毎週小説

一週間ペースで小説を進めて行きたいと思います

東風(コチ)の再会 1

2022-08-06 15:11:51 | ヒューマン
倉本美沙子は参道入口の標識を確認しながら、石畳の狭い、緩やかな登り道をゆっくり踏みしめる様に歩いていた。
近いのに此処に来たのは数年ぶり、以前はカメラとスマホを持ち季節事に必ず訪れる地域だった。
まだ春の花は少ないが、ようやく東風(コチ)が体の中を吹き抜ける時を感じ、希望も持てるかもしれないと、自身をかえりみていた。
都心にある外資系の会社に入社して2年、本社はベルギーだがフランス語が公用語なので、学生時代習ったフランス語を活かす事ができ、いずれヨ―ロッパや憧れのフランスにも仕事で行く希望を抱いていた。
そうして仕事に慣れてきた頃、健康診断で血液の要再検査となり、白血病と診断された。
幸いまだ初期段階で、通院治療の為会社には報告せず、新潟の上越市にいる母の病気見舞いに行く用もあり、一週間休みをとり新幹線に乗ったが、これからの予定を一人考えたく、急きょ湯沢で降りる事にした。
まだ春休み前だったので部屋は空いていた。二人部屋を一人で泊まるのだが今は料金が安かった。
早速温泉に入ってみたが、昼過ぎで客はおらず貸し切り状態で、高台からは山あいに囲まれた街並みが遠めに見下ろされ、一望千里の贅沢な一時に心が和んできた。
温泉から上がっても夕飯まてかなり時間があり、先程見下ろしていた大杉の方向にゆっくり下りていった。
樹齢数百年になろうかという大杉の近くに、腰掛けられる大きさの石があり、座ると肌寒い位の澄んだ風が体の芯まで入ってきた。
時を忘れ物思いに耽っていると、上空が急に暗くなり雨が激しく降りだした。
ホテルは遠くはないのだが、雨風が強すぎて歩けず大杉の下に佇むだけだった。
その時、ホテルの方から男性がホテルの傘を差して近寄ってきた。
「大丈夫ですか?一人で歩いて行くのをさっき見かけたので」
「ああよかった急な雨でどうしようかと、あら、田沢さんじゃないの」
「美沙子さん、何で?」


フクロウの街 24

2021-07-15 16:38:25 | ヒューマン
村井の父が一人で住んでいた一角は、短い坂道を下り十件程並んだ家を過ぎると、その先は急階段を上る為、車は突き当りになり、その分静かで暮しやすかった。
学校の行事や町内会の集まりで、人々の繋がりは強くなり、中には親戚同然のつき合いになる家族も出てくる。
その通りの中程に緒方の名前があったと、伯母は記憶していた。
母と娘二人が住んでいたという。
村井はそこに行った覚えはなかったが、話を聞いている内、幼い頃その親子の姿を朧げに見たような気がしてきた。
伯母が疲れてきたのをきっかけに、和菓子のお土産を置いて退散した。
靖子が現在住んでいる下落合の住所も、ここから歩いて行ける距離だ。

先日、銀座にある画廊のオ―ナ―から遺産相続の依頼を受けていたので、挨拶だけするつもりで行ってみる事にした。
通りから一つ脇に入った所で、小さいが落ち着いた雰囲気がある。
中に入ると、左隅にクリスタルのテ―ブルと椅子があり、男女二人がコーヒーを飲みながら談笑していた。
女性の方が村井を見ると、意外な顔をして立ちあがり近寄ってきた。
「あら、なぜ此処に?」
犬の散歩で会う成田真由だった。
「あ、これは成田さん、どうも奇遇ですね、実は仕事関係なんですが」
「ご活躍ですね」
「いえ、もう何でも屋ですから」
「オ―ナ―は急用で外出中なんですよ」
戻る時間が分からないと店長が言うので、画廊を出て近くのカフェに寄り道した。
「成田さんはあの画廊をよくご存知なんですか?」
「父とオ―ナ―が古いつき合いなんです」
「市川在住の成田さんて、あの国会議員の?」
「そうなんです」
「やはり···どうも気安く話して失礼しました」
「そんな、私は普通のOLですわ」
彼女は村井の顔を見据えながら微笑んだ。

