マッチ「愚か者」と言う歌がある。
あれを聴いて思う。
「愚か者」って歌が流行るってことは、よほど日本人は不幸になりたいんだな、と。
そもそも不幸な歌が流行るのは、「そんなもんだよ」、と洗脳されてるからじゃあないんですか?
「幸せになりましょう」、と言うならばいう前に、既にそれを目指して行動しててもおかしくない気がする。
わざわざ言葉にするのは「今は不幸だ」と信じてるからでしょ。
腹が減ったら飯を食うか、すでに意識は飯を探してる。
既に気持ちはそっちになってる。
でも、そうはなってないからであって、「今は不幸ですよ」、と。
それが「みんなですよ」、と自らが自らを洗脳してる。
「みんなそうだから、あなたも不幸なのが当たり前ですよ」、と。
そう洗脳されてる。
因みに、アメリカの歌にはそう言う印象のものは多くない。
少しはあるけれど、感じる内容が違う。アメリカ人には主体性がある。
日本人は他人に許可されないと動けない性質がある。
主体的行動性を削がれてる。
だから自分から判断できない。
だから後ろ向きになる。
だから生きていられない。
だから自ら命を捨てる人がとても多い。
それは自由だ。
そこに自由という言葉を使うことで、自由の意味を歪曲してる。
自由は本来、あるがままでいいですよ、という意味で良いと思いますがいかがでしょう。
自由とは○○、ではなく、自由を意識せずとも勝手に身体が動く事を否定しないということじゃあないんでしょうか。
自由に行動することの意味は、好き勝手な行動をすることを強調しているのでは無く、あるがまま、という。でも、それでは、なおさらわかりにくいかな。
だから不幸って感覚は、「受け身しか選択肢がない」と「思い込んでる」、が「洗脳状態のままで留まってる」から、と、そう感じます。
気の向くまま、足が向くまま。
例えば、「努力」とは、受け身ではなく、「したいことを」とことんやる事から始まる、と。
遊びたければやりたい遊びをとことんやる、
気の済むまでやる。
それが努力だと。
寝ていたいなら寝てればいい。
大阪の徘徊おじさんがイイ例で、奇妙な格好をして意味不明な言葉を呟きながら徘徊してる。
それでイイ。
それでイイ、と受け入れてやる。
そこで受け入れるのは、その徘徊おじさんではなく、心を縛ったままの、囚われの自分の意識だろうな。
本当に自由な人を見て否定する意識、そこに呪縛が起こる。
他人を否定することで起こる現象、自分自身の心も否定する。
意識はだいたいが「目の前に自分が映る鏡」に向かってる。
「呪い」はそこにある。
自分にかける「呪い」こそが見るべき姿ではないか、と。
私は私にとても強い呪文をかけている。
毎日毎日呪文を唱えてる。
肩が凝る。
お腹が痛くなる。
自律神経がやられる。
そうして意味なく薬を飲む。
薬はほぼ痛みを感じさせなくするだけの麻薬でしかない。
廃人に一歩近づく。
そうしてどんどん依存性が高くなり、抜け出せなくなり、そうしてそれが「イイことだ」とありがたがる。
人は呪いの生き物な、気がしてる。
意識の正体は。
恨み、つらみ、呪い。
恨め、やっかめ、憎め、呪え。
怨霊が最大になった時にあの世から受け入れられて消えることができる。
それまで生きろ。
そう簡単に死ねないからな。
やはりなんだか、意味不明。
これも徘徊老人の戯言かぁ。
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