車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ふらり梼原~町歩き in 高知県梼原町

2020年08月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・高知県

雲の上の町・梼原の町に残る素敵な建物や史跡、早速見て歩く事に。何だろう、このワクワク感😄  まずは「ゆすはら座」。昭和23年(1948)に梼原町の町組によって北町に建設。1995年9月に東町に移転復元されました。

続いては明治24年(1891)に建てられた「旧・梼原町役場」。現在は歴史民俗資料館・別館として利用されています。 明治時代の洋風建築って本当にステキですよね。

「義人 中平善之進 頌徳碑」梼原村庄屋として「津野山騒動」と呼ばれる百姓一揆の主導者となり、責めを負って処刑。後に義人と讃えられた人物です。

「発展の礎」碑の前に置かれているのは、高知県の地図の中にある梼原の位置。

さて・・梼原町の観光マップを見ると、必ず出てくるのが「坂本龍馬脱藩道」の文字。 町歩きの拠点にもこのような看板があり、もう町を揚げて脱藩を後押ししています😅 維新の夜明けを目前にしながら凶刃に倒れた幕末の超有名な英雄『坂本龍馬』。彼が絡めば、躓いた石でも名所になりそうですが、かくいう私も龍馬さんと晋作さんの事は好きです😊

「幕末の英雄・坂本龍馬は同志 澤村惣之丞とともに、文久二年(1862)三月二十四日高知を出奔し二十五日に梼原に到着、その夜梼原の勤王の志士那須俊平。信吾父子の家に泊まり、翌二十六日未明、俊平・信吾父子の道案内により、宮野々番所を抜け、四万川茶や谷の松ヶ峠番所を抜けて予土県境・韮ヶ峠を越えて伊予の国(愛媛県)に脱藩した。」脱藩の道.comより
龍馬が脱藩した韮ヶ峠は愛媛県との県境にあり「歴史の道100選」に選定されています。

三島神社の境内を抜けると、坂本龍馬脱藩の道と書かれた矢印付の看板があります。幕末の歴史が大好きなご亭主殿。早速、龍馬になりきって脱藩を試みようとしましたので、ここは、ご亭主思いの私が、丁重に!蹴りとパンチで思いとどまらせて差し上げました😄

とかく脱藩ばかりがクローズアップされがちですが、梼原には維新に縁の地が何箇所も存在します。何といっても圧巻は、歴史民俗資料館の敷地に作られた「維新の群像」。梼原町にゆかりのある六志士に、坂本龍馬、沢村惣之丞を併せた八人の姿は今にも駆け出しそうな気迫に満ちています。

回天の偉業を夢見ながらも、維新の夜明けを見る事無く壮絶な死を遂げた若き志士たち。新しい時代の到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を掛け抜けたその姿は、今こうして梼原の地によみがえりました。


彼らが見つめる先にあるのは、大いなる希望だった筈、明日の日本を作るのは自分たちの若き志だったはず・・・自分たちならきっと成し遂げられる筈!!

町域には尊皇攘夷論を唱え、国事に奔走して殉死した『吉村虎太郎、那須信吾、那須俊平、前田繁馬、中平龍之介、掛橋和泉』の御分霊、「六志士の墓」が建立されています。

庄屋の跡地に移築された史跡「掛橋和泉邸宅」。代々神職を勤めた子孫により守り継がれてきましたが1998年に現在地へ移転。 神職の身にあって、勤皇の志を抱いて脱藩する同志たちに、家財を費やして援助を続け、それが為に自ら命を絶った・・・・・享年28歳、彼もまた勤皇の志士だったのです。

脱藩とは関係有りませんが、梼原の町内には慶長9年(1604)から11年にかけて、津野山郷各村々に建てられた茅葺屋根の「茶堂」が今も現存しています。 内部に「弘法大師、考山霊、三界万霊」を祀り、行路の人々には茶菓の接待も行われたといいます。

日本3大カルストに数えられる四国カルストの麓に位置する「道の駅・ゆすはら」。生憎と到着した時はすでに閉館しており、楽しみにしていた物産館もスタンプも無し。お日様が高ければ、きっととても素晴らしい風景に出会えただろうに・・。

