車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

峨嵋山:普賢寺 in 山口県光市室積

2024年06月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

光市室積、峨嵋(がび)山の北麓に門を構える、臨済宗:妙心寺派寺院「峨嵋山普賢寺」。海の守護神とされる『普賢菩薩』を本尊とします。

縁起「播州書写山円教寺の住職である性空上人は、長年、普賢菩薩を拝したいと願っておられた。ある夜夢のお告げにより、周防室積の地に錫を留めるに至り、当時の古老に種々の昔の話を聞かれた。そして漁師の手によって沖合の海中より出現の霊像を拝され、此れを普賢山上大多和羅山に庵を結び安置された。後年現在の場所に普賢寺御堂が建立され、本尊として安置されている。創建当時は天台宗であったが、後に臨済宗となり現在に至る。江戸時代全期及び明治初年の版籍奉還までは毛利公の祈願所とされ、お手普請寺として寺格は高かった。」

寛政十年(1798)の建立とされる入母屋造、三間一戸の仁王門。その左右より普賢菩薩を守護されるのは、身の丈3m程の吽形:那羅延金剛、阿形:密迹金剛像。お顔立ちが見知っている誰かに似ていて、思わず誰だったか?と、一思案😅。

仁王門から真っ直ぐ正面に「普賢菩薩堂」

参道緒中に建立された、撫で牛ならぬ「撫で象」は・・初見です😲 天神様には「牛」が定番。普賢菩薩様は像の背に乗られているので、これまで見た事が無かったことが不思議だったかも😊

後姿が何ともプリティーで、思わず撫でてしまった・・撫で象様のお尻 😅

参道途中に架かる石橋は、寛政元年(1789)8月、徳山の『石工・浜田屋平左衛門』による建造。

主要伽藍を取り囲むように作られた環濠は、木々の影を写し、しっとりと落ち着いた風情を見せる。

色鮮やかな鯉に混じって黒く蠢くのは・・意外に大きな亀の軍団😅

参道正面に「香炉」があり、後方に普賢菩薩像を安置する「普賢堂」。現在の普賢堂は天明8年(1788)に建て替えられ、大正6年(1917)と1992年に改修されたものです。

「普賢堂」唐破風向拝の天井には、干支が描かれた羅針盤。海運で栄えた室積らしい意匠ですが、何時の時代の奉納でしょうか?

「普賢堂」と、『性空上人・薬師如来像』が安置される「開山堂」とをつなぐ朱塗りの橋。

普賢寺「本堂」

本堂右手の玉垣の内。左に芭蕉句碑【庭 掃(はき)て 雪をわするゝ 箒(ほうき)かな】。二基目に「平判官康頼の碑」「宝篋印塔」「五重石塔」、右端には萩藩主毛利吉就が性空上人の事跡を偲んで貞享三年に建立した「室積性空上人の碑」。

治水年間、京都の鹿ケ谷事件に連座した平康頼は、僧俊寛と共に鹿児島の鬼ヶ島に流罪となり、途中瀬戸内海で時化に会い室積の浦に立ち寄った。その折に受戒し、名を性照と改め一首の歌をとどめた。(境内案内より
【 ついにかく そむきはてけむ 世の中を とくすてざりし ことぞくやしき 】

普賢寺方丈の南庭に、雪舟の築造と伝えられる「普賢寺庭園:雪舟庭園」

「峨嵋山を背景に前面を池に見立てて、東南部に枯滝(三尊石)を中心に両側に組み込んだ豪華・雄大な石組は、枯山水庭園の初期の特徴を表している」とのこと。時間に余裕があれば・・は、「今回はパス」の合言葉😅

参拝日:2013年4月18日

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tibineko一口メモ

「三間一戸」とは、正面からみて柱間が3間あり、そのうち1間分が通路になった型式。寺の山門に多く見られる。

 

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浅江(あさなえ)神社 in 山口県光市浅江

2024年06月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

光市浅江に鎮座される「浅江(あさなえ)神社」。御祭神は『別雷公命(わけいかづちこうのみこと)・玉依姫命(たまよりひめのみこと)・神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)・應神天皇・神功皇后・宗像三女神・大山咋命(おおやまくいのみこと) 』

「加茂大明神は中世からの古社で山城の国より勧請。山王八幡宮は大宝三年豊後の国宇佐宮より勧請。二社に山王原の一社(祭神、大山咋命)を併せ、山王八幡宮と賀茂社を合祀した為、明治4年(1871)、浅江神社とした。」公式HPより

