も自分の身体とどこかで繋がっている。どこかで繋がっている(リフレイン)。フェミニズムは女性側の問題として語られてきたが、男の側の日常の政治学が必要だろう。ぶん殴る側、犯す側のそうした衝動を質す政治学。こういえば、言い過ぎだろうが、「清く正しく生ききれない」のは何故なのか?
話は錯綜してくるが、もはや「正義VS悪」では解決できない。錯綜している中で、整理しないとならない。袋小路から抜け出す方法を見いだせないと辛いのだ。