荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『The Kids(子孩)』『父のタラップ車』 @東京国際映画祭

2015-11-04 02:15:37 | 映画
 前提として、国際映画祭は「作家の映画」のための祭典ではない。それは当然のことで、シッチャス(シッチェス)や夕張のようなファンタ系の映画祭はもちろん、あらゆる映画祭はあらゆる映画に開かれている。作家の色が濃厚に出た作品を擁護するだけではなく、プログラムピクチャー的な作品の光る部分をきちんと発見するというのも、映画祭の役割であろう。
 しかし、次の2本の作品を見たとき、私はどのように解釈してよいか、依然として当惑を隠せずにいる。くしくも同じ日の試写で見た〈アジアの未来〉部門の2本の作品──台湾の女性監督サニー・ユイ(于瑋珊)の長編デビュー作『The Kids(子孩)』と、トルコのハサン・トルガ・プラット監督の『父のタラップ車』──である(トルコを「アジア」でくくってよいものかは疑問だが)。どちらも80年代生まれという若い監督によるもので、特別な才能とかそういうものでもないが、清新な作風に好感を持った。
 前者の『The Kids(子孩)』はいわゆる「おさな妻」もので、中学時代に恋仲になった十代カップルが妊娠をへて、早熟な結婚生活を送る。少年は退学し、街の定食屋で修行し、少女はカフェでバイトしながら、カフェのオーナーと愛人契約をひそかに結ぶ。経済的にも精神的にもあまりにも未熟なカップルの、未熟さゆえの愚行、浅薄さゆえの悲運を、憐憫をまじえずに描く。とくに印象的なのは少女の性愛描写で、彼女は苦しい家計のために愛人契約を結ぶのではなく、性欲をコントロールできていない、つまり思春期を脱していないのである。ラスト近く、建築途中のマンションに忍びこみ、未来を語る彼らを映し出すが、彼らの生もまた建築相半ばであるということを、あまりにも単刀直入に象徴している。
 単刀直入という点では、トルコの『父のタラップ車』は上回っている。うだつの上がらぬ一家の父親が、中古車セールでタラップ車を買って帰り、家族や近所中の笑い物となるが、ある事件でタラップ車が人命救助に殊勲を上げたことをきっかけに評価が一変、国中で英雄に祭り上げられる。小市民のペーソス、はかない欲望、世間の無責任さ。まるで木下恵介の映画のようだ。
 いま木下恵介を挙げたが、まさに、おさな妻ものの『The Kids(子孩)』も、小市民喜劇の『父のタラップ車』も、戦前戦後の日本で大量生産された松竹の「大船調」そのものなのである。その「大船調」が、世界のどこかで時ならぬ評価を得る。「これで良いわけがない」などと憤るというのも筋違いではあるが、なにやら片腹痛い既視感が、見る者にのしかかってくる。良いカット、良いシーンは共にいっぱいある。それだけを抽出して、受け手が勝手なオムニバスを脳内で再制作することも可能である。しかし、それでいいのだろうか?