赤旗がまたしても、小沢一郎 元自治大臣の「政治とカネ」を追及?
旧新生党マネー1億円 小沢元代表支部へ流れる 公金私物化、迂回献金の疑い 収支報告書で判明(阿修羅)
ところで、私は古くから、元市会議員の共産党のおばちゃんとつきあいがある。以前、その人に聞いてみたことがある。
『共産党の主張と、小沢一郎が目指す主張とは、今やほとんど違いはない。民主党と手を組む必要は全くないが、小沢とは組んでみたらどうか?』
すると、
『そんなもん、「大本が違う』わい!』
という答えが帰ってきた。
ところが、共産党の党運営に批判的な党員が主に集う「さざなみ通信」を見ると、共産党員の中に小沢一郎シンパが少なくないことに驚かされた。つまりは、共産党の主義主張を実行できる力をもつ一番の政治家は、小沢一郎である、という認識があるのだろう。
さて、「迂回献金」の話だけど、はっきりいって、自民党、公明党、みんなの党・・・ら野党も当然のごとく行なっているような類の話にすぎない。
共産党だって、子飼いの出版社に企業献金だとバレないようにするため、社長個人名で何度かに分けて個人献金させていることが政治資金報告書で「明らかになっている」。
日本共産党中央委員会の政治とカネ(受注企業との怪しい関係) <地獄への階段>
これも「まさしく迂回献金」だよな。
旧新生党マネー1億円 小沢元代表支部へ流れる 公金私物化、迂回献金の疑い 収支報告書で判明(阿修羅)
ところで、私は古くから、元市会議員の共産党のおばちゃんとつきあいがある。以前、その人に聞いてみたことがある。
『共産党の主張と、小沢一郎が目指す主張とは、今やほとんど違いはない。民主党と手を組む必要は全くないが、小沢とは組んでみたらどうか?』
すると、
『そんなもん、「大本が違う』わい!』
という答えが帰ってきた。
ところが、共産党の党運営に批判的な党員が主に集う「さざなみ通信」を見ると、共産党員の中に小沢一郎シンパが少なくないことに驚かされた。つまりは、共産党の主義主張を実行できる力をもつ一番の政治家は、小沢一郎である、という認識があるのだろう。
さて、「迂回献金」の話だけど、はっきりいって、自民党、公明党、みんなの党・・・ら野党も当然のごとく行なっているような類の話にすぎない。
共産党だって、子飼いの出版社に企業献金だとバレないようにするため、社長個人名で何度かに分けて個人献金させていることが政治資金報告書で「明らかになっている」。
日本共産党中央委員会の政治とカネ(受注企業との怪しい関係) <地獄への階段>
これも「まさしく迂回献金」だよな。
コメントで、ミッドナイトよりも早朝前売りならぬ、早朝競輪やれ!という意見があった。ま、それには程遠いが、静岡競輪、最終レース時刻はかなり早いです。
TOOL4より
平成23年11月26日
静岡競輪はこの時期に成れば、日没が早いため、4時半以降は暗く成り、正常なレースをやれないと施行者は判断。売り上げ減を承知して最終レースは4時5分のスタート。1レースの発走も10時45分。これは理想型、物足りないファンはナイターに移行すれば済む話。他の場もこうあってくれたらと私は望んでますが、、ファンも慣れたらこっちの方が良いのでは。2日目も自力型が多く、車券的には面白いレースばかり。
思えば、大師匠がいつも、
『おう!競輪ない日は売上ええのう!』
と言っているので、笠松競馬の1レース発走時刻を9時か9時半ぐらいにして、最終レースは午後1時半ないし2時ぐらい。あとは、大井・川崎・ホッカイドウ・高知などのナイター場外としたらどうかと述べたことがある。というのは、それくらいに終われば、競輪も、一宮や岐阜あたりだと、3レースぐらいは打てるからね。
つまりは、競輪とのバッティング開催には、こうした「モーニングレース」がもってこい、と思うんだけど、ま、競輪というと、特に爺様の多い競技だから、実は早朝レースのほうがいいわけで・・・
もし逆に競輪が笠松よりも先んじて早朝レースをやるようならば、笠松は逆に始まりを正午あたりにもってくればいい。これで、「競輪対策」はばっちり?
