車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

飛鳥寺と入鹿の首塚 in 奈良県明日香村飛鳥

2023年04月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

奈良県高市郡明日香村に門を構える真言宗豊山派寺院「鳥形山:法興寺」。別名「飛鳥寺(あすかでら)」『飛鳥大仏(釈迦如来)』を本尊とします。蘇我氏の氏寺として知られ、6世紀末から7世紀初頭にかけて造営された「日本最古の本格的寺院」としても有名です。

『書紀』によれば、『推古天皇』は、当時皇太子であった聖徳太子と、大臣であった蘇我馬子らに詔(みことのり)して、銅と繍(ぬいもの)の「丈六仏像各一躯」の造立を誓願し、『鞍作 止利(くらつくり の とり)』を造仏工としたと記されています。

本尊の「釈迦如来」は、高さ3m、当時銅15t、黄金30kgを用いて造られたとありますが、落雷による火災で大きく破損。創建当時のままなのは、頭部と右手指の一部のみ。

通称「飛鳥大仏」と呼び親しまれており、拝観者は飛鳥大仏に見守られながら、飛鳥寺の歴史、大仏建立から再建に至る諸々のお話を僧侶から伺います。同じ話を何百回、何千回と繰り返してこられたのでしょう。淀みなく時にユーモアさえも交えて話されるお話に、特にうなずいたり、時に驚いたり・・。

大仏様のお体がほぼ復元(でも重文指定)だからと言う理由からかもしれませんが、お話の後で大仏様と一緒に記念写真も撮らせて頂けます。これは本当に感激しました。普通は写真撮影さえ不許可なのに・・

飛鳥大仏の向って左には『阿弥陀如来像』。右側厨子の内には父・用明天皇の病気回復を祈願した姿を表したとされる「孝養太子像」

「飛鳥大仏」の膝前に奉祭されている美しいガラス張りの厨子には、世界最古の「仏舎利(お釈迦様の遺骨)」が安置されているそうです。まさか、自分のカメラに寺宝の数々を収められるなんて想像もしていなかった為、感動もひとしお。決して敬虔な仏教徒ではありませんが、そうした歴史に触れられるという事実の前には、どんな雑念も消え去るように思えます。

仏舎利が収められていたのは、創建当時に塔が建てられていたことを示す標柱の地下3m。塔の心礎部分に金・銀・めのうなどの宝物と一緒に仏舎利が納められていた旨が、現地案内に記されています。

飛鳥大仏を拝観させて頂いた後は、本堂に展示されている寺宝の数々を拝見する事ができます。庫裏の裏手の中庭には南北朝時代の飛鳥寺型燈籠や道標などが置かれ、いずれも非常に興味深く拝見させて頂きました。

推古朝の時代、国政の主導権を握っていたのは、崇仏派の『蘇我馬子』と、摂政となった『厩戸(うまやど)皇子(後の聖徳太子)』でした。そんな彼らの前に立ちはだかったのが、排仏派の『物部守屋』です。三度の戦いで三度とも敗北を喫した馬子軍は、守屋との戦勝を仏に祈願して寺社の建立を誓い、太子もまた四天王の像を刻んで祈願。四度目の丁未(ていび)の乱」によって、守屋の軍を河内で討ち果たします。この戦いの後、馬子によって建設されたのが「飛鳥寺」でした。

完成までに約21年を要したという大伽藍の痕跡は発掘調査などで証明されており、本堂を臨んで真っ直ぐに伸びた先にある二段の石積みは、飛鳥寺西門の跡といわれています。門跡だけでこれだけの規模の大伽藍・・想像の域をはるかに超えて、その姿を思い描く事が出来ません。

心地よい風に吹かれながら、西門跡から約100mほど西に行くと実りの田を背景にぽつんとたたずむ五輪塔「蘇我入鹿首塚」があります。聖徳太子亡き後、蘇我系の天皇を後ろ盾に栄華を誇った蘇我蝦夷・入鹿。しかしその栄華も長くは続きませんでした。飛鳥時代645年、入鹿は『中大兄皇子、中臣鎌足』らによる「乙巳(いっし)の変」で宮中にて暗殺。その時切り落とされた入鹿の首は、飛鳥板蓋宮から約600~650m離れたこの地まで飛んだと云い、死してもなお超人的な力を示した入鹿の祟りを祓うため、その地に首塚を建てた・・・と、古書は伝えます。

「甘樫丘」を臨む一画・・1300年以上もの歳月が流れすぎた今もなお、この地にあって首塚の主が見続けているものは・・・・。父蝦夷が完成させた「板蓋宮(いたぶきのみや)」。その宮殿の一間で、中大兄皇子らに向けられた刃の鈍い輝き・・・何故と問うた我に背を向けた皇極天皇。目を閉じれば、聞こえるものは入鹿の叫びを消し去る雨の音。

