荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『山河ノスタルジア』 賈樟柯(ジャ・ジャンクー)

2016-05-22 10:52:52 | 映画
 映画は、1999年の山西省の地方都市(汾陽市)から始まり、第2章では2014年の汾陽、さらに最後の第3章では2025年のオーストラリア・メルボルン郊外、というふうに舞台を変えていく。始めは「今どき珍しいスタンダードサイズの画面か」と、映画作家の古典的なこだわりに興味を持った。しかし次の章で現代に近づくと、画面はヴィスタサイズに切り替わり、未来である2025年でワイドスクリーンが採用されるに至って、これは映画としての拘泥というより、時代性の説明なのかと、少しばかり落胆した。反比例するように、人物たちの手元で操作されるタブレットの小画面が、重要性を帯びていく。
 しかし、『長江哀歌』や『四川のうた』『罪の手ざわり』といった近作と同様、風景に対する作者の圧倒的な信頼ゆえだろう、スクリーンサイズによる質的変化は、不思議なほどに起こっていない。いや、むしろ人間の孤立感に対する視線が後半になるにしたがって、いっそう深みを増していった。最初の章は3人が同じフレームに入ることの不快さが強調され、第2章では母と子が過ごす限定的な時間が無念の色を濃くしていく。最後には成長した息子と母親世代の香港人女性(ジョニー・トー『華麗上班族』に続いて、半年のあいだに2度もシルヴィア・チャンを見られた!)との交流は描かれるものの、人物は相対的に退き、風景の一部に同化したように見える。特に、オーストラリアにおいて英語で育ったため中国語を忘れ、あまつさえ母親の記憶も名前もあやふやになっている大学生の息子が、なんとも不憫である。
 彼ら1999年世代の、失敗したと言っていいだろう人生が容赦なく明らかとなるが、傷の舐め合いもなければ、言い訳もない。ここに登場する人物たちのすべてに、私は共感した。彼らの佇まい、彼らの青春の輝きだけでなく、彼らの愚かさ、誤った人生選択さえもが美しい。
 賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の故郷でもある山西省汾陽では、冬場は黄河の水も凍結してしまう。恋のライバルを爆殺しようと用意したダイナマイトでさえ、凍結した黄河の前では「ポコン」という滑稽な音を立てて雲散霧消する小爆発に過ぎない。賈樟柯映画でしょっちゅう見ることのできる爆竹や打ち上げ花火の乾ききった、滑稽な爆発音に、今回はダイナマイトまでが加わった格好だが、そこにはなんら本質的な違いはない。お大尽に出世しようと、一炭坑夫に終わろうと、化け物じみた黄河の水の前では、塵芥にも満たない。でもそれでいいのである。
 ひとつだけ言いたいのは、汾陽の塔(グーグルで調べたかぎりは、おそらく明末に建てられた「汾陽文峰塔」だと思う)へ雪の中、犬を連れてくる趙濤(チャオ・タオ)のフルショットがあまりにも美しいこと、そして彼女の最後の姿を、10年あまり会っていない息子への思慕であるとか、母性愛であるとか、因果応報であるとかに単一的に還元すべきではない、ということである。彼女はたしかに恋人を裏切って一緒になった夫と離婚し、親権も失い、オーストラリアに移住した息子と縁遠くなってしまった。しかし、彼女は彼女の人生を主体性をもって選択している。犬を連れた趙濤の雪の中の姿を、ただそれじたいとして受容しなければならない。そのことを、あのラストの、再び大音量を取りもどすペット・ショップ・ボーイズ『ゴー・ウェスト』の陳腐なビートが、全面肯定していたのではないだろうか?


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