しかし、昨日書いたけど、ぜんざい公社さながらの笠松の体質だと、そんなアイデアは浮かばないだろうね。
なんだこりゃ、笠松の話ばかりになってしまったな。
ま、T社長もさすがに「爺」だから、朝のほうがいいのか?
TOOL4より
平成23年11月26日
静岡競輪はこの時期に成れば、日没が早いため、4時半以降は暗く成り、正常なレースをやれないと施行者は判断。売り上げ減を承知して最終レースは4時5分のスタート。1レースの発走も10時45分。これは理想型、物足りないファンはナイターに移行すれば済む話。他の場もこうあってくれたらと私は望んでますが、、ファンも慣れたらこっちの方が良いのでは。2日目も自力型が多く、車券的には面白いレースばかり。
思えば、大師匠がいつも、
『おう!競輪ない日は売上ええのう!』
と言っているので、笠松競馬の1レース発走時刻を9時か9時半ぐらいにして、最終レースは午後1時半ないし2時ぐらい。あとは、大井・川崎・ホッカイドウ・高知などのナイター場外としたらどうかと述べたことがある。というのは、それくらいに終われば、競輪も、一宮や岐阜あたりだと、3レースぐらいは打てるからね。
つまりは、競輪とのバッティング開催には、こうした「モーニングレース」がもってこい、と思うんだけど、ま、競輪というと、特に爺様の多い競技だから、実は早朝レースのほうがいいわけで・・・
もし逆に競輪が笠松よりも先んじて早朝レースをやるようならば、笠松は逆に始まりを正午あたりにもってくればいい。これで、「競輪対策」はばっちり?
しかし、昨日書いたけど、ぜんざい公社さながらの笠松の体質だと、そんなアイデアは浮かばないだろうね。
なんだこりゃ、笠松の話ばかりになってしまったな。
ま、T社長もさすがに「爺」だから、朝のほうがいいのか?
大毎、阪急、近鉄で通算8度のパ・リーグ制覇をもたらした西本幸雄さんが心不全のため25日亡くなった。91歳。
旧制和歌山中学を経て、一般入試で立教大学へ入学。その後、八幡製鉄、全京都、別府星野組と社会人野球のチームを渡り歩き、別府星野組に在籍時は、1949年の都市対抗野球大会でプレーイングマネージャーとして優勝をもたらした。
1950年、プロ野球は2リーグ分裂初年度を迎えたが、毎日に入団。同チームのパ・リーグ及び日本シリーズ優勝に貢献。
1960年、毎日改め大毎オリオンズの監督に就任。「ミサイル打線」と称する強力な打線を有して、10年ぶりのパ・リーグ制覇をもたらしたものの、日本シリーズで、三原脩率いる大洋に4タテを食らう。特に第二戦、スクイズ失敗が引き金となって敗戦したことから、永田雅一オーナーに厳しく叱責されたことは有名。その後事実上解任される。
1962年、阪急のコーチに就任。翌1963年より監督に就任。しかしながら、当時の阪急は万年Bクラスという弱小球団であるがゆえに成績は振るわず、1966年シーズン終了後、監督信任投票を自ら求めるほどだった。
しかし、信任投票事件があった翌年、阪急は球団創設初となるパ・リーグ制覇を果たし、以後3年連続でリーグ優勝。さらに1年置いて、1971年からも2連覇した。しかし、当時は巨人のV9時代だったため、日本シリーズではいずれも巨人の後塵を拝した。1973年、パ・リーグで全後期制が最初に行われた年だったが、後期では圧倒的強さを発揮。しかし、プレーオフで、野村克也率いる南海に敗れた。これを機に阪急の監督を退任。
1974年、これまた、当時一度としてリーグ優勝実績がなかったため、「お荷物球団」とさえ揶揄された近鉄バファローズに監督に就任。