靖子は山路の会社で先輩の永瀬と連絡がとれ、赤坂見附のカフェで会っていた。
永瀬の話では、山路は在日朝鮮人の息子だと言った。


唐木田通り 44

2021-07-04 10:53:01 | 唐木田通り
あれからどの位たったのか、随分長く感じられるが、丁度2年過ぎたばかりだ。
生活は全く変わり、会社からは冷たい視線で見られ、結局自己都合で辞める事になった。
それでも会社の紹介で、御茶ノ水にある小さな出版社で急募の求人が有るとの連絡が入った。
もう開き直りの気持ちで面接に行ってみると、4、50代の男性一人が現れ、コ―匕―を入れて持ってきた。
「お待たせしました、今だれもいなくて」
そう言いながら名刺を差し出した。
ルポライター 立石 透 となっている。
「中谷さんは、前の会社では中心的な役割りを担ってたそうで、うちの社にも聞こえてましたよ」
「そんな···それ程の事はありませんわ、メンバーに恵まれていたのです」
「ここはまあ、大手の出版社やTV局から仕事を貰っている、下請けの仕事が多いんですよ、でも勿論自分達のやりたい仕事は絶対にやり遂げる、そういう気持ちで全員動き回っています」
「私、ルポライターの経験はありませんが、お役に立てる仕事はありますか?」
「ここは営業部みたいな所なのですが、所長が急に亡くなってしまったのです、女性所長でした」
「皆さん忙しそうですね」
「中谷さんはとりあえず居てくれればいいんです、電話は殆どありませんし、あっても問い合わせ位で、急用の場合は私に連絡して下さい」
「それでよろしいのですか?」
給料は思ったより良かったので、申し訳ない気持ちでいた。
「慣れてきたら総合的に見てもらう予定なので、所長がやっていた事をね」
「所長の代わりをですか?」
「難しく考えないでいいですよ、あなたなら上手く行きますから」
立石は嬉しそうに頷いた。
由紀子は一応了解して会社を出たが、自信など全く持てなかった。
でも、シングルマザーの現在は何でもやる気で面接したのだと割りきった。
娘の中学入学に合わせ、稲城に借りていたマンションから、両親の住む唐木田に移った。




フクロウの街 23

2021-06-28 13:07:52 | ヒューマン
緒方靖子は村井から、山路がやくざや台湾マフィアとの繋がりもあると聞かされた。
うすうす変だとは感じてはいたが、予想よりも悪い結果になった。
「わかっているだけで7年以上前から東南アジアを中心に、貿易と言うよりブローカーをやって稼いでいたようです」
「ブローカー?」
「そうです違法のね、それが台湾のマフィアに騙され大損したそうですよ」
「そういう事をしてたのですか」
靖子は信じがたく、この頃あまり話をしていない山路と向かい合おうと決心した.

すぐにも問い詰めたい気持ちが強くなるばかりだが、自分には手が負えない大きな闇を感じ始めていた。

村井は妻と長い間会って話をしていないが、決着を着けなければと焦りを感じていた。
法律事務所の仕事は資格が必要な訳ではなく、いわば弁護士のサポート役で、指示がくれば休日や夜遅くなる事も多く、家でゆつくり寛げる時間はあまりない。
家庭を考えれば他の会社勤めにすべきだが、大きな組織より小さな事務所で忙しくしている方が、自分には向いていると勝手に決めていた。
そうした時期に緒方靖子と旅先で知りあい、何故か運命的なものを感じた。
彼女も同様らしく、真っ直ぐな気持ちをぶつけてくる。
村井は下落合に住んでいる90才を過ぎた伯母に会う事にした。
幸いとても体調がよく、昔の事はよく覚えている、と介護をしている周りの人達から連絡があった。
久しぶりに新宿区下落合に向かう為、目白駅からバスに乗る。
相変わらず狭い目白通りをゆっくり進んだ。
伯母の家に着いてみると、付き添いの女性が二人で待っていた。
二人共孫だそうだが勿論初対面だ。
早く終わらせかったので、仕事の途中だと言っておいた。
伯母の話を要約すると、以前下落合4丁目の一部が中落合3丁目に変更された地区があり、村井の父は一時期そこに一人で住んでいたそうだ。
結婚後の事だが、何故一人だったかは分からない。


