車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

坂下宿・法安寺 in 三重県亀山市関町

2017年02月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

亀山市関町、東海道五十三次四十八番「坂下宿」。鈴鹿峠の麓に位置し、東海道難所のひとつである鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家などの宿泊も多く、江戸時代後半には本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48件が軒を連ねていました。

町並5町56間、戸数約150戸の宿場町は、道路拡幅によって往時の景観を失いましたが、石造物などにかつての面影を偲ぶことができます。

坂下宿本陣の一つ「松屋」の門の一部が移築された、市指定文化財「法安寺の庫裏玄関」。坂下地区に残る唯一の本陣の遺構です。

亀山市関町坂下に門を構える曹洞宗寺院「鈴鹿山:法安寺」『釈迦牟尼』を本尊とします。

「室町時代:永正2年(1505)開創」の記載のみ。境内に建立されていた「當時本尊:信濃善光寺分身如来」と刻まれた碑。なにがしかの手掛かりになったのではと思うと、他の面の刻字を確認しなかったのが悔やまれます。

残念ながら由緒等は不明ですが、関宿にも負けない賑わいを見せていたと云われる坂下宿の寺院。参拝者を出迎える山門の随所に見られる意匠は流石と唸らせるに足るもの。

山門の上部、菊花紋を彩るのは満開の牡丹の花。こんな雨でなければもっと美しい姿を紹介できたのに・・・

初見と思われる留め蓋獅子。これほどの大きな顔を持つ獅子は今まで見てきた中でも類のないもの。

阿吽ともに非常に凝った細工が成されています。

山門を守護する棟の鬼面瓦もまた魅力ある姿。

はんなりと優しい留め蓋の飾り瓦、これは牡丹菊だろうか?

山門を潜った先の境内、真っ直ぐに本堂。本堂の後方に見えるのは「三子山」だろうか? 右手には本陣の門が移築された庫裏が並びます。

参拝者の為に配慮された通路に感謝。

本堂屋根の留め蓋瓦から参拝者を見守る阿吽の獅子たち。身をよじって抱きしめているのは玉なのか?それとも毬なのか?出来ればもう少しズームにしたかったのですが、何しろこの雨・・防水でないデジカメでは、これ以上は無理 (>_< )

境内の一画に建立されていた宝篋印塔

山門近くにあった句碑【 わが宿や  來鳴き豊もす 春の鳥  】西行法師へのみち 法安寺 せんこれ」誰の作なのか、何故ここに在るのか全て不明(-"-)

その昔、鈴鹿峠を前にした旅人は、ここで英気を養って難所の峠越えに備えたのでしょう。 難所越えをしてきた旅人は、次の目的地に向かうべく賑やかに語らって一息ついたのでしょう。かつて繁栄した宿場町であったことを示すのは、後に立てられた数基の石碑のみ。
雨の下でうずくまる様に広がるのは一面の茶畑、当時を偲ぶ手立ては何もありません。

参拝日:2015年9月6日

 

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鈴鹿峠自然の家 in 三重県亀山市関町

2017年02月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

関宿入口の「碑」の存在に気を取られ、思わぬ道草を食ってしまいましたが関を過ぎてしばらく走り、沓掛の信号手前で鈴鹿川沿いの道に。降りしきる雨が行く手を邪魔し、この先の展開を想像すると気持ちも萎えそう・・

なんて弱音は禁物!とりあえず(笑)亀山市関町沓掛にある「鈴鹿峠自然の家」の駐車場に到着。もう少し小雨になるまで車中で待機。ついでに遅くなった昼食を済ませて・・・こんな時車泊仕様の車はのんびりと足を延ばして寛げるので楽です(〃∇〃)

とりあえず傘をさして歩ける状態になったので、流れに逆らって坂道を登る事に。左手に並んだ杭は東海道五十三次の宿場名を書いたもの・・・、でもとにかく雨なので上を目指します(笑)

「鈴鹿峠自然の家」公式HPには、「豊かな自然と東海道五十三次坂下宿や鈴鹿峠に隣接した歴史環境の中で、あたたかみのある木造校舎を活かしてさまざまな体験活動が行える。」と紹介されています。

国登録有形文化財の建物は、昭和13年(1938)に建築された木造平屋建、瓦葺の「旧坂下尋常高等小学校」。片廊下4教室の校舎2棟を並べ、正面中央に妻をハーフティンバー風にみせた車寄せ。