1975年、阪急の剛速球投手、山口高志への対策として円陣を組ませ、「1球目は絶対に打つな!」と命じたにもかかわらず、先頭打者の羽田耕一が初球を空振りしたばかりか、その後凡打したため、殴打したという事件が発生(ちなみに羽田はその円陣の輪には入っていなかった)。しかし近鉄はその後、パ・リーグの後期を制し、球団史上初の優勝を経験することになったが、プレーオフで阪急に敗退。
しかし1979年、前期を制した近鉄は、当時日本シリーズ3連覇中の阪急をプレーオフで破り、同球団史上初のパ・リーグ制覇を果たした。しかし、古葉竹識率いる広島と対戦した同年の日本シリーズでは「江夏の21球」で有名な第7戦を落とし敗れた。続く1980年は後期を制し、前期優勝のロッテをプレーオフで下し2年連続のリーグ制覇を果たしたものの、再び広島と対戦した日本シリーズでは、先に王手をかけたものの、またしても3勝4敗で敗れた。1981年、近鉄は最下位に終わったが、この年を最後に勇退した。
もっとも、その後西本さんに監督要請話がなかったわけではない。特に阪神タイガースからは何度となく要請を受けていたと言われている。
1984年オフ、安藤監督を解任した阪神は、チーム再建のためには西本さんの力が必要だと要請。実際のところ、「西本・阪神監督」寸前まで行ったと言われている。ところが、「外様」の西本さんの監督就任を快く思わないOB会に阻止された。その後西本さんは、吉田義男にしたらどうか?と阪神フロントにアドバイスし、吉田が2度目の阪神監督就任となったが、翌1985年、阪神は現在も唯一の事例である、日本一を果たした。
さらに2001年のオフ、野村克也が辞任することになり、野村は後継に西本さんの監督就任をフロントに要請したと、自身の本でも書いているが、西本さんは高齢を理由に断ったという。
私の親父がよく、
『西本みたいな笑わん人間、他に見たことないで!』
と言っていたが、かなり厳しい人だったみたいである。ま、阪急、近鉄は就任当時「お荷物」だったから、強くするためにはそれ相当の厳しさがなければならないのは当然のことであるが、ビンタは当たり前、ひどいときには鉄拳や回し蹴りまであったとか。
とは言っても、多くの選手が西本さんについていったのもまた事実。つまりは、それなりの「愛情もあった」ということであろう。
また、3球団で優勝をもたらした監督は、上記の三原と西本さんだけである。さらにいえば、西本さんは、就任した球団で全てリーグ優勝をもたらした。
ま、日本シリーズを一度も勝てなかったため、「悲運の名将」とよく言われるが、8度もリーグ優勝をもたらしたプロ野球の監督などそうそういない。さらにいえば、何度も言うように、阪急、近鉄が初優勝を果たしたのは西本さんが監督だった時代である。
その後、阪急は日本シリーズを3連覇して黄金時代を謳歌したし、近鉄も西武の黄金時代に果敢に食らいついたことで知られる。その土台作りは西本さんが作ったに他ならない。
ご冥福をお祈りいたします。
旧制和歌山中学を経て、一般入試で立教大学へ入学。その後、八幡製鉄、全京都、別府星野組と社会人野球のチームを渡り歩き、別府星野組に在籍時は、1949年の都市対抗野球大会でプレーイングマネージャーとして優勝をもたらした。
1950年、プロ野球は2リーグ分裂初年度を迎えたが、毎日に入団。同チームのパ・リーグ及び日本シリーズ優勝に貢献。
1960年、毎日改め大毎オリオンズの監督に就任。「ミサイル打線」と称する強力な打線を有して、10年ぶりのパ・リーグ制覇をもたらしたものの、日本シリーズで、三原脩率いる大洋に4タテを食らう。特に第二戦、スクイズ失敗が引き金となって敗戦したことから、永田雅一オーナーに厳しく叱責されたことは有名。その後事実上解任される。
1962年、阪急のコーチに就任。翌1963年より監督に就任。しかしながら、当時の阪急は万年Bクラスという弱小球団であるがゆえに成績は振るわず、1966年シーズン終了後、監督信任投票を自ら求めるほどだった。
