荻野洋一 映画等覚書ブログ

http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi

『蜃気楼の舟』 竹馬靖具

2015-12-20 11:52:08 | 映画
 一艘の舟が、漕ぎ手もいないのに、湖の上をすうっと進んでいく。漕ぎ手ばかりか、舟上には誰ひとり見えない。いるとしても亡霊だけだろう。
 真利子哲也監督『NINIFUNI』(2011)の脚本も担当した1983年生まれの新鋭監督・竹馬靖具(ちくまやすとも)の長編第2作『蜃気楼の舟』は当初、「囲い屋」という業種の生態を取り扱い、社会告発的な内容となっている。彼ら「囲い屋」はホームレスの老人たちを廃品回収のようにワゴン車に乗せ、収容所に詰めこんで布団と弁当をあてがう代わりに、その生活保護費の大半をピンハネする悪徳業者のグループである。
 主人公の「囲い屋」青年を演じているのは、ピンク映画界の巨匠ガイラ(小水一男)の息子・小水たいが。彼がグループの中の厭世的な仲間の家に呼ばれていったあたりから様子が変になり、非現実、記憶、幻想がないまぜとなったようなイメージが優位となっていく。
 小水たいがは、収容されたホームレスの中に父親を発見する。父親役を演じた田中泯が、さすがの存在感を見せつける。といっても彼はもう、理由ははっきりしないが、記憶を完全に失っており、息子のこともまったく認識しない。人称性を喪失してもなお、その身体性は残る。ボロボロのパンツと靴のあいだから垣間見える田中泯の足首が、強烈に目に焼きつく。時にその過剰な審美性のあまり、作品を壊しているケースもなくはない田中泯であるが、人間というよりモノに近くなってしまった存在を、みごとに体現した。
 廃墟にたたずむ亡き母親とおぼしき謎の女、バレエダンサー、鳥取砂丘や山川草木の徘徊。主人公と彼の父はあてどなく歩く。歩行という行為がこれほど身体的危機の表象となっているのは映画史上、北野武の『その男、凶暴につき』、いや黒澤明の『どですかでん』以来ではないか。「囲い屋」の収容所内をトボトボと、ほとんどゲインのない歩幅で劇団「発見の会」の飯田孝男が足を小刻みに運ぶとき、画面を眺める受け手は、誰の身にも訪れる老いという現象を強烈に突きつけられるだろう。あの小刻みな、ほとんど震えと変わらないような歩幅こそ、われわれの未来の身体予想なのである。小刻みな歩幅は、一艘の舟のなめらかな滑走を嫉妬する。彼岸の自由を希求するためであろうか。


1/30(土)よりアップリンク(東京・渋谷神山町)ほか全国で順次公開
http://www.uplink.co.jp/SHINKIRO_NO_FUNE/