ヨハネの福音書9章に「生まれつき盲目の」男性(Aさんと呼びましょう)がイエス様にいやされた記事があります。Aさんはそれまでこじきをしていたのですが、この奇跡により、生まれて初めて目の見える人々の仲間入りをはたし、一般社会に入れるようになったのです。どんなに未来が輝いていたでしょうか。ただ、まだイエス様のことははっきりとは知りませんでした。
ところがそれが、なにも仕事をしてはいけないとされていた安息日だったこともあり、おどろいたユダヤ人たちの間で騒ぎが起きました。イエス様を憎んでいた人たちはAさんに「どうやって目を治してもらったか」をしつこく聞きます。でもどんなに話しても元々盲目だったことがうそではないかと疑ってイエスの力を認めません。
奇跡によりたくさんの人がイエスを救い主と信じるようになり、あせったパリサイ派は両親も呼び出して真相をたずねます。このとき、すでにイエスを信じる者を会堂から追放すると決められていました。それを恐れた両親は「あれ(息子)に聞いてください」と突き放した言い方をします。会堂から追放されるというのは、ユダヤ人の地域社会から村八分にされるという意味だったからです。
そこでもう一度パリサイ派が本人を呼び出しこう言います。「私たちはあの人(イエス)が罪人であることを知っているのだ」
Aさんも追放のことは知っていたはずですが、はっきりとこういいます。
「あの方が罪人かどうか私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。・・・もしあの方が神から出ておられるのでなかったら何もできないはずです。」Aさんの心にはすでにイエス様への信仰が芽生えていたのです。そしてすかさず彼は追放されました。
せっかく一般社会に入れてもらえたばかりなのに、イエスへの信仰を告白したために村八分という状況に陥ってしまったのです。わたしたちが今住んでいる地域や会社、学校などから追放され相手にしてもらえなくなったらどうでしょう。それがわかっていてイエス様をはっきりと告白できるでしょうか。Aさんはイエスに会ったばかりでしかも目があいたときにはイエスさまのお顔を見ていないのでよく知りませんでした。でも自分にふれてくださったイエスの手、ぬくもりそして目を開けてくださったそのわざを知っていました。
赤ちゃんのような信仰でしたが、追放の恐怖にもまさるまっすぐな信頼が彼を動かしていたのでしょう。
今の彼には、守ってくれる社会、両親はありません。「イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。『あなたは人の子を信じますか』彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した」のです。すでに芽生えた彼の信仰は、イエスを礼拝することによって花開いたのでした。
イエスさまを選ぶために孤独にされた人をイエス様は必ず見つけ出してくださり、一番の友となってくださいます。イエス様もAさんが追放されてまでご自分を選んだことでどんなにうれしかったでしょうか。私たちも自分とイエス様の関係を見つめ直したいですね。