しかし、信任投票事件があった翌年、阪急は球団創設初となるパ・リーグ制覇を果たし、以後3年連続でリーグ優勝。さらに1年置いて、1971年からも2連覇した。しかし、当時は巨人のV9時代だったため、日本シリーズではいずれも巨人の後塵を拝した。1973年、パ・リーグで全後期制が最初に行われた年だったが、後期では圧倒的強さを発揮。しかし、プレーオフで、野村克也率いる南海に敗れた。これを機に阪急の監督を退任。
1974年、これまた、当時一度としてリーグ優勝実績がなかったため、「お荷物球団」とさえ揶揄された近鉄バファローズに監督に就任。
1975年、阪急の剛速球投手、山口高志への対策として円陣を組ませ、「1球目は絶対に打つな!」と命じたにもかかわらず、先頭打者の羽田耕一が初球を空振りしたばかりか、その後凡打したため、殴打したという事件が発生(ちなみに羽田はその円陣の輪には入っていなかった)。しかし近鉄はその後、パ・リーグの後期を制し、球団史上初の優勝を経験することになったが、プレーオフで阪急に敗退。
しかし1979年、前期を制した近鉄は、当時日本シリーズ3連覇中の阪急をプレーオフで破り、同球団史上初のパ・リーグ制覇を果たした。しかし、古葉竹識率いる広島と対戦した同年の日本シリーズでは「江夏の21球」で有名な第7戦を落とし敗れた。続く1980年は後期を制し、前期優勝のロッテをプレーオフで下し2年連続のリーグ制覇を果たしたものの、再び広島と対戦した日本シリーズでは、先に王手をかけたものの、またしても3勝4敗で敗れた。1981年、近鉄は最下位に終わったが、この年を最後に勇退した。
もっとも、その後西本さんに監督要請話がなかったわけではない。特に阪神タイガースからは何度となく要請を受けていたと言われている。
1984年オフ、安藤監督を解任した阪神は、チーム再建のためには西本さんの力が必要だと要請。実際のところ、「西本・阪神監督」寸前まで行ったと言われている。ところが、「外様」の西本さんの監督就任を快く思わないOB会に阻止された。その後西本さんは、吉田義男にしたらどうか?と阪神フロントにアドバイスし、吉田が2度目の阪神監督就任となったが、翌1985年、阪神は現在も唯一の事例である、日本一を果たした。
さらに2001年のオフ、野村克也が辞任することになり、野村は後継に西本さんの監督就任をフロントに要請したと、自身の本でも書いているが、西本さんは高齢を理由に断ったという。
私の親父がよく、
『西本みたいな笑わん人間、他に見たことないで!』
と言っていたが、かなり厳しい人だったみたいである。ま、阪急、近鉄は就任当時「お荷物」だったから、強くするためにはそれ相当の厳しさがなければならないのは当然のことであるが、ビンタは当たり前、ひどいときには鉄拳や回し蹴りまであったとか。
とは言っても、多くの選手が西本さんについていったのもまた事実。つまりは、それなりの「愛情もあった」ということであろう。
また、3球団で優勝をもたらした監督は、上記の三原と西本さんだけである。さらにいえば、西本さんは、就任した球団で全てリーグ優勝をもたらした。
ま、日本シリーズを一度も勝てなかったため、「悲運の名将」とよく言われるが、8度もリーグ優勝をもたらしたプロ野球の監督などそうそういない。さらにいえば、何度も言うように、阪急、近鉄が初優勝を果たしたのは西本さんが監督だった時代である。
その後、阪急は日本シリーズを3連覇して黄金時代を謳歌したし、近鉄も西武の黄金時代に果敢に食らいついたことで知られる。その土台作りは西本さんが作ったに他ならない。
ご冥福をお祈りいたします。
