荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『イット・フォローズ』 デヴィッド・ロバート・ミッチェル

2015-12-17 14:13:25 | 映画
 『リング』などのJホラーと、ジョン・カーペンターの幸福な結婚と言えばいいか。ホラーというのは人を怖がらせればいいのだから、じつに幸せなジャンルであるが、そこに青春映画の要素も足していくと、ぐっと味が増す。長編第2作『イット・フォローズ(IT FOLLOWS)』を撮りあげたデヴィッド・ロバート・ミッチェルは、そういう意味で果報者の作り手である。
 アメリカのホラー映画では決まって、学生たちのキャンプなどで二人きりになるために抜け駆けしたカップルは、まず最初に消えるだろう。次に、二人を探しに出かけるあわてん坊の正義漢が消え、ひとりまたひとりと映画の中から人がいなくなっていく。アメリカのホラーの鋳型はそうしたものだが、本作『イット・フォローズ』の若者グループの結束は、異常なほどに固い。彼らは籠城作戦に出て、部屋に折り重なるように眠り、長い時間を過ごす。彼らの親たちは仕事で忙しいらしく、彼らの恐怖とはいっさい無縁で、まったく登場しない。
 感染すると、凶暴な幽霊が見えるようになり、そいつらに襲われるという、ヘンテコなウィルスをボーイフレンドにうつされた女子大学生(マイカ・モンロー)が、取るものもとりあえず逃げ出す時の、素足だったり、ショートパンツ姿だったり、下着姿だったり水着姿だったり、バカバカしいほどの薄着、無防備ぶりがすばらしく、それが映画全体の基調をなしている。恐怖で泡喰った表情で、自宅に侵入した亡霊から逃げるために玄関から短パン、裸足で飛び出すマイカ・モンローは、あまり経験から学ばない。逃走中に事故を起こして大ケガしようと、お構いなしだ。まるでこの映画のヒロインであり続けるためには、この無防備さを捨ててはならぬという使命感に囚われているかのように、彼女は水着で、裸足で、何度でも逃亡してみせる。
 なるほど映画の終盤では、グループで武装らしき道具を揃えて、亡霊の登場を待つことにはなる。しかしその場所はなぜか、ヒロインがファーストキスをした思い出の体育館である。なぜそこなのかは分からないし、何かのリビドーに関連しているという勘なのかもしれない。そこでも彼女は敢然と一人だけ水着姿となり、仲間をプールサイドに控えさせ、水の真ん中で漂ってみせる。「私は生け贄の羊よ」と言わんばかりに。この無意識の使命感が本作を祝福しているので、『イット・フォローズ』は幸福な映画としか言いようがないのである。


1/8(金)よりTOHOシネマズ六本木ほか全国で公開予定
http://it-follows.jp

『キャロル』 トッド・ヘインズ

2015-12-14 23:01:44 | 映画
 本作の監督トッド・ヘインズは、サブカルチャーと心中するのかと思っていた。そして、それもいいのではないかとも思えた。しかし、果たして今回の新作『キャロル』ではサブカルチャーと戯れるのをやめて、事の本質と向かい合おうとしているのだろうか。
 そのヘインズがこんなことを言っている。「『エデンより彼方に』の時は、時代そのものより、映画の中の1950年代に興味があった。現実の50年代ではなく、ダグラス・サーク監督のメロドラマに強い興味があったんだ。当時のコネティカット州ハートフォードの人たちが実際にどうだったかはどうでもよくて、登場人物にはロサンジェルスのバックロット(撮影用野外セット)から出て来たように見えてほしかった。『キャロル』は違う。…当時のニューヨークは戦後から抜け出したばかりで、さびれてすすけた汚い町だった。ダグラス・サークの映画にある、キラキラしたエナメルを塗ったようなコネティカット郊外とはまったく違う。」
 ようするに、オマージュに血道をあげるのではなく、リアリズムの追究への移行である。たしかに、あからさまにサークの映画から抜け出してきた『エデン~』のジュリアン・ムーアのような登場人物を、今回の新作『キャロル』で見ることはない。しかしだからといって、トッド・ヘインズがリアリズム作家に突然変異するわけではない。彼は今なおロマンティシズムの作家であり、1950年代アメリカ映画への愛から今なお去ろうとはしていない。ニューヨークの街並みのオープンセット。デパートや邸宅の装飾。家具の配置。退屈した人妻の部屋に掲げられた雑誌や小説。2人のヒロイン──ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラ──の衣裳。ブランシェットのあざやかな口紅。腰の下で回り続けるレコードプレーヤー。ライカやコンタックス、ローライではなく当時はまだ新興だっただろう敗戦国製キヤノンのカメラ。煙草を吹かしながら運転する流線型の自動車。スーツケースにしのばせた銀色に光るピストルなど……。この愛を、どうして消し去る必要があるのか。
 非米活動委員会についてそれとなく言及されているように、作品は1950年代初頭の赤狩りの時代を記憶に留めようともがいている。作品の主題は、2人の女が目覚める同性愛だが、彼女たちの受難が告発する保守的社会は当然、この赤狩りとも織り重なってくる。閉塞した空気を見せることが、最も重要なテーマである。そして、その閉塞からの解放も。解放の動力源は、2人の女たちの体格差である。みごとなブロンドヘアーをなびかせつつグレーのスーツに身を包んだグラマーな人妻役ケイト・ブランシェットの大柄な身体。そして、写真への愛と鬱屈を抱えこむ東欧系移民の娘ルーニー・マーラの華奢な身体。この高低差が生み出すダイナミズムによって、映画はひそやかに、禁忌的に活気づいていく。