訪問日:2013年3月26日

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三嶋神社 in 高知県檮原町川西路

2020年08月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・高知県

梼原町川西路に鎮座される「三嶋神社」。御祭神は『大山祇命』

四万十川の支流である梼原川の対岸に社殿があり、鳥居から境内までは屋根付きの木橋で結ばれています。

梼原町産の「梼(ゆす)」の木材で作られたという「神幸(みゆき)橋」。橋から見る梼原川の流れの清らかさとあいまって、まさに神域への道に相応しい佇まい。

梼原町の観光案内等に寄れば、津野山郷の開祖『津野経高』がこの地を梼原と名づけ居城を築き、延喜13年(913)に伊豆:三嶋大社より梼原宮首の地に観請したと伝えられています。

神幸橋を渡ってすぐ、二の鳥居脇より神域を守護されるのは、太鼓の上に前足をかける阿形さん。その紐をかみ締めて見上げる吽形さん。時代を経た石の肌が美しい色合いとなって狛犬好きの心を惹きつけます。

明治23年(1890)に再建された拝殿の彫刻は、山口県の大工『中本喜作』の作。神社彫刻に関しては、有名無名にかかわらず素晴らしいものが多く楽しみの一つなのですが、作者の名が残された彫刻には、また格別の思い入れがわき、次の楽しみへと繋がっていきます。

貫に彫刻された阿吽の龍。目には当時としては高価であった玉が嵌め込まれており、互いを振り向く姿は、今にも屋根を突き破って、高らかな笑い声と共に天に駆け上りそうに見えます。

境内には、津野家代々を祀る「津野神社」や、樹齢約400年の御神木があったのですが、この時思いがけない僥倖に遭遇し、後回しになったまま失念してしまいました。

三嶋神社の境内には、木で作られた「神馬」が神馬舎に保存されているのですが、丁度、損傷部分を修理する為に宮大工さんがおいでになり、色々とお話しを聞かせて頂く事が出来ました。

おかげ様で、灯りがともされた扉の内側から「神馬」を直接拝見することも出来、非常に貴重な経験となりました。

参拝日:2013年3月26日

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土佐清水~あちこちウォッチ in 高知県土佐清水市

2020年08月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・高知県

町域のほぼ全てが「足摺宇和海国立公園」の中にある土佐清水市。当然、足摺岬以外にもステキな見どころがあります。「道の駅:めじかの里」で見かけた「ようこそ!」の看板。何処に行ったらこんな景色に出会えるのかしら?

面白不思議なものが一杯の道の駅を後に次に立ち寄ったのは「足摺海洋館」。と言っても周辺の景色と建物を見ただけで次の目的地に。何しろ時間が😓 😅

そこから少し走ったところにある海岸。小石に混じって白く見えるものが気になって近づいてみたら・・どうやら「珊瑚」のよう。

嬉しがって拾ってみました😍

日本の珊瑚史は、月灘沖で一人の漁師が桃色サンゴを釣り上げた事に始まります。 国道321号沿いの小才角休憩所には、「さんご採取発祥記念像」とその説明がありました。

国道321号線沿いを走っていると、胸ビレを広げ、今にも海中に飛び込みそうな「トビウオ」のモニュメントに遭遇。

トビウオがいたのは叶埼小橋、続く叶埼大橋には丸々と太った「カツオ」😍。

橋の上から偶然見えてしまった海岸線。あ・・足が・・・😱 と言いつつ、シャッターを切る私💦

「クジラと珊瑚と足摺岬灯台」がまるで絵画のようにデザインされたレリーフがあるのは「叶崎展望台」。車から降りた私たちを遠巻きに窺う猫ちゃんに気づき、手を差し出すと足元に擦り寄ってきた可愛い数匹の仔猫たち。

何故こんな場所に仔猫たちがいるのか・・それを考えると無性に腹立たしくて悲しくてたまりません。無責任に餌をやるのは良くないことだと言われても、必死にしがみつくこの子達をどうして邪険に扱えるでしょう。抱き上げて頭を撫でて・・・連れて帰ってやれない事を一生懸命謝って、どうか無事に生きていくんだよと何度も何度も繰り返して・・神にも仏にも祈りたい気持ちで、そこを後にしました・・・

