荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『SHARING』 篠崎誠

2016-05-08 04:57:03 | 映画
 これまで見た篠崎誠の作品の中で、間違いなく最高の作品だと思った。そして、本作を見ながら猛烈な怒りを覚えた。怒りの対象は、大震災以降の5年間の私たちに起こったことのすべて、そして図らずもそれを等閑視した自分自身である。『SHARING』は私たち受け手の心理をもサーチする。
 本作HP(URLは下記)に掲載された識者コメント欄に、精神科医・斎藤環さんの次のような一節があった。「私たちが生きるのは『震災後の世界』ではない。私たちは震災と震災との間、すなわち「災間」に生きる」。この映画のメインモチーフとして登場する「予知夢」は、「あの震災の前日や前週に震災を予知した人々が一杯いましたよ」という不思議発見事件簿なのではない。「予知夢」は、寄せては返す波のごとく、私たちの元を離れていったかと思えば、ドキリとさせる突然さで私たちの眼前に現れる。だから、3.11の悪夢を何度もくり返し見る本作の登場人物たちは、つまり、次のカタストロフィのプレ-イメージを共作しているのではないか。
 私は本作のタイトル『SHARING』を、震災体験からくる心的外傷の共有(とその不可能性)という意味のほかに、まだ現実には誰も見ぬ、次なるカタストロフィの共作という意味でとらえた。まだ起きてはいないことを予知し、その「実在」イメージが各人の脳というスクリーンに投影(映写)されているとしたら、この映画がフィクションなのか、ドキュメンタリーなのかはどうでもよくなる。ドキュメンタリーとは、今ここで起こっていることにカメラを向ける行為である。しかし、これから起こらんとするできごとの映像が、あらかじめ私たちの前に提示されてしまったら? それもドキュメンタリーと認められるのだろうか?
 震災以後の心象風景、さらに私たちが今まさに晒されている危機を映画化するにあたって、篠崎監督はホラーもしくはニューロティック・スリラーのジャンル性を採用した。つまり映画としても興奮させるものを、という篠崎監督の初期から変わらぬ精神がここでも貫かれ、異様なるクロスオーバー的怪物作品が出来上がってしまった。
 そして、映画の主舞台となる大学キャンパスの迷宮性。これは先祖返りでもあるのではないか。篠崎監督の出身校である立教大学の映画サークルS.P.P.は篠崎の在学当時(1980年代)、偉大な先輩である黒沢清や万田邦敏らによって「学園活劇」なる奇妙なジャンルが創造され、立教のキャンパスを使ってゴダール映画のような銃撃戦が展開されていた。本作『SHARING』におけるカメラが、恐れおののいて彷徨う登場人物たちや、誰かの面影を追って走る登場人物たちをダイナミックな移動撮影、手持ち撮影でとらえるとき、私は不遜にも「学園活劇」が亡霊のように、しかも不幸なことに津波や原発事故という最悪な記憶を引き込みつつ、復活してしまったのだと思った。
 これはぜひ、99分のショートバージョンも見てみたくなった。そのバージョンにも、手の平に黒アザのある幼児と女子学生の邂逅シーンはあるのだろうか? 「赤ん坊は生きていたんだ!」と私は心中で叫び、泣いた。あのわずかな光明を、再び目にしたいと思う。


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