荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『PAN  ネバーランド、夢のはじまり』 ジョー・ライト

2015-11-10 23:21:36 | 映画
 夜のロンドン。孤児院の前で、ひとりの母親が赤ん坊を捨てようとしている。赤ん坊は、のちのピーター・パンである。
 数年後、第二次世界大戦がはじまり、ドイツ機が夜ごとにロンドン市内を爆撃していた時代──ある夜、空を飛ぶ海賊船が孤児院を襲撃し、ピーターはじめ孤児を拉致していく。この拉致シーンが素晴らしかった。上空の船から海賊どもがワイヤーで降下してきて天井を突き破り、ひとりずつベッドの子どもを釣り上げていくのである。海賊船はイギリス空軍の追撃をかわし、いっきに大気圏外まで到達。ピーターの身柄は、無重力のうちに漂流する。このSF的叙情はなかなか美しい。セルゲイ・パラジャーノフが生き返ったかのごとくだ。
 本作におけるネバーランドは、おそらく孤児院の少年がベッドで見る冒険の空想が、夜ごとのドイツ軍の空襲と結びついたものだろう。自分を捨てた「瞼の母」に一目会いたいという悲願と、戦時下のロンドンを逃げ出し、彼女が住むだろうおとぎの国へひとっ飛びに駆けつけたいという欲望が、ネバーランドという空想の帝国を作りあげた。
 しかし、この叙情のレベルが持続することはなかった。結論から言わせてもらうなら、本作はこの序盤における拉致シーンを頂点とし、このあと舞台をネバーランドに移してからは、派手なVFXによるファンタジー・アドベンチャーが、あまり感情を揺さぶられぬこけおどしに留まってしまう。
 
 有名作品の新機軸を出そうとして、前日譚にそれを求めるというアイデアは、さすがに使い古された感がある。古くは『スター・ウォーズ』、最近ではリドリー・スコットの『プロメテウス』が『エイリアン』の「0」にあたる内容だった。『X-MEN』は例外で、オリジナル3部作よりも、彼らの若き日を描いた新シリーズのほうがよく出来ている。プロフェッサーXと宿敵マグニートーが同志だったころの物語である。
 私の推測では、本作『PAN ネバーランド、夢のはじまり』は、『X-MEN』新シリーズにヒントを得ているのではないか。つまり、ピーター・パンはまだ空を飛ぶ練習をする下積みの段階であり、宿敵となるフックも、海賊に強制労働を課せられた奴隷の青年にすぎない。ふたりは海賊の支配から逃げ出し、海賊のリーダー、黒ひげを共同で討つのである。黒ひげはさしずめ、蒋介石と毛沢東が国共内戦をはじめる前の日本軍といった位置づけだ。
 黒ひげを演じたヒュー・ジャックマンの演技はいい。空飛ぶ少年が自分を討つことを、彼は予言者の予言によってすでに知っていた。ピーターにむかって「君がその少年なのか?」と質問するヒュー・ジャックマンの顔には、暗黒世界を支配してもなお満たされぬ虚無を、やっと終わらせてくれる者が現れた、という解放感さえ漂わせていたように思う。


丸の内ピカデリー(東京・有楽町マリオン)ほか全国公開中
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『バクマン。』 大根仁