フクロウの街 22

2018-06-04 16:30:02 | ヒューマン
村井は仕事柄政治家からの依頼もあり、先週は3回内閣府に呼ばれた。
主に国会議員の私的な部分についての相談で、当然公にできない内容なのだが、中にはあまりにも稚拙で飽きれるものも含まれている。
大学法学部を卒業しているが資格を持っていないので、弁護士先生の秘書的な役割を担って仕事先に同行している。
内閣府の書類を整理していると、国会議員のリストが目に入った。
その中に参議院議員、成田健吾の名前があり市川市在住となっている。
犬の散歩で会う成田真由という女性と関係があるのだろうか。

藤中啓子の死体が多摩の山中で発見された。
死後約1カ月で外傷は見当たらず、薬物死の可能性が高い。
山路は早速事情聴衆を受けたが、もちろん何も知らなかった。
緒方靖子は、山路は藤中に関しての情報は全くといっていい程持っていないのは分かっていたが、それでも新しい話の1つても聴ければと我慢していた。
だがそれにも限度があり、組織の方から早くしろとの催促が頻繁になっていた。
中野の火事も藤中啓子と元夫の事件も全て組織の仕業なのだが、靖子は何も知らされてなく実体は謎のままだ。
やはり村井に頼ろうと思った。
法律関係の仕事柄きっと情報にも通じているだろう。

村井は靖子から連絡が来た時、中国と北朝鮮との間のマネーロンダリング(資金洗浄)を研究調査している所だった。
依頼の仕事が多過ぎて会う時間がなく、ファックスとメールで山路と啓子の情報を詳しく送る様指示を出しておいた。
10日過ぎて靖子の元に、多少分かった事もあるので、赤坂で会おうと村井からメールが届いた。
赤坂見附駅近くのホテルで、バイキング形式だがスイ―ツも充実している。
「赤坂はあまり来ないけど、村井さんはよく来るの?」
「近頃はご無沙汰だけれど、今日は調査の件もあって」
「誰の?」  
「山路 稔なんだけれど」
靖子は心穏やかではなかった。






フクロウの街 21

2018-05-17 19:19:20 | ヒューマン


村井はちょっと頭を下げたが、相手は気づいていないかも知れない。
一瞬見ただけだが30才位だろうか、並木の中遠ざかっていく後ろ姿が印象的だった。
たぶん独身で朝出勤前に散歩して帰ってからまた散歩、その毎日は自分と一緒で、ペット可の賃貸マンションが近くにできたが、そこに住んでいるのかもしれない。  

成田真由は気になっている事があった。
朝出勤前に愛犬の散歩に行くのだが、同じ位の時間帯にパグを連れた年配の男性によく出会う。
やはり仕事前に連れ出しているようで、足早に川沿いの道を歩いていく。
日曜日はいつもよりゆっくり起きて、それでも7時頃にはジョギングロ―ドの橋にたどり着いた。
陽気がいいので、本格的なマラソン組から高齢者の散歩組まで、多くの人達の活気が溢れている。
橋を反対側に渡り帰り道を歩いていくと、ベンチにパグを乗せておやつを与えている例の男性が目に入った。
「おやつ貰えてよかったわね」
真由はパグの顔を見ながら話かけた。
「まだまだ子供で」
男性はうつむいてポツリ言った。
「何才ですか?」
「ちょうど1才になりました」
「そう、うちのは3才を過ぎて落ち着いていますわ」
「この子も早く落ち着いてくれるといいんだけれど」
「でもよくなついていますね」
「勝ち気な女の子です」
「お名前は?」
「まゆです」
「あら、私と同じ名前だわ・・・成田真由といいます」
「村井修一です、お住まいも近そうですね」
聞いてみたら、やはり村井の住んだいる所から近い賃貸マンションだった。
「女性にトイプードルは1番人気ですね」
「村井さんはパグ派ですか?」
「職場の同僚に押し付けられました」

