遊ちゃんと2人だけの夜

・・自分記録の独り綴り・・

キツオン

2021-05-31 04:32:47 | 不思議なこと

先日、せかせか所長が緊急の空気を漂わせ、

突然スタッフ全員を廊下に集めて、

(すでに子どもが来ている時間帯だったから、

事務所前の廊下に集合させたんだけど)

 

「この子だけど」と小さくメモ書きした氏名を指し、 

「こういうことなんで」とまたメモ書きを指し、

親から連絡が入り、言葉の教室に通っているから、

「この件を本人に聞いたりしないように。あとはこれを回して読んで。」

と参考資料をよこし、2分程で話を終えて、解散させた。

 

そんな小さくて薄いボールペン文字を指しても、

私の位置と私の視力じゃ、全然見えなかった。

 

仕事に戻ったとたん、

同僚仲良しが寄って来てささやき声で、

「あの字、なんて読むの?」と私に聞く。

「まーったく見えなかった。」と言うと、

「何とか音て書いてあった。」

「うーん、もしかして、その字、口が付いてた?」

「それそれ!」

「あー、キツオンだわ。」

「キツオンて?」

「あの子、どもるかな?」

「あ、どもる!」

「そのことよ。本人に聞くなって。」

「そっかー、そうなのかー。」

 

仲良し同僚は、納得したふうに私から離れた。

 

余談だけど、

彼女があの字を読めなかったということは、

見えても誰1人、アレが読めなかったな、と確信した。

そーゆー職場に私はいる。

 

彼女はその子をどもると言ったし、

ベテランKさんは、「なんか普通じゃない感じがしてた」

と言うが、私は気づかなかった。

 

ごく最近入った2年生女児だ。

1人でいる時はほとんど話さず大人しく見えたが、

 

先週、勉強部屋の見守り担当をしている際は、

仲良しの女の子と一緒に、

私の言葉にさまざま受け答えし、

2人で冗談まじりの反論をしたり、活発な面を見せた。

どもることはなかった。

2度3度どもれば、私だって気づく。

意外に意思のハッキリした気の強い子だな、と思ったくらいだ。

ふざけて愉快そうだったから、リラックスしていたのだろう。

 

 

そうか、キツオンも「子どもの問題点」としては、

ADHDやアスペルガーや自閉症などと一緒に「障害」にくくられるのか。

私は違和感を感じたけれど、脳の機能が関係してるから?

同僚らとはこの件を一切話していない。

 

私は別の人のことを思い出した。

高校のクラスメイトのこと、ある男性のこと、

そしてマリリンモンローのこと。

 

マリリンモンローの生い立ちから死までを追った本を、

高校生時代から数冊読んだ。

どの本も、

子ども時代の境遇が精神不安定につながった、という見方で、

同情的なニュアンスと、

一方でどこか蔑む空気感を挟んで描いていると感じさせた。

映画での役どころからくる定着したイメージを覆すことを狙いながら、

どれも同じ「イメージ」をなぞるだけのようだった。

 

マリリンも子どもの頃にキツオンがあった。

親類をたらい回しにされて育ったのが原因だとされている。

マリリンが、ふわっと口を開けてから発話する独特の癖は、

キツオンを矯正したせいだともされる。

いろんな画像を見ていると、歌う場面でも同じだ。

アテレコの日本語はそれを強調しているように感じる。

口を開けた瞬間、息を吸って話し出すような間が、

マリリンの話し方を余計「セクシー?」に見せたかも知れない。

 

キツオンが抜けきらない悩みは、

36年の人生に何度か波のように押し寄せ、

死が近づいていた頃も悩んでいたと言われている。

ケネディの誕生日に、

ハッピーバースデー、ミスタープレジデントと歌う映像は、

この頃キツオンがひどくなっていたことを知った上で見ると、

大衆の目にセクシー過ぎる歌い方に映ったであろう姿が痛々しい。

 

トルーマンカポーティの「ティファニーで朝食を」は、

実はマリリンモンローを主人公にイメージして書いたとされる。 

それを私は20代に何かで読んだ。納得がいった。

主人公ホリーにはマリリン本人とダブる要素がいくつもある。

歌うシーンはオードリーじゃ全然合わない。

だいたいホリーゴライトリーは、オードリーだと違い過ぎる。

 

「ティファニーで朝食を」をやるマリリンが見たかった、

ずーっとそう思ってきた。

天真爛漫そうだけれど、どこか退廃していて、

誰の手のうちにもおさまらず、スルッと逃げていく。

マリリンがやれば、映画は完全に違う作品になった。

マリリンの代表作になったのではないか。

そして女優人生の自信になったのではないかと、思う。

 

 

「キツオン」のことから、

昔の記憶が浮かび上がり、

マリリンモンローやカポーティを思い出すうちに、

不意に舞い降りた感覚や視点が、まだボンヤリしてにせよ、

最近の低迷する精神状態を、切り替えてくれそうな気がする。

そういえば、カポーティの「冷血」は小説ではない。

それらの本を読み返し、映画を数本見直すことに時間を使おう。

辺り一面、真偽の知れない情報を取り込み過ぎて、

自己汚染してしまった脳の、洗浄になるかも。

 

これも小さなセレンディピティかもしれない。

 

 

 

コメント