訪問日:2013年3月24日

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金剛福寺と白山神社 in 高知県土佐清水市

2020年08月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・高知県

足摺岬の先に見える「ガジヤバエ」で修行をされたと言う「弘法大師」。室戸岬で修行を重ねた「空海」は、観音菩薩が住むとされる「補陀落(ふだらく)」に最も近い場所として、この足摺岬を選んだと伝えられています。そして岬の周辺には、大師にまつわる「不思議」な名所が幾つも残されています。 

空海は祈祷を行うため、亀呼び場から亀の背中にのって不動岩に渡ったと云われています。この「亀石」は、亀呼び場の方向に向いており、その姿は今も空海に呼ばれるのを待っているようにも見えます。

海上から相当高い位置にある「汐の満干手水鉢」。岩の上には小さなくぼみがあり、満潮になると水がたまり、干潮になると水がなくなると言われています。この位置では、とても海面と繋がっているとは考えらず、まさに不思議たる所以です。

「大師が金剛福寺を創立の時に発見された石で、石の動揺によって孝心をためすと言われる」と説明のある「ゆるぎ石」。伝え聞くところによると、岩を押して、上に乗ってある石が落ちたら親不孝者なんだとか・・身に覚えのある私には試す根性はありません。さて、ご亭主殿の結果は・・😅

「平安時代中頃、賀登上人と弟子の日円上人が補陀洛(お釈迦様の住む浄土)に渡海しようとしたとき、先に弟子の日円上人が渡海してしまったことを悲しみ、賀登上人がこの岩に身を投げ出し、落ちる涙が不増不滅の水になったといわれています。」弟子に先を越されて泣き悲しむ上人・・・💧

弘法大師が修行した道のりを辿る四国八十八ヶ所のお遍路。その総距離は1100kmと言い、徒歩の場合、一般的に40日程度を要するといわれています。
ここ足摺岬には、四国最南端の霊場「蹉跎山補陀洛院金剛福寺(さだざんふだらくいんこんごうふくじ)」

手水鉢の「亀」は弘法大師様が祈祷の際に呼び出していたという亀に因んだものでしょうか。境内には他にも巨大な亀の像が鎮座しています。

とても印象に残った鍾乳石の柱・・・手前の柱には苦悩にゆがんだ人の顔が見えて・・遍路に知り人の後生を願う人の目には、この恐ろしいとも思える顔はどんな風に見えるのだろう。

「足摺山の一夜」と題する20句が刻まれた句碑

寺伝によれば、弘仁13年(822)に、嵯峨天皇から「補陀洛東門(ふだらくとうもん)」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建て、安置し開創したと云われています。

ご詠歌【ふだらくやここはみさきの船の棹(さお)とるもすつるも法(のり)の蹉跎山】

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足摺岬の最後はこの地に鎮座される、旧郷社「白山神社」。御祭神は『伊邪那岐命、伊邪那美命』。さらに「金剛福寺奥の院」に鎮座される『白皇権現』を合祀。

「元・白山権現と称し、加賀国の白山比咩神社を勧進、当初白山洞門の頂上に祀られていた。金剛福寺の守護神の一つで、土佐藩主山内氏が崇敬、社殿の修復に関わったとの記述が金剛福寺の棟札に伝わっている。大正5年(1916)に白皇山上にあった白皇権現と合祀され現在地に遷座。以後、足摺岬集落の氏神として崇敬されている。」

鳥居の内、拝殿前より神域を守護されるのは、見た目の丸っこさとは打って変わったきつい面持ちの狛犬さん一対。四国最南端のお社を守るにはこれくらいで無いと勤まらないのかもしれません。

屋根の上には「竹林の虎」

太平洋を眼下に望む足摺岬。白山神社の道路向かいに、決して大きくは有りませんが「靖国神社」が鎮座されています。「靖国で逢おう」を合言葉に散っていった多くの御霊の安らかでありますように・・・・🙏🙏

参拝日:2013年3月24日

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足摺岬 in 高知県土佐清水市

2020年08月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・高知県

市内から足摺岬に行くには、半島部の尾根を通る足摺スカイラインが最短コース。ただし、片側1車線にも関わらず、カーブ、急勾配が連続する片道13kの道程・・・私にはかなりの試練。途中で野生の狸や雉に出会ったのにはビックリしましたが、もちろん写真など撮る余裕は有りません😥