下見板張りのベージュと白のコントラストが美しい旧校舎。玄関には車寄せもあり、その当時としてはかなり立派な校舎です。

建物の一段下にある「天文台「童夢」。「2002年から天体観測を主体として地域活動を展開してきた「坂下星見の会」の実績を受けて、亀山市によって2010年3月に設置されました。星がきれいにみえるという坂下地域の特性をいかして、数多くの方々に天文に興味をもっていただくとともに、地域の交流の場となるコミュニティ天文台として運営を行っている三重県下でも貴重な存在です。」公式HPより

こうやって横に並んでみるととてもこじんまりとした建物だという事がよくわかります。それでもこんな静かな山の中で見る星空は、きっと降るようにい美しいだろうと思います。

雨だったのできちんと確認しなかった何かの顕著碑。後で調べればわかるだろうと思っていたのですが・・・甘かった。

校舎の見学も出来そうにないし、この雨では周囲をうろつくのも難儀だし・・万が一にもと目で追った限りでは、マンホールのマの字も無さそうだし(-"-)

ここは潔ぎよく引き返し、次の目的地を目指す事にします。校舎の反対側に見えているのは「鈴鹿馬子唄会館」「坂は照る照る 峠は曇る あいの土山雨が降る」、鈴鹿峠を発祥の地とする鈴鹿馬子唄。馬の背を撫でながら峠を超える馬子の唄が聞こえてくるような・・
「坂(坂下宿)は晴れ、鈴鹿(鈴鹿峠)は曇り、相対する土山(土山宿)は雨が降る」

東海道五十三次の標柱を数えながらのくだり坂、何だかんだと言いながらでもそれなりに楽しめるのは、きっと仲良しのJさんが一緒だから d(-_^) 

次の目的地は「坂下宿」。車が走り出したところで雨は小降りに・・・何だかなぁ・・(=_=)

訪問日:2015年9月6日

 

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関の宿場歩き~ in 三重県亀山市関町

2017年02月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

重伝建地区の指定を受けた関宿・・とは言っても、ここは普通に人々の生活が営まれる場所。神社もあれば郵便局も銀行も、酒屋さんや薬局等々・・当たり前の暮らしがあります。関宿最後の紹介はちょっと懐かしい、ちょっと珍しい、そんなあれこれを集めてみました。

右から左の横書きで「 約特店商義野塩社會式株」「局藥オガナ」 「番五拾四 話電」。こんなアンティークな看板が架かるお店。今は薬道具などのかわりに大正から昭和にかけての粉ミルクや看板などが並べられ、気楽に立ち寄れるカフェとして営業されています。

に榮のマークは「東亜足袋商会」「電話十一番」が老舗を物語っています。

古い町並みと言うとまず私たちが目で追うのは屋根・・の上の瓦・・の飾り。一般的には鬼瓦が代表的ですが、実は意外とバラエティに富んでいるのです。まずは釈迦の説話に由来する「竹藪に潜む虎」。

商店などに用いられる縁起物で「扇面に恵比須大黒」

おそらく留め蓋の飾りとして使われていたのでしょう。福々しい「恵比須大黒」

「♪~大きな袋を肩にかけ~」「大黒様」。決してサンタさんではありません(笑)

屋根に瓦と続いたら、何は無くても「鍾馗様」。鬼より強い鍾馗様は魔除けの最高アイテムです。

何とも良い雰囲気の「厨子(つし)二階」虫籠窓(むしこまど)に見惚れた視線の先・・おや?!あんな所に「鏝絵」が。

卯建壁の左右に誂えられた「鶴と亀」。仙人に使える鶴、海神の使いの亀は対となって「家庭円満・健康長寿」を意味します。

ご亭主殿とJさん、二人仲良くデジカメを向けた先は・・

壁から飛び出す鶴と

妙にリアリティのあるカメさん。

私は足元の「郵便集箱(POST)」を担当(笑) 郵パックなども取り扱われているようなので、出張所的なお宅かもしれません。

こちらのお宅は「鯉の滝登り」。立身出世の諺としてよく使われますが、遠目から見ると「イルカ」みたいで・・可愛い(^^;)

「ダイニング山石(さんせき)」。建物は明治以前のものだとか。一押しメニューはお重からはみ出す「わらじかつ重」と、スキレットで供される「亀山みそ焼うどん」。

山石さんの鏝絵はいわゆる「龍虎」「雲は竜に従い、風は虎に従う」の故事から昔の武将などに特に好まれた題材ですが、こちらでは厄除けを願ってとの事。

「御髪結処(おんかみゆいどころ)美容院マチ」の鏝絵は・・

「鯉の滝登り」・・・写す位置の都合から、滝の向こう側に鯉が隠れて今ひとつ分かり難くなりました。ちなみに左側の鏝絵は・・・滝かな?と思うのですが・・良く分かりません(^^;)

道路に面して総格子戸のお宅。屋根から足元までの横壁は・・・これもやはり「袖壁」、もしくは「袖卯建」なのでしょうか?