フクロウの街 20

2018-05-10 16:53:57 | ヒューマン
「調べる方法はありますか?」
「父方の親戚が1人、叔母ですがもう90才を超えているけど、新宿の下落合にいるので久しぶりに行ってみようかな」
村井は話し出した事がきっかけで、ルーツを知るのもいい時だと考えていた。
1人っ子だった小さい頃を思い出しても、学校の行事以外家族揃って出かけた記憶がなかった。

千葉県市川市は村井にとって縁があり、学生時代初恋の相手がいた所で、現在の住みかでもある。
最も仮の1人用で、妻は3年前に家を出て以来音沙汰がない。
娘は妻の実家に引き取られ休日に会いに行くのだが、近頃はお土産を持っていってもあまり喜ばなくなってきた。
現在1人住まいを見越して、同じ事務所の同僚から犬を預かる羽目になってしまった。  
同僚の奥さんが飼い初めたのだが、奥さんが長期入院になり、ともかく預かってくれと強引に連れてきて、5万円置いてさっさと帰っていった。
まだ5ヶ月になったばかりのパグのメスだった。
とても人懐こく村井の部屋にもすぐに馴れ、昼間の留守は殆んど寝て待っている習慣がついていた。
朝4時半起床、5時過ぎに散歩開始、6時に戻り着替えて職場に向かう。
いままでの夜更かしばかりと全く違う生活習慣に戸惑いを感じたが、馴れてくるに連れ朝歩く気持ちよさが増していった。
散歩の時間は朝5時半頃、夜は帰り次第8時から9時頃で、その時間帯に歩くと同じ散歩の人達とよくすれ違う。
土曜日になり6時半過ぎ、いつもの川沿いの道に向かった。
桜並木のジョギングロ―ドで、休日の朝は早くから人が出るが、この時間はまだひっそりとしている。
村井が帰り道につく頃、グレーのトイプードルを連れた女性とたまにすれ違う時がある。
少し疲れたので、川沿いの道にあるベンチに犬と座っていると、左手からその女性が近づいてきた。
前を通り過ぎる時小さな声で、
「おはようございます」と挨拶をして足早に去っていった。

フクロウの街 19

2017-09-17 09:57:43 | ヒューマン
緒方靖子という女性は一体なにものか、山路は段々迷路に踏み込んでいくようで、理解できないでいた。

仕事が終わって用事がなく思案していると、靖子の方から誘いの連絡がきた。
「山路さん、私旅先で不思議な方にあったのよ」
「どうゆうひとなの?」
「何ていうか40代の男性なんだけと、以前会ったような、もちろん会った事はないのよ、でも知り合いみたいで」
「懐かしいような」
「そうよ、何で分かるの?」
「そうゆう人いるんですよ、前世からの繋がりかも知れない」
「山路さん、オカルト趣味があるんですか?」
「そうじゃないけど、理屈ではわからない事って世の中多いから」

靖子が勤め始めた貿易会社は台湾、中国、ロシアを相手にしていて、彼女にとっては知り尽くした国ばかりで、すぐにでも出張させて貰いたい気分になっていた。
彼女は営業部勤務で、取り引き先の接客係も兼任させられていた。
そうしたある日、台湾に本社がある貿易会社の依頼で法律事務所の関係者と会う予定が入り、待機していると11時丁度にやって来て、受付から廻されてきた名刺をみると村井修一となっている。
「村井さん、奇遇ですね」
「いやぁ、まさか緒方さんとこうした形で再会できるとは・・いつ連絡しようかとずっと思っていたのですよ」
「私も気になっていましたけど、共通の仕事で繋がりましたね」
話が進み、夜近くで軽く呑もうと決まった。 
24時間営業の居酒屋が新しく出来ていたので、中に入ってみると時間が早かったせいか、奥の団体が盛り上がっているだけで空いていた。
焼鳥が50円からある。
一杯目生ジョッキ(中)0円なので早速頼んでみた。
「村井さん、私達本当に遠い親戚か何かじゃないんですか?」
「・・私の父は10年前に亡くなりましたが、間際に、実はもう一人血縁関係者がいるといって逝きました」
「その方の名前は?」
「それが、聞き取れなかったのです」