兎にも角にも、ヘロヘロになりながらたどり着いた足摺岬。「僕たちは今ここにいるんだよ。」と看板を指さすご亭主殿

現在位置を確かめたら、まずは太平洋に向かって立つ「ジョン万次郎」の後姿とご対面。

文政10年(1827)、土佐の中浜(現:土佐清水市中浜)の貧しい漁師の次男として生まれた「ジョン万次郎こと中浜万次郎」。14歳の時、仲間と共に漁に出て遭難し伊豆の鳥島に漂着。約5ヵ月後にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって助けられ、日本人として初めてアメリカ本土へ足を踏み入れた人物となりました。

万次郎さんに挨拶を済ませ😊 ワイワイと記念スタンプを押していたら、事務所の方から「足摺岬到達証明書」と書かれた葉書をいただきました。こういう配慮って年齢に関係なく嬉しい😆

では早速、「四国最南端」の眺望を満喫。手始めは、足摺岬の展望台からさらに奥に位置する「天狗の鼻」。そこに至る遊歩道は、さしづめ「椿のトンネル」

木漏れ日の中、思い思いに生い茂る枝をかいくぐって進むと、唐突な感じで視界が開け「天狗の鼻展望所」に到着。

眼前に広がるのは雄大な太平洋、見わたす限りの太平洋😍。 感動のあまり、二度も強調してしまいました。そうして右手に小さく見えているのが「足摺岬灯台」

岬の先に見える岩礁は「ガジヤバエ」、弘法大師様が亀に乗って渡ったと伝えられています。が・・実はどの岩礁が「ガジヤバエ」なのか・・分かっていません😓

まぁまぁ・・細かいことはさておき。この素晴らしい景色を収めようと、ご亭主殿はひたすらカメラを向けズームを繰り返しています。でも結局灯台の美しい姿はモノにならず😩

茂みの中にひっそりと建立されていた足摺岬の碑・・・随分古そうに見えますが・・

一通り足摺岬を楽しんだ後は、無料の足湯「万次郎足湯」。難所といわれる道を歩きとおしたお遍路さんには最高の施設でしょうね。それにははるかに及びませんが、私たちも歩き疲れた足をほぐします😊

窓の向こうに見えるのは、高さ16m・幅17mと、花崗岩洞門では日本一の規模の「白山洞門」。温泉の蒸気で曇ったガラス越しなので鮮明ではありませんが、高知県の天然記念物に指定されています。

訪問日:2013年3月24日

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四万十川の沈下橋 in 高知県四万十市

2020年08月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・高知県

山々の緑を吸い込んで青く美しく流れる四万十川。忽然と川の流れを遮るかのように現れる欄干のない橋の風景・・・それは、高知県の旅で最も出会いたい風景の一つ。

ところが調べてみるとこれが意外と多い・・・時間に限りがある身では片っ端から全部と言うわけにはいきません。 出来ればそれなりに有名で、行きやすくて、近くに車が停められて、歩いて渡れて・・😅 そんな欲張りな希望をかなえてくれる橋を探し、結果、三つの沈下橋をチョイス。そうして最初に尋ねたのは、西土佐岩間地区に架かる「岩間の沈下橋」
青い四万十の川岸に菜の花が咲き乱れ、それはもうそのまま、絵葉書の世界。ポスターの世界。パンフレットの世界。

全長120m、普通車の通行可能😲。橋の上に人影が見えたので、私たちも早速途中まで歩いてみる事に! 川風が高揚した気分に心地よく、立ち去るのが名残惜しくてならなかった、沈下橋初デビューとなりましたが

・・・今から思えば何で向こうの端まで行かなかったのか???。残された画像を見るたびに????の数が増える、口惜しく懐かしい「岩間の沈下橋」でした。

続いて尋ねたのは鵜ノ江地区にある、橋脚が3本という「勝間の沈下橋」。私は見た事が無いのですが、「釣りバカ日誌14」の撮影現場としても有名だそうです。

橋の上から見る四万十の流れは、エメラルドグリーンという言葉がそのままの、深い深い青緑、映りこむ水中にも、きっと別の世界があるに違いない・・そんな気持ちにさせます。

