◎本稿は「差別・介助・自立を考えるのーんびり世田谷ネットワーク通信」(No.326)(2021年2月25日のーんびり世田谷ネットワーク発行)に寄稿したものです。
沖縄に居を移して7年が経ったー②
差別との新たな闘いを考える前に私が再確認しておきたいこと
一昨日の2月20日18時頃、電話が鳴った。丁度、バスが停車中で、私がバスから飛び降りて話ができた。私は2月18日、19日と沖縄島の南部(沖縄戦で踏み潰された激戦地)に出かけており、20日は那覇から船で本部(もとぶ)まで帰ってきたところだった(この経緯は私のブログ『ヤマヒデの沖縄便り』を読んで頂きたい)。そんな事情で電話に出れたのでこの原稿を今書いている訳だ。
さて前号の末尾に私は「自助・共助・公助」と「差別」の問題を書くとこの連載の入り口を定めたが、これを書き始めたらきりがないことに気づいた。今の私だから書けることもあると判断しているものの、あれほどもっていた反差別論の蔵書は一冊もないのだった。沖縄に引っ越したとき(2013年10月)、「もういらない」と捨てたようだ。本が多すぎて、部屋に入らないからこれは差別ではなく、優先順位だから仕方がない? 本には人格がない。人間ではないから差別か否かの判断は難しいが、ここには権力(強者による支配・被支配)関係は成立していないはずだ。
ところで本紙読者の皆さんは、差別について考えたことがあるだろう。差別にも様々な差別があり、一様に論じることは不可能だ。今月上旬に一斉を風靡した森喜朗オリンピック・パラリンピック組織委員会会長(元首相)は、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」などと発言し、予断を振りまいてくれた。このドサクサの中で知れてきたのは、自民党の幹部会に女性は誰一人入っておらず、特例として参加を認めるが、発言権はないということまでばらされていた。こうした実態と発言に驚きを禁じ得ない。
こんな実態でありながら、「男女共同参画」政策とかよく言えたものだ。建前と実態の乖離が大きすぎる。これだけ露骨な発言だと、さすがに批判が各会から充満し、森喜朗は解任された。
「障害者」差別の場合はどのように見えているのだろうか? 「障害者」との関わりが殆どなくなった今の私には詳しいことは分からない。係わっていないことが差別だと言われれば、ぐうの音も出ない。少なくとも係わらずに言及することは、悪しき評論家の姿勢だろう。
だから些か迂回して考えてみる。差別には差別する(踏む)側と、される(踏まれる)側がある。この周囲で陰険な顔をしながら統制し監視しているのが国家だ。今あげた女性差別や「障害者」差別は〈差別・被差別の関係〉がまだ見えやすい。だがなかには差別・被差別の関係に「?」が付けられている差別がある。沖縄に対する差別はその典型例だろう。露骨な差別支配と隠蔽された差別支配があるのだ。次回からこの問題に迫る。沖縄の問題の裏側から迫っていく。知らないこと・気づいていなかったことを考え始めると、金縛りにあうかもしれないよ。ご注意を!(2021年2月22日)