縁有って四国の高知県須崎市に来ています。自宅から4.5時間で高速道路を利用して来られました。以前はフェリ-でよくきた高知ですが、高知からもう少し西の須崎市は人口23.000人少しの町ですが、海の幸の豊富な町です。 市内を流れる新荘川にはニホンカワウソが生息している痕跡が近年まで報告されており、市民憲章には「のこそう かわうそのまち すさき」と謳われています。海はとても綺麗です。
この度は「暮らすさき」の御世話で滞在出来ました。とても綺麗な住宅を用意して頂き有り難うございます。この3人の高知美人がスタッフです。高知人はひとなっこく優しいです。昨日到着して今日早速かつおのタタキ体験に参加させて頂き焼き上がった新鮮なかつおを頂いてみました。
大阪では殆どポン酢とニンニクで食べていましたが塩で頂くと格別焼き上がってすぐだと塩で食べる事も出来るようです。
立派なスポ-ツセンタ-も有ります3アリ-ナはすごい
須崎市の野見漁港から北へ走った所の山すそに須賀神社と言う神社有り、秋祭りには高知県の保護無形文化財に指定されている花取踊りが行われるこの神社の境内に、推定樹2000年の大きなクスノキが立っていました。
須賀神社から少し離れた所に武市半平太像が有ります。 土佐勤王党盟主。文政12年9月長岡郡仁井田郷吹井村(高知市仁井田)下級武士の家に生まれる。一藩勤王の理想に燃え、尊攘に挺身、吉田東洋を殺害。公武合体論の容堂により投獄され、慶応元年5月自刃。享年37才....と案内にありました。
帰り道目にとまった眼鏡橋 「糺ノ池より市街地を東に流れる堀川に、糺町(現、東糺町、西糺町)と横町(現、横町、西古市町へ通じる往還道として架橋したもので、明治初年の記録に は木橋で糺橋と呼ばれ、この道は古く藩政時代より幡多路への往還道でもあった様で、その後明治34年に橋からアーチ形の石橋に架け替え眼鏡橋と命名され た。市内唯一の石橋であったが交通量の増大によって昭和56年に取り壊されコンクリート橋に成った様 (須崎2日目)