一階屋根の両端に施された鏝絵は、丸枠の中に「飛翔する龍」

同じく丸枠の中の「逆巻く荒波と千鳥」

黒漆喰の壁に白漆喰のバラの花。最初は何か分からなかったのですが・・・

近寄って確認したところ、幾重にも重なる花びら・・。発想の柔軟さに思わず「薔薇だぁ・・・」と呟く女性陣。

上ばかり見上げていると目の前の大作を見逃してしまいます。どこかのお宅の庭に展示されていた「大仏様と青い象」・・って、何かの判じ物??それにしてもかなりの大作です(^^;)

鈴鹿山系を背景に向かい合う「深川屋」と「玉屋」。何時までも心に残る光景です。

訪問日:2011年4月10日

追記:そうそう、関宿の入口には「街道○○」と刻まれた大層立派な碑があります。有名な万葉歌碑の類だろうか?それとも・・?内容が分からない碑と言うのはどうにも気になるもので・・4年後に関宿を通りかかった時、雨にも関わらず車を降りて確認してきました。立派な碑は、鈴鹿馬子唄の一節が抽入された「街道おんな唄」の歌詞・・・ ミ(ノ;_ _)ノ =3。

別に良いんですけどね・・・歌謡曲でも、しかもそれがB面収録でも別に良いんですけど、しっかりと雨に濡れてしまった私の立場は??。悔しいのでちゃんと写真は撮りましたとも!(笑)

 

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関(せき)神社 in 三重県亀山市関町

2017年02月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

亀山市関町木崎、関宿に鎮座される「関(せき)神社」、御祭神は『天照大御神・甘美内宿禰(うましうちのすくね)』

「創祀年代は不詳。関氏の祖、実忠が紀伊国熊野坐神社の分霊を勧請したものと伝えられ、江戸時代には熊野三所大権現と呼ばれた。元和7年(1621)、寛永14年(1637)、元文4年(1739)に大修理が行われた。 明治5年(1872)頃に「熊野皇大神社」と呼ばれた。明治41年(1908)、周辺の小祠を合祀し、関神社と改称した。」

御本殿

二の鳥居左右より神域を守護されるのは、「神恩報謝 郷土安穏」昭和十二年丁丑一月吉日」刻の狛犬さん一対。いかにも賢そうな吽形さんと、悪戯がばれて半べその阿形さん・・・なんて言ったら叱られるかな (^^♪

拝殿

拝殿前より神域を守護されるのは、2007年7月吉日子建立の量産型狛犬一対。基本的にこのタイプの紹介はしないのですが、珍しく顔立ちがユニークだったので(笑)

お口直しは拝殿屋根留め蓋瓦の飾り獅子一対。真横にピンと揃えた足が平均台の体操選手を彷彿させて美しく、技も見事に決まっています。

境内の片隅に咲いていた「白スミレ」

「「関の山車」は東海道関宿に元禄年間から伝わる祭礼で、江戸後期には16基もの山車があり、横幕・見送幕・提灯を豪華に飾りつけて華美を競い合いました。山車の台車から上が回転する構造となっており、巡行時の辻々などで勢いよく回転させることが特徴の一つにあげられます。狭い宿内の家並みを山車が巡行する様から、「限度いっぱい」という意味の「関の山」の語源となったと伝えられています。現在は木崎町・大裏(北裏)町・中町三番町・中町四番町の4基が保存され、関神社の夏祭りとして例年7月下旬の土・日曜に開催されています。」地域文化遺産HPより

「中町三番町山車倉」

「中町四番町山車倉」  「木崎町山車庫」

参拝日:2011年4月10日

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御神名一口メモ

『甘美内宿禰(うましうちのすくね)』、第八代孝元天皇の孫、または三世孫で、武内宿禰の弟。山代内臣(内氏)の祖。山代の内とは山城国綴喜郡有智郷(現・京都府八幡市内里)を指し、同地には「式内社:内神社」が鎮座されます。

 