2/11(木)よりTOHOシネマズみゆき座(東京宝塚劇場 地下)ほか全国で公開予定
http://carol-movie.com

ラシーヌ作『フェードル』(演出 青山真治)

2015-12-11 01:26:43 | 演劇
 オーソン・ウェルズによる「ヴードゥー・マクベス」ならぬ、青山真治による「マスムラ・フェードル」の様相を呈している。
 緊急入院という今秋の予期せぬトラブルから間もない時期に上演されている本作が、はたして青山真治の演出家としての本領が真に発揮され得た作品であるかどうかは分からない。しかし、俳優たちのテクスト解釈には、通常のラシーヌ悲劇の上演とは違い、喜劇的な要素が濃厚になっている。ジャン・ラシーヌの戯曲と違ってハッピーエンドでもある。
 増村保造の映画を見ていて、坂道を転げ落ちていく男女の運命論的悲劇を客観的に眺めているうちに、思わず失笑を禁じ得なくなった経験はおありではないだろうか? 今回の青山ラシーヌがあちらこちらに仕掛けてまわるのも、悲劇を眺める際に副作用のように現れてくる失笑の捕獲装置の作動である。
 夫の息子イポリットに恋をする王妃フェードル(とよた真帆)は、何か事があるとすぐに自己憐憫と自殺願望をけたたましく主張し始める。これを、乳母で相談役のエノーヌ(馬渕英俚可)が聞いて失笑しながら諫める。笑いつつ批評的答弁を繰り出していくのである。これは王子イポリット(中島歩)の侍従テラメーヌ(高橋洋)によるリアクションも同様である。王妃フェードル-乳母エノーヌという女2人組と、イポリット王子-侍従テラメーヌという男2人組が鏡像的な構図をつくり(とよた真帆によるフェードルは、増村映画における不倫愛に身をやつす可憐な主婦・若尾文子となり、中島歩によるイポリットは川口浩となる)、共にメロドラマとその覚醒的批評のリアクションを映し出している。そしてその元素は笑いなのである。
 イポリットが真に愛するのはアテネ王の娘アリシーだが、このアリシーを演じるのがイケメン若手俳優の松田凌だったり、王(堀部圭亮)の衣裳が可憐なプリーツスカート、王冠と髭がまるでニッカウヰスキーのマスコットキャラクターのようだったり、ひどく滑稽にローカライズされている。オーソン・ウェルズは、ニューディール政策下のNYハーレム地区でオール黒人キャストを起用し、シェイクスピア悲劇をカリブ海のハイチに移して「ヴードゥー・マクベス」を演出し、いっぽう青山真治はラシーヌ悲劇をオール黄色人種によって、荒唐無稽にローカライズする。この時、柱時計やサンドストームの微細なノイズを伴ってラシーヌに起こったことは、悲劇の不条理なる喜劇化であり、1時間40分という、まるでスタジオシステム内で生産される映画のような、悲劇的人物たちの喧噪模様だ。「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉」(松尾芭蕉)