石段参道の上、石灯籠の前より神域を守護されるのは、天明八年(1788)戊申建立の狛犬さん一対。大きく耳まで裂けた口に大きな鼻。首の下に丸まった毛が口元の危険さを上手に隠しています。吽形さんには立派な角が。

参道正面には、まだ木の香も清しい拝殿。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、昭和40年(1965)10月建立の出雲型狛犬さん一対。日本海側から瀬戸内海側へ・・きちんと前足をそろえた狛犬さん。瀬戸内の海の匂いは如何ですか?

御朱印を頂いた後に宮司さんから「この神社は平成3年(1991)の台風17号により大きな被害を受けました。表参道の階段を駆け上がる強風は境内の裏まで走り抜け、社殿や鎮守の杜に大きな被害をもたらしました。その被害のために、社殿を立替えることになりました。」と、辛い記憶を話していただきました。強風が走り抜ける・・2018年に近畿を襲った台風21号で同じ体験をした今なら、その風の恐ろしさが身にしみてわかります。

被害を受けた鎮守の杜は、新しいしゃくなげ苑として翌年に整備した事もその時にお聞きしました。

境内の一画に祀られていた「石祠」

「京方」と読んでよいのか?、この碑に関する文言が何処にもなく、仔細は不明。

裏参道、初夏の頃にはこの石段の左右は薄紅色のシャクナゲの花に彩られるのでしょう。

参拝日:2015年11月16日

 

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ご当地マンホール in 山口県光市

2024年06月07日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

光市(ひかりし)は山口県の東南部、周南工業地帯の東部に位置する市です。2004年、熊毛郡大和町と合併し、改めて光市が発足しました。下松市、周南市、柳井市、岩国市、田布施町に隣接。市域の北西部には島田川、北東部には田布施川が流れており、両河川を中心にまとまった平地には良好な田園地域が広がるとともに、島田川下流部のデルタ地帯を中心とした瀬戸内海沿岸や岩田駅周辺に市街地が形成されています。「市の木:クロマツ」「市の花:ウメ」を制定。

キャッチフレーズは「みつめ だきしめ かたりあう~心温かい人が育つ「わ」のまち“ひかり”~ 」

マンホールには「虹ケ浜とヨット」、海岸沿いに広がる「市の木:黒松」がデザインされています。

2004年10月4日制定の市章は「光の文字をデザイン化したもので、市民のふれあいと光市の躍動感を表現したもの」公式HPより

消火活動中のアヒルの消防士君、上に市章。

仕切弁

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旧光市(ひかりし)は山口県の東南部に位置した市です。下松市、周南市、大和町、田布施町に隣接。市中心部は島田川の沖積平野上にあり、その両端は県内屈指の海水浴場である室積海岸、虹ヶ浜海岸が広がり、瀬戸内海国立公園の一角をなしています。画像は光駅前にある市制50周年を記念したモニュメント飛翔の詩」。1984年3月『山本 晃』氏によって作成されました。

旧キャッチフレーズは「人と自然がきらめく 生活創造都市」

明治22年(1889)、町村制の施行により熊毛郡光井村(みついそん)・室積村(むろづみむら)・島田村・浅江村・三井村(みいそん)・周防村が発足。

1906年、室積村が町制を施行、熊毛郡室積町となる。

1939年、光井村・島田村・浅江村・井村が合併、周南町が発足。

1940年、周南町が改称して光町となる。

1943年、光町・室積町が合併、光市が発足。

1950年、周防村大字小周防の一部が勝間村に編入。

1955年、周防村が光市に編入。

デザインマンホールは新・光市にそのまま継承されましたが、いわゆる規格蓋には旧光市の市章が残されています。

昭和23年(1948)1月26日制定の市章は「光の文字を図案化し、工業都市としての発展を表現、又、光を円型にして和を現わし、はHIKARIの頭文字を図案化して虹の松原を表現した。旧公式HPより

撮影日:2013年4月18日&2015年11月16日

 

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笠戸島~あちこちウォッチ in 山口県下松市

2024年06月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

マンホールのデザインにも使われた「笠戸(かさど)大橋」。昭和45年に完成した真紅のランガートラス橋で、その鮮やかで美しい橋姿は下松市のランドマーク的存在としても知られています。

