大毎、阪急、近鉄で通算8度のパ・リーグ制覇をもたらした
西本幸雄さんが心不全のため25日亡くなった。91歳。
旧制和歌山中学を経て、一般入試で立教大学へ入学。その後、八幡製鉄、全京都、別府星野組と社会人野球のチームを渡り歩き、別府星野組に在籍時は、1949年の都市対抗野球大会でプレーイングマネージャーとして優勝をもたらした。
1950年、プロ野球は2リーグ分裂初年度を迎えたが、毎日に入団。同チームのパ・リーグ及び日本シリーズ優勝に貢献。
1960年、毎日改め大毎オリオンズの監督に就任。「ミサイル打線」と称する強力な打線を有して、10年ぶりのパ・リーグ制覇をもたらしたものの、日本シリーズで、三原脩率いる大洋に4タテを食らう。特に第二戦、スクイズ失敗が引き金となって敗戦したことから、永田雅一オーナーに厳しく叱責されたことは有名。その後事実上解任される。
1962年、阪急のコーチに就任。翌1963年より監督に就任。しかしながら、当時の阪急は万年Bクラスという弱小球団であるがゆえに成績は振るわず、1966年シーズン終了後、監督信任投票を自ら求めるほどだった。
しかし、信任投票事件があった翌年、阪急は球団創設初となるパ・リーグ制覇を果たし、以後3年連続でリーグ優勝。さらに1年置いて、1971年からも2連覇した。しかし、当時は巨人のV9時代だったため、日本シリーズではいずれも巨人の後塵を拝した。1973年、パ・リーグで全後期制が最初に行われた年だったが、後期では圧倒的強さを発揮。しかし、プレーオフで、野村克也率いる南海に敗れた。これを機に阪急の監督を退任。
1974年、これまた、当時一度としてリーグ優勝実績がなかったため、「お荷物球団」とさえ揶揄された近鉄バファローズに監督に就任。
1975年、阪急の剛速球投手、山口高志への対策として円陣を組ませ、「1球目は絶対に打つな!」と命じたにもかかわらず、先頭打者の羽田耕一が初球を空振りしたばかりか、その後凡打したため、殴打したという事件が発生(ちなみに羽田はその円陣の輪には入っていなかった)。しかし近鉄はその後、パ・リーグの後期を制し、球団史上初の優勝を経験することになったが、プレーオフで阪急に敗退。
しかし1979年、前期を制した近鉄は、当時日本シリーズ3連覇中の阪急をプレーオフで破り、同球団史上初のパ・リーグ制覇を果たした。しかし、古葉竹識率いる広島と対戦した同年の日本シリーズでは「江夏の21球」で有名な第7戦を落とし敗れた。続く1980年は後期を制し、前期優勝のロッテをプレーオフで下し2年連続のリーグ制覇を果たしたものの、再び広島と対戦した日本シリーズでは、先に王手をかけたものの、またしても3勝4敗で敗れた。1981年、近鉄は最下位に終わったが、この年を最後に勇退した。
もっとも、その後西本さんに監督要請話がなかったわけではない。特に阪神タイガースからは何度となく要請を受けていたと言われている。
1984年オフ、安藤監督を解任した阪神は、チーム再建のためには西本さんの力が必要だと要請。実際のところ、「西本・阪神監督」寸前まで行ったと言われている。ところが、「外様」の西本さんの監督就任を快く思わないOB会に阻止された。その後西本さんは、吉田義男にしたらどうか?と阪神フロントにアドバイスし、吉田が2度目の阪神監督就任となったが、翌1985年、阪神は現在も唯一の事例である、日本一を果たした。
さらに2001年のオフ、野村克也が辞任することになり、野村は後継に西本さんの監督就任をフロントに要請したと、自身の本でも書いているが、西本さんは高齢を理由に断ったという。
私の親父がよく、
『西本みたいな笑わん人間、他に見たことないで!』
と言っていたが、かなり厳しい人だったみたいである。ま、阪急、近鉄は就任当時「お荷物」だったから、強くするためにはそれ相当の厳しさがなければならないのは当然のことであるが、ビンタは当たり前、ひどいときには鉄拳や回し蹴りまであったとか。
とは言っても、多くの選手が西本さんについていったのもまた事実。つまりは、それなりの「愛情もあった」ということであろう。
また、3球団で優勝をもたらした監督は、上記の三原と西本さんだけである。さらにいえば、西本さんは、就任した球団で全てリーグ優勝をもたらした。
ま、日本シリーズを一度も勝てなかったため、「悲運の名将」とよく言われるが、8度もリーグ優勝をもたらしたプロ野球の監督などそうそういない。さらにいえば、何度も言うように、阪急、近鉄が初優勝を果たしたのは西本さんが監督だった時代である。
その後、阪急は日本シリーズを3連覇して黄金時代を謳歌したし、近鉄も西武の黄金時代に果敢に食らいついたことで知られる。その土台作りは西本さんが作ったに他ならない。
ご冥福をお祈りいたします。