思いがけず小さく見えたご亭主殿の姿に慌てて手を振れば、大丈夫だよと笑って手を振り返してくれる・・まるでショートドラマの世界。

最後は佐田地区にある「佐田の沈下橋」。本来は「今成橋」という名称だそうです。 四万十川の最下流、数ある橋の中でも最長の沈下橋。観光用の駐車場も整備されており、観光客の姿も一番多かったと記憶しています。

町中と違って山間は日の落ちるのが思いのほか早く、気がつけば空がうっすらと茜色に染まりつつあります。急がなければ次の目的地につく頃には日が落ちてしまいます。

もう少し時間に余裕を持たせなきゃ、折角ここまで来たのにと、今更の愚痴😔 慣れっこになったご亭主殿は、また次に来ればいいさと余裕でハンドルを握ります。途中、土佐くろしお鉄道の電車と並行するというチャンスに恵まれ、車内からパチリ!

驚異の汽水域・四万十川。四万十大橋の親柱には、迫力満点の「幻の怪魚・アカメ」が跳びはねています。日本三大怪魚の一種とされる「アカメ」。地域によっては絶滅危惧に指定されているそうですが、四万十川はアカメ釣りの聖地としても有名。全国で最も魚種が豊富と言われる四万十川の面目躍如ですね。

実は四万十市では「トンボ」も有名。「いのち輝くトンボ王国」と銘打ったトンボ公園があり、名称不明の橋にも沢山のトンボが群れ飛んでいます。

四万十川に沿ってのドライブでは随分とたくさんの橋を渡るのですが、ここ津蔵淵(つくらぶち)橋には、大文字山を背景に、トンボが群れ飛んでいました。

高知県の西部を流れる全長、196kmの四国内最長の「四万十川」。津野町の不入山を源流とし、高知県中西部を蛇行しながら、四万十市で太平洋に注ぎ込む・・

「日本三大清流の一つ」で「日本最後の清流」とも呼ばれる四万十川。 その雄大な眺めは、長い四国の旅の中でも特に忘れ難いものとなりました。

訪問日:2013年3月23日

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久礼(くれ)八幡宮 in 高知県中土佐町久礼

2020年08月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・高知県

中土佐町久礼に鎮座される「久礼(くれ)八幡宮」。旧社格は県社。古来より、安和、久礼、上ノ加江地区の総鎮守、海の守護神として崇敬されてきました。

御祭神は『応神天皇・神功(じんぐう)皇后・比売神(ひめがみ)・宗像三女神(むなかたさんじょしん)』

宝永4年(1707)、宝永地震の津波による被害で記録を失ってしまったため詳細な由緒などについては不詳ですが、古くからこの地にある神社で、神宝の鰐口に明徳3年(1392)とあり、久礼城主:佐竹内蔵助が奉納したものとされています。現在の社殿は、文政8年(1825)の再建で、江戸時代後期の建築様式を示した優美な美しさを見せています。

拝殿には「三韓征伐(さんかんせいばつ)」に赴く『神功皇后』と、筑紫の宇美で出産された『応神天皇』を抱く『武内宿禰(たけのうちのすくね)』の浮き彫り額が奉納。

古来より漁師の守り神とされた「久礼八幡宮」。奉納された絵馬はどれも興味深く、その謂れが気になるものも多いのですが・・・

何と言っても圧巻はこの見事な「カツオ」!! きっと久礼の町に住む沢山の順平君(のモデル)たちが釣り上げてきたのでしょうね。

しかもこれが、参拝者さんたちの食欲をそそる「ビフォアー&アフター」😲 ご亭主殿も今夜の夕食用に買ってましたよね😄

拝殿の左脇に鎮座されるのは「やくぬけ石」と呼ばれる霊石。無事にくぐり抜けることが出来れば厄を落とせるそうです。そろそろ、色んな事が気になりだした二人、仲良く順番にくぐり抜け、ご神木に参拝もできました。

反対からは出られない「やくぬけ石」は、大正初期に久礼指川のトロッコ軌道工事中、土中より発見され奉納されたものです。由緒書には約一億年前の白亜紀に属する粗粒砂岩であり、何万年もの時間をかけて自然に穿たれた穴である旨が記されていました。