海上の橋は総じて「怖い」私ですが、橋長476.2 mという距離の短さが味方して、足がひきつる事もなく無事に笠戸島に降り立ちました😊

最初の立ち寄り地は「夕日岬」。西日本有数の美しい夕日が望める絶景スポットとして知られていますが、現在時間は午前九時少々。

夕日も魅力的ですが、絶対に安全な場所から見る瀬戸内海の朝の眺めは最高に素晴らしい💕 右手に見えるのは、海水の浸食により穴の開いた「はなぐり岩」。

「はなぐり」は牛の鼻輪の「鼻ぐり」。時間帯によっては岩の側まで行けるそうですが、海に沈む場所と言うのは・・ちょっと😓

続いて訊ねたのは「はなぐり海岸 海上プロムナード」。これだけしっかりと柵に守られていたら、いくら根性無しの私でも大丈夫。余裕でデジカメの操作も出来ます。

緑の切れ目から差し込む朝のひかりを背中に浴びて、ちょっと不思議なプロムナードのご亭主殿。

等と遊んでいたら、いつの間にか素敵なお客様が😊

漂着ごみの無い海は本当に綺麗で美しい。でももしかしたら、この綺麗さも誰かの働きによって保たれているのかもしれない。

忘れてはいけません。ここでのお目当ては「笠戸ヒラメ発祥の地」碑。碑文には「特産品となっている「笠戸ひらめ」の原点であることを示す記念碑であり供養碑でもある。2005年9月/下松市観光協会/ひらめ供養奉賛会」と刻まれています。

本体「ひらめ」サイズ 約120W×75H×20D。ド~~~~ンと立派に目立って美味しそう😆

そう言えばここに来るとき、どこかの道路の柵にもヒラメがいたよ。

夕日岬から見えた「はなぐり岩」、あれ?どっちがそうなんだろう?。

散歩を終えて駐車場に。休憩コーナーで可愛い猫さんに出迎えられた二人。猫好きには嬉しいけれど・・。人懐こくすり寄ってくれる猫さんを撫でながら、どうかきちんとお世話されている地域猫でありますように・・🙏

予定ではこの後「外史公園」まで走って『長岡外史像』を見る予定だったのですが、公園が工事中という事で道路は封鎖。仕方ないので案内看板の外史像を😓

帰路に見かけた「はなぐり海水浴場」。流石に11月のこの時期は静かなものです。

綺麗な赤い花・・何の花?」と珍しく尋ねるご亭主殿。「あれはねアメリカディゴ。花は食べられるんだよ。」「ふ~~~ん」

名残り惜しいのは、目にした一つ一つが素晴らしい物だったから。さりとてここに居座るわけにはいきません。私たちはまだ旅の途中なのだから。

訪問日:2015年11月16日

 

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花岡八幡宮 in 山口県下松市末武上戎町

2024年06月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

下松市末武上戎町に鎮座される「花岡八幡宮」。御祭神は『第一座:誉田別命、第二座:市杵嶋姫命、田心姫命、多岐都姫命、第三座:息長足姫命』。通称「花岡の八幡さま」と称されます。

「第四十三代元明天皇の和銅二年(709)豊前国宇佐より八幡宮の御分霊を勧請と伝わる。御鎮座の折、御神託により一夜にして全山花に覆われた為、花岡を称すると云う。鎮座以来、重源上人による社殿の再建をはじめ、大内、陶、毛利歴世の尊崇篤く、文化文政期に相次いで社殿の再建が成された」公式HPより抜粋

楼門形式の神門

神門には西の甚五郎といわれた江戸時代の宮大工『岩瀬長五郎』の彫刻。今にも飛び立たんとする一対の阿吽の鷹。

それぞれに、四十頭の馬が描かれた格天井。

神門前左右より神域を守護されるのは、大正12年(1923)癸亥9月吉日建立の徳山型狛犬さん一対。相変わらずの肩に流れる巻き毛がチャーミング。吽形さんには角があります。

裏から見る神門は、まるでお寺の門を想像させます。

神門入ってすぐに、神仏習合の名残を今に伝える「多宝塔:閼伽井坊塔婆(あかいぼうとうば)」。藤原鎌足が建立したと伝えられ日本十六塔の一つで、国重要文化財の指定です。