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関地蔵院 in 三重県亀山市関町

2017年02月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

三重県亀山市関町新所に境内を構える真言宗御室派寺院「九関山(きゅうかんざん):宝蔵寺(ほうぞうじ)地蔵院」。『地蔵菩薩』を本尊とします。三重四国八十八箇所第28番札所。通常は院号の地蔵院をもって「関の地蔵」「関地蔵院」とも称されます。

由来「わが国最古の地蔵菩薩で知られる地蔵院(通称・関のお地蔵さん)が所在します。天平十三年(741)、奈良東大寺の僧行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられています。」公式HPより

重要文化財「本堂」。 寄棟造本瓦葺き。元禄13年(1700)建立。

時代は下り、享徳(きょうとく)元年(1452)。改めて地蔵菩薩の開眼供養されたのが『一休禅師』と伝えられており、関宿かるたに【一休が 開眼供養の地蔵院】と紹介されています。(天保年間建立の「一休尊像」

本堂縁先にて参拝者を迎えてくれる「お賓頭盧(びんずる)様」。お釈迦様のお弟子である十六羅漢 (じゅうろくらかん)の筆頭で「びんずるさん」とよばれ親しまれています。病気を治す力があるとされ、自身の痛む場所を撫でるとその部位の病気が治るといわれています。

境内の一画に立像されていたお地蔵様。満開の桜の下で見るお姿は、誰の面影も重ね合わせられて、ひたすらに優しく穏やか・・・・

桜の花に包まれた地蔵菩薩立像。

重要文化財「関の地蔵:愛染堂」。寛永7年(1630)に本堂として建立。室町鎌倉の建築様式としては三重県下最古と言われます。

重要文化財「鐘楼」。寛永21年(1644)建立

境内に奉納されていた梵鐘。梵鐘を支えるのは、どこか見覚えのある小さな仏様・・多分、記憶が正しければ『東大寺別当:清水公照氏』「どろ仏」と呼ばれるものでは??

「明治天皇關行在所」

境内に奉納された鹿の像。傍らの案内に「壬申の乱において大海人皇子が山中で迷った際、鈴をつけた鹿が現れ、その鹿の背に乗って関まで無事に向かったという伝説にちなんだもので、鈴鹿の地名はこの伝説に由来しています。」

俗謡に「せきの地蔵さんに振袖きせて  奈良の大仏むこに取る」があります。公式HPで拝したお顔はとても優しく気高く・・・・お姿は静寂そのものでした。

参拝日:2011年4月10日

(トップ画像のみ2017年12月14日)

 

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東海道五十三次之内:四十七:関宿 in 三重県亀山市関町

2017年02月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

「道の駅:関宿」の入り口マットに描かれているのは、『歌川広重』「東海道五拾三次之内・関」の図」。

旧伊勢国・鈴鹿峠の麓に位置する東海道五十三次・四十七番目の宿場「関の宿」。古代からの交通の要衝であり、壬申の乱の頃に置かれた「愛発の関(越前国)・不破の関(美濃国)」と共に、古代三関の一つに数えられる「鈴鹿関(伊勢国)」が関宿の由来と言われています。(奥に見えるのは鈴鹿山系の山並)

東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する立地にあり、約1.8キロメートルにわたる関の宿。その始まりは、天正年間(16世紀末)に伊勢国領主『関盛信』による領内の道路改修から。その後、徳川家康が慶長6年(1601年)に行った宿駅制度によって、東海道47番目の宿場として本格的に整備が成されました。

明治大正、そして昭和の戦後を経てもなお、江戸時代当時の宿場の賑わいを彷彿させる街並みが残されていた関宿。戦後、旧東海道の宿場の大半が旧態を失いつつある中、関宿では町並み保存の機運が高まり、昭和55年(1980)2月に「町並み保存会」を結成。同年6月、「関町関宿伝統的建造物群保存条例」が制定され、伝統的建造物として多くの町家の保存と修復がなされました。

そうした地元有志の方々の努力の結果、昭和59年(1984)12月、関宿の面積25ヘクタールにおよぶ地区が、全国で20番目・三重県では初となる国の「亀山市関宿重要伝統的建造物保存地区」に選定。さらに、昭和61年には「東海道の宿場町・関宿」として「日本の道100選」にも選ばれました。

「関で泊まるなら鶴屋か玉屋」とうたわれた「旅籠玉屋」 。ここでは、実際に使われていた当時の道具類や、旅籠に関する資料などが展示されており、「旅籠玉屋歴史資料館」として一般公開されています。