ちなみに「やくぬけ石」を潜れなかった方のためには、御神木の遥拝所が設けられており、諸事情を持つ方、お年を召された方々にも優しい配慮だと嬉しく思いました。

神社と言えば狛犬さん。表参道一の鳥居脇より神域を守護されるのは、建立年代不明の狛犬さん一対。阿吽共に太鼓を持つ姿は珍しく、ご亭主殿には大収穫。ですが潮風に痛めつけられた体には剥落が見られ、次にもう一度同じ姿に会えるかどうかは分りません。

境内入口に立つ二の鳥居前より神域を守護されるのは、明治32年(1899)1月吉日建立のいわゆる「土佐型」狛犬さん一対。

阿吽ともに恐竜のように逞しい口元ですが、噛まれたら痛いだろうなぁ・・・・😱

さらに境内の内より神域を守護されるのは、大正13年(1924)4月吉日建立の土佐型狛犬さん。先のものよりは少し大型。

境内社:秋葉神社・八坂神社・三社神社が鎮座される入口。鳥居脇より神域を守護されるのは、明治24年(1891)8月吉日建立の 土佐型狛犬さん。

阿形さんの顔立ちが何かに似ていると思ってじっと見ていたんですが・・・ああ、分かりました!!カッパさん!!

西参道、北参道と多くの入り口を持つ久礼八幡宮ですが、最後は北参道入口より神域を守護される狛犬さん一対。

寛政5年(1793)癸丑8月吉日建立・・・。長い年月をこの地で頑張ってこられた阿形さんの下顎は欠けています。が、見ようによっては大笑いをしているようでもあり、吽形さんはそんな阿形さんを優しく見守っている様にも見えて。

どの子も皆、個性的で人懐こく優しく・・ご亭主殿は空腹であることをすっかり忘れてしまったみたい。境内社「稲荷社」を最後に神社の参拝は終わりです。

一の鳥居脇に建立された二つの歌碑。

【かきま久禮 うらみて帰る浜千鳥 眞砂の数や 涙なるらん】『飛鳥井曽衣』

【古や 汝も恋しき浜千鳥 久礼の浦廻をち かえり鳴く】鹿持雅澄』

参拝日:2013年3月23日

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久礼浦と久礼大正通り in 高知県中土佐町

2020年08月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・高知県

土佐十景の一つとされる「双名島(別名・比翼島)」。左が「観音島」、右が「弁天島」と呼ばれ、それぞれの島には「観音様」と「弁天様」が祀られ、歩いて渡ることが出来ます。

【人ならば うれしからまし 二名島 ふたつならびて 万代までも】これは『大町桂月』が大正9年(1919)に久礼に来た折に、「双名島」の景色を見て詠んだ句。

久礼浦の原風景とされる景勝地「双名島」。この二つの島は、波にさらわれる村人の悲しみを思いやった鬼の親子が、防波堤とする為に鬼ヶ島から運んだ岩だと伝えられています。

伝説では、金棒に二つの岩を刺してここまで来たものの、岩は重くやっとの思いで久礼に辿り着いた親鬼は、ここで動けなくなくなってしまいました。けれど一緒についてきた子鬼が溺れかけたため、親鬼は最後の力を振り絞って子鬼を助け、そのまま力尽きて海に沈んでしまいました。泣きくれた子鬼も、やがて小さな岩になってしまった・・・🙏この鬼の親子の伝説は「まんが日本昔話」の題材にもなったそうです。

大町桂月氏の歌とは程遠い悲しいお話ですが、鬼と言えば悪者として語られがちな昔話にも、こんな優しい鬼がいたんですね。

さて、中土佐に入っての楽しみは「久礼大正町市場」。市場の起源は明治の中頃と古いのですが、大正時代の大火で市場は焼失。後に大正天皇から復興費が届けられたのを機に、通りを大正町と改名。以来「大正市場」と呼ばれるようになりました。さて、何か美味しいものが見つかるかな?😄

市場の入り口からは、真っ直ぐに吹き抜けの通路があり、その先に出口が見えているような小さな市場です。けれど活気の良さはさすが土佐の漁師町。活きの良さでは人も魚も負けていません。