いよいよ明日に迫った、大阪府知事、市長選だが、大阪維新の会が掲げる「大阪都構想」を巡り、過去にも例がない激しい論戦が展開されている。
ちなみに私は大阪市民ではないので、市長選の投票権はありません。が、共産党推薦予定候補が急遽告示前に立候補を取り下げ、共産党自身が全面的に平松市長を支持したこともあり、はっきりいって、大阪市長選は全国的な興味がもたれているが、大阪府知事選は「おまけ」みたいな感じがする。ま、私自身、今回の府知事選は気乗りしないな。
ところで大阪都構想だが、私自身は以前、大阪府と市が、揃ってデタラメな行政を長年に亘って行い、ひいては、「共倒れの借金まみれ自治体」になってしまった原因は、明らかに、「二重行政の弊害」がもたらしたものであると思ったから、大阪市を大阪府に統合してしまえ、と思ったことはある。それに関連する話は、フルルを使って書いたことがある。
ところが、ウィキの「大阪都構想」を見る限り、仮に橋下大阪市長、松井大阪府知事が誕生しても、地方自治法及びその関連法案の改正が成立しない限り、「大阪都」は実現しない。よってこの論点は国政レベルでの話であり、問題は、国会議員及び政府がどのように考えているか、ということになる。
現与党の民主党は地域主権を「一丁目一番地」に掲げている。地域主権ということは言い換えると、できるだけ小さな行政を目指しているということがいえる。
ところが「大阪都構想」は逆に、大阪市のみならず、堺市も組み込むわけだから、必然的に今よりも「大きな行政」となりかねない。さらに。
阿修羅にこんな話が出ている。
■「破産会社」はほんとうに「優良会社」になったのか。首長としての実績を問う---橋下「大阪府改革」を検証する
■大阪府の借金は増え続けているでは、府財政の実態はどうなっているのか、改めて見てみよう。
府債残高は2008年度末で5兆8400億円、09年度末で5兆9220億円、10年度末には6兆739億円。橋下の就任以降も増え続け、過去最高額に上っている。その結果、実質公債費比率(自治体の収入に対する借金の返済ぶりを示す数値。数値が高いほど返済で首が回らない状態)は17.6%(10年度)に達した。人口規模や産業などの条件が近い神奈川県9.9%、愛知県13.4%と比べてもかなり高い。このままでは17年度末に26.4%に達し、早期健全化団体に転落すると府が見通しを示しているほどだ。
一方、橋下がことあるごとに槍玉に上げてきた大阪市の市債残高は10年度末で5兆1048億円。5年前から比べると、約4000億円減った。それに伴って実質公債費比率も下がり、10年度で10.2%。横浜・名古屋・京都・神戸の五大市(最も古い政令指定都市)の中では最も低い。バブル崩壊以降、府市ともに巨額の借金を抱えることになったが、少しずつでも着実に改善されているのは市のほうなのである。・・・大阪府の借金体質は何ら改善されていないばかりか、年々深刻になっている。そして、将来世代へ先送りする構造は変わらず、負担はどんどん重くなっていくように見えるのだ。とても「子供が笑う」どころではない。
何と、橋下・大阪府政下では、借金額は逆に増えているのである。
これで大阪都なんて仮に実現したら、大阪市の借金も加わるわけだから、深刻な財政難状態になるのは必至。下手をすると、「大阪都」は実現早々、財政再建団体に転落しかねない。
ま、二重行政の解消という点を踏まえると、確かに、過去の経緯を見る限り、大阪府、市の統合というのは面白い話なのだが、大阪維新の会、とりわけその代表である橋下 前大阪府知事は、自らが3年9ヶ月の在任中に行なってきた行政について、しっかりと検証、分析しないまま、「大阪市をぶっ壊す!」なんて言っているんじゃないか?