当時の貴重な建物がそのままに残された関宿を代表する旅籠建築「玉屋」。二階部分中央には、その屋号にちなんで、「宝珠の玉(玉から火焔があがる様)」を象った虫籠窓が設けられています。

江戸時代末期に建てられた関宿を代表する町屋「旧別所家」は、「関まちなみ資料館」として「旅籠玉屋」と共に一般公開されています。

寛永年間(1624~1645)に初代が考案した伝統銘菓「関の戸」で有名な「深川屋 服部家」。漆喰を塗籠めた土壁に虫籠窓がある二階建て平入りの家屋で、源氏車に二つ竹の家紋を施した細工瓦が広い間口の上を覆っています。

二階中央にある「庵看板」は関宿のシンボル的存在として知られており、私たちも含めて、道行く人の大半がカメラを向けています。

「鶴屋:脇本陣跡(旧 波多野家) 鶴屋は西尾吉兵衛を名乗っていたので西尾脇本陣ともいった。二階避面に千鳥破風をのせた派手な意匠である。」

「雲林院家:昔は開雲楼と称した芸妓置店であった。街道筋の宿場では大抵の旅籠は飯盛り女と呼ばれる遊女を置き、また専門の遊郭も多かった。かいうん楼はその代表的なもので表の立繁格子やべにがら塗りの鴨居や柱にその面影を残している。

「田中屋:田中家は大正初期に建築された代々左太夫を名乗り醤油醸造業を営む。間口十五間半二階建て総格子作りの表構えもさることながら、内部は広々した~以下略」

京都の町屋などでたまに見かけるばったり床几。普段は壁や格子際に立てかけておき、使用する際にばったりと倒して使う事からこのように呼ばれます。物を並べたり、夕涼みをしたり、ご隠居さんが集まって将棋を指したり・・用途は無限大(笑)

「大井家:代々玄庵を名乗り医者であった。明治初年には西洋医学を学び種痘医として、また眼科・参加・内科医として地域医療に活躍した。

「百六里庭・眺関亭」は安政6年(1859)に建築された「橋爪屋十兵衛家」があった場所。母屋は取り壊されましたが、階上からは関宿の町並みが一望できます。

眺関亭から、江戸方面に向かう関宿の町並みを見る。

眺関亭から見る、京都方面に向かう関宿の町並み。高所は泣くほど苦手ですが高い塀が廻らされているお陰で、心おきなく甍の波を堪能できました。

東海道と関神社参道入口の角にある「御馳走場」。御馳走場は大名行列を宿役人が出迎え見送る場所の名称であり、ここで食事を供したわけではありません。 大名行列は「御馳走場」で出迎えを受けた後、隊列を整え「下に~、下に!」の掛け声に合わせて宿泊する本陣まで進みます。

「橋爪家 :代々橋爪市郎兵衛を名乗り、寛文の頃より両替商を営み江戸にも出店を持ち大阪のこうの池家と並び称される豪商であった江戸末期は芸妓の置屋として栄えた。街道に面して手摺付の二階妻入建てであるが、これは明治期の改造で元は平入りの屋根であった。」建物案内より

個人旅行者向けの旅人宿「関宿まちかど博物館:旅人宿石垣屋」。築約120年の建物内には地域の人たちから提供された昔の生活道具やレトロなバイクなどが展示されています。

地蔵院前にあるお食事処「会津屋」さん。「 関で泊まるなら 鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら 会津屋か 」と謡われた程、往時は鶴屋・玉屋と並ぶ大旅籠でした。

江戸時代初期、本陣の役割を担った御茶屋御殿跡地に建てられた「関郵便局」と・・・

江戸時代の数々の絵図を基に忠実に復元された、「高札場と高札」

白漆喰の厨子(つし)二階に虫籠窓を持つ「百五銀行関支店」。公共の建物もここでは重要な景観を担っています。

町並みは美しく、建物はどれも時代を髣髴させる佇まいで、その存在感を示します。目を閉じて・・・・それからゆっくり目を開けたら、もしかしたら目の前を歩いているのは鈴鹿峠を越えて一息ついた旅人さん。忙しく辻を駆け抜けるお店の人たち。 威勢のよい掛け声で町を往来する物売り、裾裁きもあでやかに木戸を開けて声をかける若い女将さん・・・一時の春の夢です (=_=)

関の宿場歩き・・もうしばらく続きます(〃∇〃)

訪問日:2011年4月10日

 

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