『フェードル』は東京芸術劇場シアターウエスト(東京・西池袋)にて12/13(日)まで
http://www.majorleague.co.jp/

『海難1890』 田中光敏

2015-12-08 03:22:16 | 映画
 『海難1890』は、日本・トルコ友好125周年にかんがみ製作された記念大作で、1890(明治23)年に和歌山沖で起きたエルトゥールル号遭難事件と、1985年のイラン・イラク戦争におけるトルコ政府による在テヘラン日本人救助という、2話構成となっている。オープニング前にいきなりトルコのエルドアン現大統領による作品完成への祝辞が上映されて、最近のロシア機撃墜事件をめぐるプーチンとの反目、ISILとの石油密貿易疑惑などで渦中の人物となっているだけに、いささか面食らうと同時に、がぜん興味深さが増してしまった。
 オスマン皇帝から明治天皇への答礼を目的として初来日したトルコ使節団の遭難事件(1890年)を描く第1部は、面白い。オスマン帝国の海軍なんて、めったに映画で見ることができないので、ワンカットワンカット、衣裳から号令から、将校たちの船内での食事、船底ボイラー室での乗組員による歌合戦まで、目を皿にして注視してしまった(どこまで史実に正確かはいざ知らずだが)。
 そして、台風の夜の並行モンタージュが悪くない。エルトゥールル号の海難シーンと、荒天につき休漁した和歌山の漁民たちが女郎屋で繰り広げる宴会シーンがカットバックされ、パニックを盛り上げる。そして、怒濤の救助シーンへとなだれ込んでいく流れなのだが、こういうグリフィス的な展開は(不適切な言い方で恐縮だが)映画ならではの見応えである。
 作品全体としては、第1部のエルトゥールル号遭難事件といい、第2部のテヘランでの邦人救出劇といい、両国の厚情、報恩、友好を過剰な愛国的センチメンタリズムで語っており、仕方ないこととはいえ、いささか胸焼けを禁じ得なかった。『黒衣の刺客』で遣唐使(妻夫木聡)の妻を演じた忽那汐里が、トルコ将校にほのかな恋を抱くが、あまりうまく作品内にこのロマンスは埋めこまれていない。ちなみに、『黒衣の刺客』の中で唯一好きではないシーンが忽那汐里が雅楽に合わせて舞うシーンで、どうもあの舞いがもうひとつだった。
 第2部の、トルコ政府による在テヘラン邦人救出事件(1985年)の描写には、細心の警戒の目が必要かと思う。事件じたいは、95年前の旧恩を忘れぬトルコ国民による日本への友好の証しとして語られ、なんの問題もない美談だとは思う。ただ、この美談の背景には、JALの労組が、乗務員の安全が保証されないチャーター機派遣に反対したこと、そして当時の自衛隊法では自衛隊機の海外派遣も想定されていなかったこと──この2点が、在留邦人が母国から見捨てられた原因としてそれとなく語られる。この『海難1890』という映画に、どれほど言外の他意が込められているかはわからない。単に純然たる美談映画なのかもしれない。しかし、意識的にか無意識的にかは関係なしに、労組のエゴイズムを糾弾し、「自衛隊の対外活動はこれだから拡大していくべきだ」という論調に加担する、ということになっているのである。現与党の意向と無縁な内容と言いきれるだろうか。


全国東映系で公開中
http://www.kainan1890.jp

『FOUJITA』 小栗康平

2015-12-04 02:23:00 | 映画
 小栗康平は日本を代表する国際派の映画作家であるが、ご存じのように日本国内のシネフィルのあいだではすこぶる評価が低い。蓮實重彦の評価によって貶められた犠牲者のひとりである。小栗の作風を見れば、その貶めは理解できるというのが正直なところである。シネフィル層ばかりでなく、『映画芸術』系からも『映画秘宝』系からも評価されないだろう。だからといって見ずに済ませてよいというものでもない。小栗=ダメという定式をやみくもに信じることほどドグマティックな退廃はない。
 10年ぶりとなる新作『FOUJITA』は、画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ)の伝記映画であるが、「伝記」の部分を「伝奇」と書き換えたいぐらいだ。街景、人間、田園…そうした現実の事象がすべてフジタのフィルターを通して写され、奇妙な活人画の様相を呈する。
 映画は、1920年代のパリで画壇の寵児となるフジタと、戦時下の日本に戻り、陸軍の注文に応じて戦争画を描く藤田、という二部構成となっている。特に前半のパリ編が面白い。どうにも映画的アクションセンス、デクパージュの感覚に乏しいのが小栗康平の欠点であるが、その代わりに女の裸体を奇妙な即物性でとらえる力がある。マン・レイの愛人でナイトクラブの有名な歌手キキ、フジタの妻となったユキ・デスノス=フジタなど、モデルたちが恥じることなく人前でさらす乳房と陰毛。これらをフルショット(全身大サイズのショット)でとらえた時、物質的、即物的な殷賑が生じるのだ。これはかつての『死の棘』(1990)における松坂慶子の裸体のとらえ方と同じである。
 エコール・ド・パリの連中がヌードモデルらと共に深夜の居酒屋で催す乱痴気騒ぎ、キキのナイトクラブでのパリの街への愛を捧げたショー、そして「Soirée Foujita」(フジタの夕べ)というタイトルで開催されたアートイベントでの花魁道中のパロディ、さらにそれに被さる佐藤聰明によるやたらとペシミスティックな弦楽など、こういうことをやる人は今どきいないのではないか。画面の中だけで映える存在。カメラの前でポーズを取り、しなを作るフィギュレーション。フェリーニが生き返ったかのようだ。けなす方が簡単だが、私はというと、こういう試みを今どきやってみせる70歳の映画作家の心意気は嫌いではない。


角川シネマ有楽町(東京・有楽町ビックカメラ上)ほか全国で順次公開
http://foujita.info