「多宝塔重脩碑(たほうとうじゅうしゅうひ)」。昭和三年に行われた多宝塔解体修理事業を記念して昭和四年六月に建立。

閼伽井坊塔婆の近くに見かけた「吉田松陰先生:座像」

更に石段参道を上り、正面に重層拝殿

拝殿前左右より神域を守護されるのは寛政九年(1797)丁巳暮穐建立の狛犬さん一対。阿吽ではなくどちらも「アー・ウー」だそうです。

御本殿背面

背面より神域を守護されるのは明治36年(1903)癸卯3月吉日建立の徳山型狛犬さん一対。中々の強面なのは、背面の守護を一手に引き受けている所為なのかも。

境内社:「大年社・住吉社・塩竈社・高良社」

「願掛けの御神馬」、金毘羅宮の御神馬とは兄弟だそうです。

「鐘楼」

境内から見る参道、あれこれと見逃してしまった境内社や、守護の狛犬さんたち。一の鳥居から参拝できなかった事は心残りではあるけれど、ここまで参拝できただけでも上々と感謝しなければ。

参拝日:2015年11月15日

 

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ご当地マンホール~其の二 in 山口県下松市

2024年06月04日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

瀬戸内海の豊かな自然エリアと、鉄道や造船などの産業と共に発展した市街地エリアを擁し、日本全国の自治体「住みよさランキング」では常に20位以内を保持する下松市。住んだ事のない人間には良く分かりませんが😅、様々な魅力に溢れているようです。

下松はその昔、鷲頭庄(わしずのしょう)と呼ばれていました。「大内氏実録」下松妙見縁起によると 「推古天皇の三年(595)、鷲頭庄青柳浦(あおやぎうら)の老松に大きな星が降りかかり、七日七夜の間、目もくらむばかりに光り輝き「百済の皇子がこの地へやって来る」とのお告げがあり、里の人々は、社を建てこの星を「北辰尊星王大菩薩(ほくしんそんせいおうだいぼさつ)として祭り、里の役人はこれを時の天皇に伝えたという。 北辰の精が松の木に降ったというので、それまでの青柳浦を「降松」と改め、その後、今の「下松」と書くようになったといわれている。」下松観光ガイドより

下松駅北口駅前通りの歩道には、「星の町・下松」に因んで星座のイラストがデザインされたマンホールが設置されています。

また山陽自動車道の下松SAには、上り、下りに分かれて星座のモニュメントが6種類ずつと、 織姫・彦星がそれぞれの方向を見ているモニュメント像もあります。

星のマンホール、まずは「いて座」から

いて座のモニュメントですが・・なんか・・違う💦

「しし座」

「おうし座」

「おとめ座」

「おうし座」

「やぎ座」

やぎ座のモニュメント・・いや、なんか違う・・・💦

「さそり座」

「ふたご座」

ふたご座のモニュメント・・微妙になんか・・違う💦

「みずがめ座」

「てんびん座」

十二星座なのにマンホールでは見つけられなかった「うお座」「かに座」のモニュメント。・・そのまんま「サカナ」と「カニ」・・💦

星に囲まれた防火貯水槽マンホール

星のデザインの方位プレート。中に居るのはホタル

下松安心安全キャラクター『星子ちゃん』。名は体を表すと言いますが、もう完璧に名前通りのキャラクター😆

「打ち出し板金・三次元曲面成形・ハイテク製品を支える職人の会社・山下工業所」では「打ち出し板金」の技法で新幹線のおでこを作っています。という事で「新幹線の生まれる街 下松へようこそ!」

「打ち出し板金」の技法で制作された《アルミ合金チェロ》が、2014年に市制75周年を迎えた下松市に寄贈されました。

同じく《アルミ製の謎のキャラクター》。ウエルカムお立ち台付きで、下松市役所ロビーに展示されていました。で・・このとってもユニークなキャラクター、本当の所は何者???

