むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

金澤城(秋田県)

2023年05月25日 | 百名城以外の城
金澤城かねざわじょう
別名金沢柵
構造城柵・山城
築城者清原氏
築城年代平安時代後期
指定史跡国指定史跡
場所秋田県横手市金沢安本館 地図

金澤城は、清原氏の居城で、後三年の役では清原家衡、清原武衡が籠城し兵糧攻めにより落城した古代城柵です。
1458年(長禄2年)に、南部守行の子である金澤右京亮が入城し、
1470年(文明2年)までの間、居城していました。
江戸時代には、久保田藩主佐竹氏が秋田へ入部した際に居城の候補の一つとして
金澤に城を再整備する案が梶原政景から出されましたが、
結局久保田城が居城となり、金沢城は一国一城令によって廃城となりました。



史蹟案内図

金澤八幡宮を目指すように公園への道を登って行くと道路脇に案内図があります。



城址はまだ先にあるのですが、何があるのか気になるので様子を見に行ってみました。


景正功名塚

後三年の役にわずか16歳で初陣し、すばらしい手柄を立てた鎌倉権五郎景正が、
将軍源義家の命により敵の屍をこの地に手厚く葬り、弔いのため塚の上に杉を植えました。
900年の歴史を語る巨木となりましたが、昭和23年火災にあい、幹だけを残し今なおその昔を物語っています。
金沢公園はこの功名塚を中心につくられたものです。(現地看板より)


駐車場

再び道路へ戻り、金澤城址のある駐車場へやってきました。
1087年(寛治元年)金沢柵に立て籠もる源義家軍が、清原家衡・清原武衡軍を兵糧攻めにした際
源義家側も長期に渡る転戦から物資の供給の際、豆を煮て俵に詰めたものを農民に供出させたところ、
古くなった俵から香りが漂い、納豆ができていたという。
これが納豆発祥と言われ、納豆発祥の石碑があります。


案内看板

駐車場に設置された案内看板の金沢柵推定値の図を見ると、結構広い!
麓の陣館まで含むとかなり大きいようです。






さて、それでは本丸目指して行って見よう!


本丸址入口

ここで本丸へ向かうのか、二の丸へ向かうのかの選択をします。
真っ直ぐは二の丸、右折は本丸です。
先ずは本丸へ。



本丸へ向かう通路にしては、見通しの良い通路です。



目の前には、本丸の一段下の平地が見えます。
ここが兵糧倉跡になります。


兵糧倉跡

金沢柵の米倉址と思われ後三年の合戦の兵火により炭化した焼き米が土中から出て来ており
明治天皇をはじめ高貴の方々も御覧になっております。
現在は土中から採取された焼き米が後三年の合戦金沢資料館に保管しております。
(現地看板より)





本丸虎口

ここから本丸に入ると広い平地になっているのがわかります。


本丸

前九年の役の頃までは清原武則の居城で、後三年の役において清原家衡・武衡が沼柵から移り、
源義家がこれを包囲し食糧攻めによって落城したと云われています。
中心は四面断崖絶壁の岩山からなり、天然の要害とし、
砦として幾度か利用されていたものと思われます。



伊藤耕儀翁の銅像があります。
これは金沢柵の推定地について研究をし、その功績を称えられ本丸に立てられたものです。


参道

金澤八幡神社の参道です。


兜杉

樹齢900年とも云われていた大杉で、「兜杉」と呼ばれていました。
八幡太郎義家が凱旋の時、愛用の兜を埋めてその上に石(奥に見える石)を置き、
記念のため、そのそばに植えた杉だとも云われていましたが
残念ながら、昭和58年に失火のため焼失してしまいました。


御神馬

誰の騎馬像?と思って近寄ってみると、武者が乗っていません。
この馬は競走馬で、優勝した記念に奉納されたものです。


金澤八幡宮

源義家の命を受けて、藤原清衡が石清水八幡宮の神霊を勧請して
出羽国の鎮護神として祀ったのがはじまりです。


北ノ丸

北ノ丸の堀切を見て、本日のおさんぽ終了とします。





令和4年7月16日登城