2015-11-06 02:16:40 | 映画
 愚かな若者の恋愛と趣味嗜好を、愚かさそのままに小気味よく音楽的カットにきざんだ快作『モテキ』(2011)の大根仁監督の新作『バクマン。』は、漫画家志望の高校生男子2人組の『少年ジャンプ』連載デビューまでの苦闘、成功、挫折を、意外なほどに熱血的に描く。部活も勉強も恋愛も何もしてこなかった2人組にとって、漫画こそが、おのれを乾坤一擲に賭けるべき唯一無二の対象である。時代劇アクション『るろうに剣心』シリーズで主人公の人斬り抜刀斎を演じた佐藤健、そしてその宿敵を演じた神木隆之介が、ここでは純情な原作=作画コンビを組んでがんばる。
 この映画ですぐさま気づかされるのは、両親・兄弟といった家族がいっさい登場しない点である。保護者の不在が本作『バクマン。』の思想を規定する。佐藤健の伯父もかつて漫画家だったが、数年前に過労死している。死んだ伯父の作業部屋がなぜか死後もそのまま残されていて、2人のために託されたかのようだ。保護者不在の代償として、ここには保護的な場所がある。不幸をまねく不安はないではないが、それでも男子2人組は「俺のバクチにつき合ってくれ」と励まし合いながら漫画道を邁進する。そこには居心地のいい青春も恋愛も、あまつさえ家庭の幸福もない。過労と体調不良と競争の重圧のみがある。これはまさに〈芸道もの〉である。ジャン・ルノワールの『黄金の馬車』のラストで、興行師がヒロインのアンナ・マニャーニにむかって宣言する「お前には人生はない お前にあるのは舞台だけだ」という言葉が、この映画に登場するあらゆる作者たち、連日徹夜をくり返す集英社の編集者たちの脳内を旋回しているだろう。 
 そして、佐藤健が恋する同級生の小松菜奈の脳内にも。彼女もまた声優をめざし、やがて歌手デビューも決まり、アイドルの恋愛禁止条例の閾にすすんで入っていく。「いつまでも待てないわ。先に行くね」と彼女は言う。地獄で待っているよという、同志にむけた少女なりのエールである。
 この蕩尽へのマゾヒスティックな執着は、登場人物たちに蔓延し、原作者の思想を反映し、本作を監督した大根仁の人生観でもあるだろうし、すべての人々の青春を食いつぶす魔物である。テレビ東京のドキュメンタリードラマ『山田孝之の東京都北区赤羽』で、山田孝之と赤羽の仲間たちが大根仁を訪ねていった都内のポスプロ・スタジオは、まさに『バクマン。』の仕上げ中だった。大根はその中で『少年ジャンプ』編集者役の山田の演技を賞讃していたが、山田は「そうですかね」としきりに首を傾げていた。蕩尽への意志はとどまることを知らない。彼らは、おのれのすべてを犠牲にして物事にむかう。そしてそれを見る私もまた、こういう蕩尽者のかたわらに居続けたいと常に思っている。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか、全国東宝系で公開中
http://bakuman-movie.com/

『The Kids(子孩)』『父のタラップ車』 @東京国際映画祭

2015-11-04 02:15:37 | 映画
 前提として、国際映画祭は「作家の映画」のための祭典ではない。それは当然のことで、シッチャス(シッチェス)や夕張のようなファンタ系の映画祭はもちろん、あらゆる映画祭はあらゆる映画に開かれている。作家の色が濃厚に出た作品を擁護するだけではなく、プログラムピクチャー的な作品の光る部分をきちんと発見するというのも、映画祭の役割であろう。
 しかし、次の2本の作品を見たとき、私はどのように解釈してよいか、依然として当惑を隠せずにいる。くしくも同じ日の試写で見た〈アジアの未来〉部門の2本の作品──台湾の女性監督サニー・ユイ(于瑋珊)の長編デビュー作『The Kids(子孩)』と、トルコのハサン・トルガ・プラット監督の『父のタラップ車』──である(トルコを「アジア」でくくってよいものかは疑問だが)。どちらも80年代生まれという若い監督によるもので、特別な才能とかそういうものでもないが、清新な作風に好感を持った。
 前者の『The Kids(子孩)』はいわゆる「おさな妻」もので、中学時代に恋仲になった十代カップルが妊娠をへて、早熟な結婚生活を送る。少年は退学し、街の定食屋で修行し、少女はカフェでバイトしながら、カフェのオーナーと愛人契約をひそかに結ぶ。経済的にも精神的にもあまりにも未熟なカップルの、未熟さゆえの愚行、浅薄さゆえの悲運を、憐憫をまじえずに描く。とくに印象的なのは少女の性愛描写で、彼女は苦しい家計のために愛人契約を結ぶのではなく、性欲をコントロールできていない、つまり思春期を脱していないのである。ラスト近く、建築途中のマンションに忍びこみ、未来を語る彼らを映し出すが、彼らの生もまた建築相半ばであるということを、あまりにも単刀直入に象徴している。
 単刀直入という点では、トルコの『父のタラップ車』は上回っている。うだつの上がらぬ一家の父親が、中古車セールでタラップ車を買って帰り、家族や近所中の笑い物となるが、ある事件でタラップ車が人命救助に殊勲を上げたことをきっかけに評価が一変、国中で英雄に祭り上げられる。小市民のペーソス、はかない欲望、世間の無責任さ。まるで木下恵介の映画のようだ。
 いま木下恵介を挙げたが、まさに、おさな妻ものの『The Kids(子孩)』も、小市民喜劇の『父のタラップ車』も、戦前戦後の日本で大量生産された松竹の「大船調」そのものなのである。その「大船調」が、世界のどこかで時ならぬ評価を得る。「これで良いわけがない」などと憤るというのも筋違いではあるが、なにやら片腹痛い既視感が、見る者にのしかかってくる。良いカット、良いシーンは共にいっぱいある。それだけを抽出して、受け手が勝手なオムニバスを脳内で再制作することも可能である。しかし、それでいいのだろうか?