大正通りには、見覚えがある様な無いような懐かしい看板が一杯で、まさにレトロ感が一杯。

だからってこれは少々やりすぎでは😅

どこかの人権団体に「差別だぁ!!」と言われて消えていったカルピスの懐かしい顔。思うのですが・・黒く塗ったから差別だって思う思考のほうが問題だと思いませんか?で、この件以降「ダッコちゃん」も消されていったんですよね😣

観光案内所で出迎えてくれるのは、大正町市場のマスコットキャラクター『くれ坊』。夏はモチロン、冬でもランニング一枚で大正通りを駆け抜けています。

市場を楽しんだ後は、久礼の町歩き。やってきたのは由緒ある佇まいの造り酒屋「西岡酒造」さん。天明元年(1781)創業で、約二百三十年の歴史を持つ中土佐町の蔵元です。

店舗の中では、昔の酒造りの道具や酒器なども展示されており、自由に見学もできます。特に古い酒のラベルは、ご亭主殿が趣味で集めていることもあり、興味津々😲   

こちらの恵比寿:大黒様は何時ごろから厨司の中に納まっておられるのでしょう?黒くすすけたお体は、お店の長い歴史の証し。手前の三宝には、多分とても古いお金が供えられています。

歴史のある酒蔵って、空気まで特別な香りがする。糀の甘酒しか飲めない私が言うのも何ですが、とっても好きです😅 で「司牡丹」に続いて「順平」のお買い上げ。

さぁ、美味しいお酒も買ったし、今夜のおかずに本場のカツオのたたきも買いました。😄 最後はカツオ人間になってポーズを決めてもらいましょう😍

訪問日:2013年3月23日

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津野町での車中泊失敗談 in 高知県津野町~須崎市

2020年08月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・高知県

高岡郡津野町(つのちょう)は高知県の中西部に位置する町です。須崎市、吾川郡仁淀川町、高岡郡中土佐町・佐川町・越知町・檮原町・四万十町に。また県を跨いで愛媛県上浮穴郡久万高原町に隣接。四国山地に抱えられた地域は急峻で、約90%が山林で占められ、農地や宅地の面積比率は低くなっています。葉山地域は中央部を東西に清流新荘川が、東津野地域は東部を不入山を源流とする日本最後の清流四万十川、中央部を北川が流れ、どちらの地域も川沿いに集落が点在。「町の木:ヒノキ」「町の花:アケボノツツジ」「町の鳥:ヤマガラ」を制定。

キャッチフレーズは「清流と風と歴史に会えるまち」

明治22年(1889)、町村制の施行により、高岡郡上半山村 、下半山村、東津野村が発足。

1956年、上半山村と下半山村が合併、高岡郡葉山村が発足。

2005年、葉山村と東津野村が合併、高岡郡津野町となりました。

2005年2月1日制定の町章は、全体で「つの」を表しています。

道の駅周辺と国道沿いを少し探してみましたが、ご当地マンホールの類は見つけられませんでした。

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「道の駅・布施ヶ坂」の所在地:津野町船戸は、2005年の合併前までは「東津野村船戸」という地名でした。

はるばる伊野まで祖母を訪ね、翌日タクシーを使って祖母と四人でご先祖様のお墓参りに来た山間の故郷・・あれは多分、白い靄のかかった、あのあたりだったか・・・

この日は夕方から雨が酷くなり、そのせいか周囲は薄暗く、ともすれば淋しさがヒシヒシと・・・。それでも二人でワイワイ騒いでるうちはそれなりに楽しかったし、道の駅の方と津野の思い出話にも花を咲かせていたのです。

明日になればきっと雨も上がるだろうし、今日はここで車中泊をさせていただき、朝一番に、記憶の中の場所に行こう。今はご先祖様のお墓も、義父が住む地に引っ越して、何があるというのでもないのだけど・・。そうそう、マンホールも探して見なきゃね。