撮影日:2013年4月17日&2015年11月16日&2017年12月5日

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 山口県下松市

2024年06月03日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

下松市(くだまつし)は山口県の南東に位置し、瀬戸内海に面する市です。東は光市に、東・北・西は周南市に隣接。沖には、笠戸島および古島を配し、南部は瀬戸内海に面した国際拠点港湾である徳山下松港とともに、大規模工場が複数立ち並ぶ、瀬戸内工業地域に位置しています。「市の木:やまもも」「市の花:サルビア」を制定。

キャッチフレーズは「笑い・花・童謡のまち くだまつ」

明治22年(1889)、町村制の施行により、都濃郡豊井村・久保村・末武南村・末武北村・米川村・須々万村・中須村・長穂村が発足。

1901年、豊井村が町制を施行・改称して都濃郡下松町となる。

1929年、末武北村が改称して都濃郡花岡村となる。

1939年、都濃郡下松町・久保村・末武南村・花岡村が合併、下松市が発足。

1954年、下松市が都濃郡米川村を編入。

1962年、下松市が都濃郡都濃町大字中須南字滝ノ口を編入。

マンホールには「きれいな海・澄んだ川」の文字と星のキャライラストが可愛くデザインされています。

下松市上下水道局庁舎:展示マンホール

カラータイプは電気用マンホールで、「笠戸大橋・笠戸ひらめ」がデザインされています。(アクティブリゾートホテル笠戸島ハイツ付近に設置)

笠戸大橋マンホール(下松小学校横の歩道等に設置)

下松市上下水道局庁舎:展示マンホール

下松SA記念スタンプ「笠戸大橋」

昭和15年(1940)7月19日制定の市章は「松葉で下松の「下」と、波静かな笠戸湾の波を表わし、丸く形どった円は、和を表わしている。」公式HPより

汚水用マンホール

雨水用マンホール

大サイズの合流マンホール

舗道タイルに合わせたマンホール。中央に市章付き。

🌸種類の多い下松市のマンホール、~其の二に続きます。

撮影日:2013年4月17日&2015年11月16日&2017年12月5日

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2016年12月1日、第3弾として全国46自治体で46種類(累計109自治体120種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。下松市のカードは「下松市上下水道局庁舎」にて頂けます。

1989年に設置開始されたマンホールには「笠戸大橋」と「笠戸ひらめ」がデザインされています。

「下松市のシンボル「笠戸大橋」と特産物「笠戸ひらめ」をデザインしたマンホール蓋です。笠戸大橋は、下松市内と笠戸島を結ぶ、真紅のアーチが特徴のランガートラス橋。笠戸島は全域が瀬戸内海国立公園に指定されており、夕日岬や国民宿舎大城など見どころ満載の観光地ですが、その玄関口として最初にお客様を迎えるこの橋も非常に人気の高いスポットです。一方、笠戸ひらめは下松自慢の海の幸。笠戸島にある栽培漁業センターでは中間育成と養殖が行われていて、養殖ひらめは天然モノより美味といわれるほどの評判です。四季を通じて味わえる食材ですので、是非一度ご賞味ください。」

 

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三丘徳修(みつおとくしゅう)公園 in 山口県周南市安田(旧熊毛町)

2024年06月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

周南市安田、三丘徳修(みつおとくしゅう)公園の一画に建つ「徳修館(とくしゅうかん)」

徳修館(とくしゅうかん)は、三丘領主宍戸氏(毛利一門筆頭)第8代宍戸就年(ししど なりとし)が、士民教育振興のため文化6年(1809年)10月に郷校として創立したものです。その後、弘化3年(1846)4月、第10代宍戸元礼(もとよし)のとき、萩の明倫館に模して本堂(聖廟)が新築されました。この聖廟が現在残っている徳修館です。

2009年に山東省から贈られた「孔子像」

建物前の案内によれば「創立当初の徳修館は、中央に聖廟、左に講堂、右に習礼場(道場)など、その建物は大小10棟を数え、別に槍術場、乗馬調教練兵場などがあり、総敷地面積は1町5反歩(15,000㎡)におよんだといいます。また、維新前には、生徒数402名(内寄宿生48名)、教員数30名の記録があり、その盛況ぶりがうかがえます。しかし、維新の大改革により徳修館も閉鎖される運命となり、明治3年(1870)10月1日、領主、家臣、生徒一同が徳修館に集い、解散の式が挙げられ、その役目を終えました。」

「贈従四位宍戸親基(ししど ちかもと)公碑」市指定有形文化財

「禁門の変では藩内の鎮静に努め、馬関戦争の講和使節として活躍し俗論の鎮撫に奔走。四境戦争では芸州口の指揮官として幕府軍を撃破。その後徳修館で後進の育成に尽力。大正四年(1915年)に従四位の官位を贈られた事を記念して旧臣達が建立」と言った趣旨が案内に記されています。

