青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

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プロレスラー、三沢光晴さん死亡・・・試合中の事故で

2009-06-14 | スポーツの話題

13日午後8時半ごろ、広島市中区基町の広島県立総合体育館であったプロレスリング・ノア広島大会で、試合中にノア社長でプロレスラーの三沢光晴さん(46)が倒れ、心肺停止状態で広島大学病院に救急搬送された。県警広島中央署によると、同10時10分に死亡が確認された。同署は主催団体や対戦相手などから事情を聴いている。

大会関係者や観客によると、三沢さんはこの日、メーンイベントのタッグマッチに出場。試合は午後8時10分ごろ開始。約30分後、背後から抱え上げて後ろに倒れ込むバックドロップを相手にかけられ、頭を強く打ち動けなくなった。レフェリーが三沢さんに「動けるか」と聞いたが、三沢さんは「動けない」と答えた。試合はそのままレフェリーストップとなった。医師だという観客の男性が自動体外式除細動器(AED)で蘇生を試み、約2300人の観客からは「三沢コール」が起こったが、意識は回復せず、救急隊員が三沢さんを担架で運んだ。90年6月12日、新日本の福岡国際センター大会。バックドロップを受けた馳浩が一時、心肺停止状態に陥ったことがあったが、その後、復帰している。関係者は“奇跡”を信じたが、その思いもかなわなかった。三沢さんは病院に運ばれたが、間もなく死亡が確認された。

試合会場では、観客の看護師、竹本麻紀さん(31)=東広島市=は「子どものころからプロレスが好きでよく見に来ていた。まさかこんなことになるなんて」と涙を流しながら語った。広島市安佐南区の男子大学生(20)は「バックドロップで頭を打って意識不明になった。救急隊が長い間、心臓マッサージをしていた。三沢さんは試合中、頭を振る仕草を見せ、調子が悪そうだった」と話した。

三沢さんは栃木・足利工大付高でレスリング部に所属し、81年に全日本プロレスへ入門。84年にマスクマンのタイガーマスク(2代目)となり、人気を博した。90年からはマスクを脱ぎ、本名で活動。ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田両選手(ともに故人)に次ぐエースとして活躍した。00年に全日本を退団してプロレスリング・ノアを設立し、社長を兼務。受け身のうまさには定評のあるレスラーだった。

2000年4月には宮城県気仙沼市で行われた試合中に、新日本プロレス所属の福田雅一=当時(27)=が動きが鈍くなって倒れ、入院後に脳内出血で死亡した。また1999年3月にも女子プロレス団体「アルシオン」の選手=同(23)=が福岡市で行われた試合中に頭部を強打、同市内の病院に入院していたが、同年4月9日、急性硬膜下血腫のため死亡した。 97年8月にも「JWP女子プロレス広島大会」で、プラム麻里子=同(29)=が頭を強打、意識不明となり急性脳腫脹(しゅちょう)で死亡する事故が起きている。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

尚、学生プロレスの皆さん、プロレスファンの皆さん、どうかプロレスラー達の危険な技の真似を、決してしないで下さい。

◆三沢さんのプロレス人生
▽1962年6月18日 北海道・夕張市生まれ。
▽81年3月 全日本プロレスに入門。
▽8月21日 同期の越中詩郎との戦いでプロレスデビュー。
▽10月 シングル戦初勝利を果たす。
▽84年7月 遠征先のメキシコから極秘帰国後、2代目タイガーマスクに。
▽8月 ラ・フィエラとの一戦で“タイガーマスクデビュー戦”で見事勝利。入場曲は「スパルタンX」。
▽85年8月 NWAインターナショナルジュニアヘビー級王座を獲得。初のシングル王座に。
▽86年11月 世界最強タッグ決定リーグ戦にジャイアント馬場とのタッグで初出場。
▽88年5月10日 結婚。同時にタイガーマスクの正体を公表する。
▽89年3月 NWA世界ヘビー級王座戦で敗戦。左ひざのけがが深刻化し、手術を受けるために長期欠場。
▽90年1月 リングへ復帰する。
▽5月14日 冬木弘道(故人)らとの試合で、執拗(しつよう)にマスクをはぎ取られそうになり、自らマスクを取って突進。素顔に戻る。
▽92年8月 ハンセンとの3冠統一ヘビー級王座を奪取。第10代王座に就く。
▽99年5月 全日本プロレス社長に就任。
▽2000年6月 全日本プロレスに退団届を提出。
▽7月7日 三沢さんがつくった新団体を「株式会社プロレスリング・ノア」として登記。
▽8月5日 ディファ有明で旗揚げ戦開催。
▽01年4月 初代GHCヘビー級王者に。
▽07年12月10日 初のプロレス大賞・最優秀選手賞を受賞。