誰もいないのを幸いに、良い年ごろの大人が二人、天狗の滑り台を楽しんだり、津野山古式神楽の鯛を捕まえてみたり😄

東津野村って何にも無い山だけの所って思ってたけど、こうして見ると色々ありそうだよね。あ、もしかしてあの船戸地区が山の中過ぎたとか?😲、とか😅

でもね、時間が絶につれて淋しい! 物産館の人たちが店を閉めて帰ったら、更に淋しさは増して、シ~~ンという音が聞こえるくらい・・、とにかく人の気配が全く無い!!。
たま~~~~~に、本当にたま~~~~に、車が凄いスピードで走りすぎていくのも、寂しさに追い討ちをかける😱

後はただ、雨にけぶる山の夜・・・・と言うことで、臆病な二人は、先に立ち寄った須崎の道の駅へ、とっとと逃げ出すことにしました😓
車中泊の条件に「静かさ」を一番に挙げる方は大勢居ますが、私たちはてんで駄目。 一台でもお仲間が居たらそんなことは無いのですが・・やっぱり人の気配が恋しく、遠くに見える筈の灯りを目指し、霧がたちこめ始めた道を一心不乱に車を走らせました。

ようやく道の駅「かわうその里」にたどり着いた時の、あの何とも言い難い、とろけそうな安堵感😄😄
都会の喧騒がこんなに嬉しいなんて、車泊のプロが聞いたら鼻で笑うかも知れませんね😅

車泊をさせて頂いた「道の駅・かわうその里すさき」。朝早くから沢山のバスや車、大勢の人でとても賑やかですが、夜も同じくらい賑やか。おかげで、とてもぐっすりと眠ることが出来(耳栓必須)、心から感謝しております。

車で旅をする私達にとって、こうした施設は、本当にありがたく大切な場所です。

改めて、その折は有難うございました🙏🙏

撮影日:2013年3月23日

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司牡丹:酒蔵通りの町歩き in 高知県佐川町

2020年08月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・高知県

「藩政時代の風情をいまに伝える酒蔵の街なみ・・佐川:酒蔵通り」。何とも心引かれるキャッチフレーズに釣られて、やってきました佐川町上町地区。

主に商人が居を構えた城下町はいまも当時の面影を受け継ぎ、伝統的な商家住宅や酒蔵が風情ある街なみを形成しています。

江戸時代中期より酒造業を営み、往時の有力商家の佇まいを残す佐川屈指の商家「竹村家住宅」。東棟は安永9年(1772)、座敷部は天保9年(1838)の建築と言われ、土佐地方の有力商家の住宅として重要であるとして、国の重要文化財に指定されています。

佐川町出身の元宮内大臣『田中光顕伯』より「天下の芳醇なり、今後は酒の王たるべし」と激励の一筆が寄せられたことから、「司牡丹」として今も愛され続ける「司酒造」

この大きな煙突の下に続く蔵の長さは、何と85mもあり、日本でも有数の長さだそうです。

ほのかに漂う日本酒独特の香り・・・香りに誘われたのか、酒好きのご亭主殿たっての希望で、司牡丹酒造のショールーム「ギャラリーほてい」に入館。

司牡丹が製造する様々な銘柄の日本酒と共に展示されているのは、お酒にちなむ品々。 ポスターからラベル、販促品等々、これは酒好きならずとも、思わず手にとって見たくなるものばかり😃

酒樽の上で良い気分になっているのは大黒さんですか、それとも酒蔵のご主人様?。頭の鉢巻が徹底的にイカしてます。

という事で、とっておきの司牡丹を購入して超ご機嫌なご亭主殿。次に訪ねたのは、県下最古の木造洋館で、明治初期の鹿鳴館時代の雰囲気を伝える「佐川文庫庫舎」。明治19年(1886)に須崎警察署・佐川分署として、上町西方の山側に建築されました。

その後、昭和5年(1930)に「川田文庫・青山文庫」として、西町に現状のまま移設。昭和53年(1978)には、佐川町総合文化センター敷地内に民具館として再移築され、2010年に当初の場所に戻され、現在に至っています。

「土佐本線・佐川駅」に貼られてあったステッカー。思わずお土産に欲しくなるようなデザインに惹かれて、画像に残したもの。「文教のふる里 青山文庫のある駅」・・。結局「青山文庫」には行きませんでしたが、ちょっとお洒落な町歩きでした。

訪問日:2013年3月22日

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