ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

瓢箪(冷蔵庫)から駒が出た(20240417)

2024年04月17日 | 沖縄暮らし

おはようございます。本日2024年4月17日(水)晴れ

 昨日は当初のスケジュールが2転した。私は「水難」を避けるために冷蔵庫の結氷を取る作業を優先した。10時から15時頃まで掛ったが、無事に終わった。瓢箪から駒はオーバーだが、やけにすっきりした。冷凍庫も冷蔵庫もすっきり美しくなり、保存容量は倍増しただろう。

 溶ける間に床の(拭き)掃除もやり、美しくなった。夜には防衛省などの資料のプリントアウトもできた。これは15日にインクを買ってきたので、心置きなくできたのだ。

 過去のプリントを整理したら、別に大きめの紙が出てきた。測ってみたら、B-3だった。A-3の印画紙の台紙として適当だと判断(一辺を裁断すればバッチリだ)。ついでにA-4の4枚綴りの台紙も割り出した。算数が苦手な私は、現物を測りながらやるのが確実だ。これで、来る写真展の展示スペースの10分の1の図面を作れば、全部で「××枚」とでてくるはずだ。 部分と全体、全体と部分は、常に絡み合っており、両側から進めながら、最後にはめ込めれば、めでたしとなるはずだ。

 国が決める「全体」は、しばしば空虚となり、地域に重石となる。沖縄がそのことを端的に示してきた。踏む奴は、相手が踏まれていることに気がつかず、益々国という全体に収斂され、支えていく。ファシズムに繋がっていくのだ。政治が示す部分と全体は、予定調和になるように仕組まれる(ごまかされる)から、私達がこれを見極めるのは、なかなか難しい。

 これを見極めるのがフォトグラファーの目だろう。いや目であり、耳であり、肌であり、頭だろう。部分しか撮れないからこそ、全体像を探り出そうとするのだ。歴史家はもっとそのはずだが、日本での歴史家に対する評価は低すぎる。だとすれば、私達市民が歴史を学び、個別から全体を串刺しにする(教訓化する)力をつけなければ、米国一辺倒の政治を打破できまい。

 様々な絡み合いを解きほぐすためには、ひとつの理屈からだけでは解けない。4月16日、衆議院補選が始まった。長崎と島根と東京。自民党は長崎と東京を放棄し、島根1区に絞ってきた。どうなるか予断を許さないが、自民党は「裏金」から逃げ切り、安保で前に出たいようだ。「日本国民」って、米国を好み、安保を好むようだ。腐りきっていることがわからないのだろうか。



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