小田原周辺のマイナースポットや些細な出来事を少しずつ
小田原の端々



小田原駅西口の城山中学校前から南足柄の大雄山駅ちかくまで続く県道74号。小田原市多古付近からは大雄山線と平行するように道路が続いている。その県道74号にはいくつかの交差点がある。そのなかの一つが「水源地入口」交差点。場所は穴部駅と飯田岡駅の中間地点。長年、水源地という言葉から、山裾の沢から水が湧き出すような場所を勝手にイメージしていた。先日、その水源地に行ってみようと地図で調べたが県道沿いの山側に水源地の表記が無かった。山側に相洋高校のグランドがあるのは知っていたが、さらにその奥にあるものだと思い込んでいた。いくつかの地図や神奈川県の資料を調べ初めて水源地が狩川沿いにあることを知った。水源地入口交差点の山側から狩川方面を撮影。大雄山線の踏み切りを渡り狩川へ向かった。狩川に架る水道橋は昭和10年2月20日竣工。やはり水源と関連して命名されたのだろうか。水道橋を渡ると正面にフェンスに囲まれた建物が見えてくる。これが小田原市水道局の第一水源地である。なんともあっけなく到着。フェンス沿いに進むと門が見えてくる。水道局のプレートはあるが、第一水源地の表記は無し。市のホームページによると、この第一水源地は小田原市の水道発祥地で昭和11年から取水を開始している。水源は地下水で、この場所と中曽根の補助水源地から送られてきた地下水を、第一水源地において浄水処理を行い、城山の小峰配水池に送水してたとのこと。現在では、ここから一旦、蓮正寺にある第二水源地に送水して、そこから小峰配水地に送水している。この第一水源地の近くには水道発祥の記念碑が建っているのでそこに行くために、川沿いの道に戻りコンクリート工場を迂回して上流方面の土手に向かう。第一水源地から歩いて3分ほど、コンクリート工場の裏手の広場に石碑が建っている。ここが水道発祥の地である。水道発祥の地の石碑は平成16年に小田原市水道局により建てられたもの。石碑の後ろには井戸跡が残っている。この場所では昭和11年から昭和47年まで井戸水を水源に水道の供給を行っていたとのこと。現在の第一水源地とこの場所の関連を調べたが今ひとつ分からなかった。ひょっとすると昭和47年にここから今の場所へ移設したのかもしれない。石碑裏面の碑文の内容を要約すると「小田原市の上水道は、昭和8年3月に事業創設。当時の足柄村清水新田及び飯田岡に最初の水源を求め、ここから取水した水を小峰配水池に送水し, 昭和11年3月に給水を開始した。創設当時における給水区域は、旧小田原町一円で、計画給水人口は3万5千人、一日最大給水量は5,775立方米であった。わたくしたちは、この地に水源を求めるに当たって、関係者の多くの努力と協力があったことを後世に伝えるとともに、さらにあすの発展をもたらすことを希望するものである。」当地の石碑には触れられていなかったが、この水源を巡って創設当時、大きな事件に発展したことを後日知った。足柄村騒擾事件である。事件の内容は、取水により水利に損害が出ると周辺の村で反対運動が起こり、昭和8年の7月13日に300人規模の暴動が勃発。7月15日には放火や放水により水源地の試掘所を破壊したとのこと。この暴動で200人以上が検挙され、翌年に58名が有罪の判決を受けた。今は何もないのどかな広場。かつてここで大きな衝突があり小田原の水道の歴史が始まった。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )



« 2011年 小田... 御幸の浜の養... »
 
コメント
 
 
 
Unknown (ちゃたこ)
2024-05-15 16:35:18
実家には子供の頃井戸があり、実際使っていました。近くの小川には蛍が飛び交い、ザリガニもいました。
水道橋の直ぐ側にドンクパンの工場があり、小学校の工場見学でパン🍞を頂いて嬉しかった😁
橋の下に水が通ったパイプがあったような、、、?
 
 
 
Unknown (ちゃたこ)
2024-05-15 19:56:20
色々な事に探究心がお有りなのですね。何だろう?と疑問に思う事が学びのスタートなのだと改めて感じます。 何度も通っていても、気に留めずにきてしまい知らない事だらけです。
ブログを拝見していると、気付かされる事が色々有ります😌
 
 
 
>ちゃたこさん (端々)
2024-05-22 00:07:06
最近は割とサボリ気味でワンパターンな記事ばかりで恐縮です。以前のブログを見ると色々と出かけていて忘れていることが多いですね。
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。