『汝が子宮』 ブリランテ・メンドーサ @東京国際映画祭

2015-11-01 11:13:50 | 映画
 『汝が子宮』(2012)は、フィリピン最南端のイスラム地域、スールー諸島の漁民夫婦のペーソスを、ゆったりとした手漕ぎ舟のリズムで紡いでいる。子宝に恵まれぬ妻は、子を望む夫のために第二夫人の選定を始める。しかし裕福でもない夫婦にとって、何件かの候補の親から提示される持参金の額がことごとく折り合わぬ、というストーリーだ。妻が夫のために、若くて美人の第二夫人を率先して探してやるという設定がわれわれには理解しにくいが、この地域のイスラム教徒にとってはどうやら珍しいことでもないらしい。
 しかし本作の利点は、異教徒の文化習俗を知ることにあるのではない。まず、古女房を演じた主演のノラ・オーノールの気丈さが、本作のもっとも素晴らしい点かもしれない。近海漁業をほそぼそと営むほかに、彼女には助産婦としての稼ぎもある。不妊症の彼女にとって、赤ん坊が産道を通ってヌルリと出てくるなかなかに赤裸々な描写も、彼女自身には無縁の事柄でしかない。それでも彼女は、気落ちすることなく他人の赤ん坊を引っ張り出し続ける。
 そして、海洋を温床とした諸島住民の暮らし、市の賑々しさ、茶に呼ばれる社交のおだやかさ、そして結婚披露宴の大ダンスパーティへのエスカレート…など、あらゆる移動をボートでこなす彼らの生の鼓動が、画面からドクドクと伝播してくるのである。
 やっと交渉の折り合いのついた一族の娘が、第二夫人を受け入れるために突きつけた条件は、高額の持参金だけでなく、赤ん坊が生まれたあかつきには、第一夫人である主人公に離縁を約束させる、というものだった。夫、妻、第二夫人のあいだの軋轢はいっさい描かれない。それを描く必要をブリランテ・メンドーサは感じなかったのだろう。妻役のノラ・オーノールは、いっさい悲しい表情を浮かべない。それは、小津映画において、妻と死別する悲愴、愛娘を嫁にやる断腸、それらのいっさいを飲むよう自分をしつけて、「いやあ…」などと安穏さで武装した笠智衆が、娘の結婚披露宴に出た日の晩、礼服姿を見たバーのマダムに「お葬式ですか?」と問われて「まあ、そんなもんだよ」と答える、あれと同種の凄惨なる諦念を、本作のノラ・オーノールに見出すのである。そしてそれが、悲愴なメロドラマ的ヒロインのそれとしてではなく、海洋に生きる女のごく自然な生きざまとしての懐深さとなっている。


東京国際映画祭〈CROSSCUT ASIA ブリランテ・メンドーサの世界〉部門で上映