だとしたら、「自民党をぶっ壊す!」とか言ってた、何とかという元首相とダブって見えてくるのだが・・・
ちなみに私は大阪市民ではないので、市長選の投票権はありません。が、共産党推薦予定候補が急遽告示前に立候補を取り下げ、共産党自身が全面的に平松市長を支持したこともあり、はっきりいって、大阪市長選は全国的な興味がもたれているが、大阪府知事選は「おまけ」みたいな感じがする。ま、私自身、今回の府知事選は気乗りしないな。
ところで大阪都構想だが、私自身は以前、大阪府と市が、揃ってデタラメな行政を長年に亘って行い、ひいては、「共倒れの借金まみれ自治体」になってしまった原因は、明らかに、「二重行政の弊害」がもたらしたものであると思ったから、大阪市を大阪府に統合してしまえ、と思ったことはある。それに関連する話は、フルルを使って書いたことがある。
ところが、ウィキの「大阪都構想」を見る限り、仮に橋下大阪市長、松井大阪府知事が誕生しても、地方自治法及びその関連法案の改正が成立しない限り、「大阪都」は実現しない。よってこの論点は国政レベルでの話であり、問題は、国会議員及び政府がどのように考えているか、ということになる。
現与党の民主党は地域主権を「一丁目一番地」に掲げている。地域主権ということは言い換えると、できるだけ小さな行政を目指しているということがいえる。
ところが「大阪都構想」は逆に、大阪市のみならず、堺市も組み込むわけだから、必然的に今よりも「大きな行政」となりかねない。さらに。
阿修羅にこんな話が出ている。
■「破産会社」はほんとうに「優良会社」になったのか。首長としての実績を問う---橋下「大阪府改革」を検証する
■大阪府の借金は増え続けているでは、府財政の実態はどうなっているのか、改めて見てみよう。
府債残高は2008年度末で5兆8400億円、09年度末で5兆9220億円、10年度末には6兆739億円。橋下の就任以降も増え続け、過去最高額に上っている。その結果、実質公債費比率(自治体の収入に対する借金の返済ぶりを示す数値。数値が高いほど返済で首が回らない状態)は17.6%(10年度)に達した。人口規模や産業などの条件が近い神奈川県9.9%、愛知県13.4%と比べてもかなり高い。このままでは17年度末に26.4%に達し、早期健全化団体に転落すると府が見通しを示しているほどだ。
一方、橋下がことあるごとに槍玉に上げてきた大阪市の市債残高は10年度末で5兆1048億円。5年前から比べると、約4000億円減った。それに伴って実質公債費比率も下がり、10年度で10.2%。横浜・名古屋・京都・神戸の五大市(最も古い政令指定都市)の中では最も低い。バブル崩壊以降、府市ともに巨額の借金を抱えることになったが、少しずつでも着実に改善されているのは市のほうなのである。・・・大阪府の借金体質は何ら改善されていないばかりか、年々深刻になっている。そして、将来世代へ先送りする構造は変わらず、負担はどんどん重くなっていくように見えるのだ。とても「子供が笑う」どころではない。
何と、橋下・大阪府政下では、借金額は逆に増えているのである。
これで大阪都なんて仮に実現したら、大阪市の借金も加わるわけだから、深刻な財政難状態になるのは必至。下手をすると、「大阪都」は実現早々、財政再建団体に転落しかねない。
ま、二重行政の解消という点を踏まえると、確かに、過去の経緯を見る限り、大阪府、市の統合というのは面白い話なのだが、大阪維新の会、とりわけその代表である橋下 前大阪府知事は、自らが3年9ヶ月の在任中に行なってきた行政について、しっかりと検証、分析しないまま、「大阪市をぶっ壊す!」なんて言っているんじゃないか?
だとしたら、「自民党をぶっ壊す!」とか言ってた、何とかという元首相とダブって見えてくるのだが・・・