フクロウの街 18

2016-10-01 11:18:02 | ヒューマン
靖子は食事を一緒にする事に何の違和感もなく、ごく自然に行動した自分に驚く位だった。
懐かしいとか、知っていたという感情に近い嬉しさなのだが、もちろん初対面で過去に巡り会った記憶はない。
「緒方さん、私の部屋は広すぎて、そこしか空いてなかったもので、それで部屋で食事をしませんか、決して危ない事はありませんから」
「そうですね・・その方が落ち着けるかしら」
「よかった、早速食事の支度を頼んできます」
村井は急ぎ部屋に戻り、靖子も薄化粧をして身仕度を整えた。
40分程して靖子が村井の部屋を訪ねてみると、用意は全て済んで村井は古い映画を観ていた。
「どうぞこちらへ」
「お邪魔します、広いですね」
「そうなんですよ、だから一人だと落ち着かなくて、来て頂いてとても感謝しています」
「そんな、私も嬉しく思いますけど・・村井さん、以前何処でお会いしたことありませんか?」
「ないですけど、でも不思議ですね、私も初対面の気がしなくて、つい馴れ馴れしく接してしまって」
「やはりそうでしたか、村井さんは東京生まれなんですか」
「はい、新宿区でした」
「あら、私は中落合に住んでいましたわ」
「そうですか、私は大学時代まで大久保にいました」
「近いですね、大久保は父が仕事で通っていたのを覚えています」
「現在は行かれていないのですか」
「だいぶ以前に両親共亡くなりました」
「それはどうも・・」
「村井さんのご家族は?」
「今は娘と二人です」
「じゃあ仲良しなんでしょうね」
「いや、この頃は難しくなってきました」
靖子は事情を聞いていると、余計身内の様な気になってきた。
1時間程食事を一緒にして部屋に戻ったが、落ち着かなかった。
翌日靖子は帰る前に村井と会い、お互いの連絡先を確認した。
今後会わなければならない時がくると、直感が働いたからなのだ。

山路はこの頃、靖子の考えの変化に困惑していた。




フクロウの街 17

2016-08-26 06:36:17 | ヒューマン
靖子は黙って出ようとしたが、その男の顔をみてどこかで会った気がして立ち止まった。
40才位に見える。
「いきなりで失礼しました、好きな小説の舞台になった所でつい夢中になったもので、村井といいます、怪しいものではありません」
軽く笑いながら名刺を差し出した。
靖子は仕方なく受け取ってみると、中村法律事務所 村井修一と印刷されている。肩書きはついていない。
「先ほどカフェでお見かけしたので」
「緒方と申します」
「この温泉は近いけど来る機会がなくて、やっと時間が取れてほっとしています」
「あの、私部屋に戻りますので」
「お引き止めしてすいません、また機会がありましたら」
靖子は早く一人になりたくて、返事をせずに戻った。
夕食前に温泉に入ったが、高台にあるホテルからの眺めは素晴らしく、神社の大杉や周りの山裾を見下ろして、まさに一望千里の世界にいる。
中学生の時交通事故で両親を失い、残された自分は預けられた親戚で遠慮しながら過ごしてきた。
それがたまらなく、19才の春に飛びだし、他人を信頼する事なく今を生きている。
空いている温泉にゆっくり浸かって土産物売場に行ってみると、村井が買い物をしていた。
「娘になにを買っていいのか分からないんですよ」
靖子の顔をみると、独り言のように呟いた。
「お嬢さん、おいくつなんですか」
「11才になります」
「それならもうあまり子供っぽいものはだめですね」
「そうだな」
靖子は仕方なく合いそうな雑貨をいくつか選んでみせた。
「有難うございました、助かりました」
村井は本当にほっとしたようで支払いを済ませると、お礼にといって、越後縮みの柄が入っている財布を渡した。
「あら、そんなにして頂かなくても」
「いや、ほんの気持ちなんです・・それであの、夕食を一緒にいかがですか、一人だと味気ないので」
「ええ、よろしければご一緒に」
靖子は微笑んで応えた。