公園内の一画に何やら小難しそうな😓「島田川中流域遺跡群と高地性集落研究」。ざっくり抜き出すと「高地からは比高差がある山や丘陵の上で、弥生時代を中心に営まれた集落を高地性集落と言います。昭和20年代に天王遺跡・岡山遺蹟を始めとする島田川中流域遺跡群の調査を~略~昭和60年代の山陽自動車道建設に伴って山口県教育委員会によりこれらの遺跡の発掘調査が行われました。それによって~弥生中期から後期にかけて営まれた集落跡~」

徳修館の裏手に「弁慶穴古墳」の案内があり「元は熊毛北高校にありましたが山陽自動車道建設に伴い昭和62年に発掘調査し、その後この公園内に移築復元しました。石室は片袖の横穴式、石材は付近の花崗岩を使用。排水溝は側室を立てた部分と、素掘りの部分からつくられています~略」

大型の横穴式石室で全長約7m。石室の玄室と外部を結ぶトンネル状の部分にあたる羨道(えんどう)は、ほぼ上部が失なわれており、羨道床面には排水溝が設けられています。

玄室部の様子。下部には大型石材、上部の石材は小型。移築の証拠に石材に番号がふられており、まるでプラモデルかジグソーパズルみたい😅 しかも間違えないように、左は四角 右は三角 奥は丸と分けてあるし。

敷地の一画に見かけた句碑【 ふるさとに おちつく日ざし 返り花 早々子】

紅葉に染まる三丘の山

ゆったりと流れてゆく時間、広い公園内には私たち以外に人の姿はなく、久しぶりにのんびりと寛いだ訪問でした。

訪問日:2015年11月16日

 

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ご当地マンホール in 山口県旧熊毛町(周南市)

2024年06月01日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

旧熊毛郡熊毛町(くまげちょう)は山口県の東部に位置した町です。徳山・下松・光市に隣接し、周南工業地域まで至近な距離にあるため自然環境豊かな田園住宅都市として発展してきました。
町名は、古書「和名抄」にこの地方をよんで「久米計」とあり、また「久万毛」「久万介」とも訓しています。元来「熊」は「奠(てん)」とも書き、神前に物を供える意味。「毛」は稲穂を表します。防長米の中では特に熊毛米が優秀だったとされ、古来酒造米は「熊毛米」に限られた時代もあり、勝間・高水・三丘・八代の4か村は優秀な米の産地として知られてきました。それらの理由から「熊毛」の名は新しい町にもっとも相応しいという理由で命名。「町の木:モッコク」「町の花:ヒロハドウダンツツジ」を制定。

旧キャッチフレーズは「ツルと温泉のまち」。左隅には、熊毛町の特産品を両手に抱えたイメージキャラクター、ナベヅルの『クレラン』

明治22年(1889)、町村制の施行により熊毛郡三丘村・高水村・勝間村・八代村が発足。

1949年、高水村大字原の一部が勝間村に編入。

1956年、三丘村・高水村・勝間村・八代村が合併、熊毛郡熊毛町が発足

2003年、熊毛町が徳山市・新南陽市・都濃郡鹿野町と合併して周南市が発足

マンホールには町章を中心に、八代地区に飛来する「ナベヅル」がデザインされています。

道の駅ソレーネ周南の観光案内にあった「ナベヅル」

1963年10月16日制定の町章は「熊毛町の「く」と「マ」を組み合わせ、特別天然記念物「ツル」にかたどり、まちの発展と繁栄をあらわしています。」旧公式HPより

熊毛総合支所内に展示されていた「徳山ボートレース」のボート&レーサー。競技場までは徒歩三時間強の距離、何らかの関係があるのだろうと思いますが、何故ここにあるのかは不明。・・・ん??何か場違いなのが一人😆

庁舎内に保存展示されていた「ナベヅルの剥製」。鶴は白・・という固定イメージが、見事に覆った瞬間です😲。

周南市高水原にある「岩徳線:高水駅」に、ナベヅルのモニュメントがあるという事でやって来ました。「おいでませ つるの里」。え?!これだけ??🤔、え?!黒くない??🤔

徳山方面行のホームには「ナベヅルの剥製」が大切に保管されています。飛来地の八代地区には「野鶴監視所」もあるようですが、時間とこの先の予定を考慮して見送りにしました。

撮影日:2015年11月16日

 

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