遥かな昔にとらわれそうな錯覚に思わずたじろぎ、そうして閉じた目を見開けば眼前に広がるのは間もなく実りを迎える稲穂の輝き。心地よく頬をなぶる秋の風。

境内の一画に建立されていた『山辺赤人』の長歌を刻んだ万葉歌碑。【みもろの 神奈備山に 五百枝さし しじに生ひたる つがの木の いや継ぎ継ぎに 玉葛 絶ゆることなく ありつつも 止まず通はむ 明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見が欲し 秋の夜は 川しさやけし 朝雲に 鶴は乱れ 夕霧に かはづは騒く 見るごとに 音のみし泣かゆ 古思へば】揮毫『佐佐木信綱(歌人、国文学者)』

御詠歌【うきことの 消ゆるもけふか 飛鳥寺  末やすかれと 祈る身なれば.】

参拝日:2006年10月9日

 

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ご当地マンホール in 奈良県明日香村

2023年04月29日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

高市郡明日香村(あすかむら)は奈良県の中央部付近にあり、橿原市、桜井市、高取町、吉野町と隣接。周囲を丘や山に囲まれた小さな盆地に位置します。中央集権律令国家の誕生の地であることから、飛鳥時代の宮殿や史跡が多く発掘されていることで知られており、「日本人の心の故郷」と紹介され、また日本で唯一、全域が古都保存法対象地域の自治体でもあります。「村の木:槻(つき)」「村の花:橘」を制定。

キャッチフレーズは「古都の風格を育み、住む喜びと新たな魅力を創造する-明日香を「感じ」「知り」「守り」「育てる」むらづくり-」

明治22年(1889)、町村制の施行により、高市郡阪合村、高市村、飛鳥村が発足。

1956年、阪合村、高市村、飛鳥村が合併し、新たに明日香村として発足。

大小のカラーマンホールには、「村の木:ツキ」・「村の花:タチバナ」が描かれています。

仕切弁に描かれているのは明日香村川原にある亀の形をした遺構「亀石」。(デザインマンホールは、奈良県立明日香養護学校の校門前歩道に設置)

昭和44年4月日制定の村章は「全形は、「飛ぶ鳥」の姿、左横に倒すと「明」の字を表し、上の円は、村独特 の古墳の象徴であり、下は、阪合・高市・飛鳥の旧三ヶ村合併の団結と発展を 表しています。」HPより

1995年12月制定のシンボルマークは「「飛」の文字を構成する鳥は、中国伝説の瑞鳥である鳳凰や朱雀を、「鳥」を 構成する花は、万葉花のひとつである桐をイメージしています。 カラーの構成は、「明日香」の象徴でもある高松塚古墳壁画の色彩にちなんだ もので、「赤」は太陽、「紫」は仏教文化、「緑」は美しい自然、「黒」は豊 穣の大地、「金」は古都の繁栄を表現しています。」HPより

 

撮影日:2009年6月27日

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今日4月29日は二人の結婚記念日。来年も再来年も、これからもずっと、このフレーズを書きながら照れ笑いが出来ますように。 (⸝⸝⸝´꒳`⸝⸝⸝)

 

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法隆寺(斑鳩の宮)~其の二 in 奈良県斑鳩町法隆寺

2023年04月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

昨日に続いての西院伽藍、今日は「西院回廊」によって繋がる「経蔵(国宝)」から。元は経典を納める施設として建立されましたが、今は天文や地理学を日本に伝えたという百済の学僧、『観勒僧正像』を安置。また堂内の地下には三伏蔵(さんぷくぞう)の一つがあり、法隆寺を再興できるほどの宝物が収められていると伝えています。

「三経院(国宝)」は、聖徳太子が勝鬘経・維摩経・法華経の三つの経典を注釈された『三経義疏』にちなんで付けられた名称で、西室の南端部を改造して建立。

「上御堂(かみのみどう)(重文)」は奈良時代、天武天皇の皇子である舎人親王の発願によって建立したと伝えていますが、永祚元年(989)に倒壊。現在の建物は鎌倉時代の再建で、堂内には平安時代の「釈迦三尊像(国宝)」と室町時代の「四天王像(重文)」が安置されます。

西院伽藍北西の小高い場所に、峯の薬師と呼ばれる薬師如来像を安置する八角円堂の「西円堂(国宝)」。堂の創建については、光明皇后の母:橘夫人の発願によって、養老二年(718)に行基菩薩が建立したという伝承があります。現在の建物は建長二年(1250)の再建ですが、凝灰岩の礎石や二重の須弥壇に天平期の名残りがみられます。

西院の東大門をくぐると、広い参道の正面に東院伽藍が現われ、甍の上には見事な夢殿の宝珠が輝いています。

「ここは聖徳太子の斑鳩の宮の跡で、朝廷の信任厚かった高僧『行信(ぎょうしん)』が宮跡の荒廃ぶりを嘆いて太子供養の伽藍の建立を発願し、天平20年(748)に聖霊会(しょうりょうえ)を始行したとされる太子信仰の聖地です。高い基壇の上に立つ八角円堂の夢殿は東院の本堂で、天平創建の建築でありますが、鎌倉期の寛喜2年(1230)に大改造を受け、高さや軒の出、組み物などが大きく改変されているものの、古材から天平の姿に復元することもできるほど古様を残しています。」HPより

東院鐘楼は袴腰(はかまごし)と呼ばれる形式の鎌倉時代の建物で、内部には「中宮寺」と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊るされています。

東院壁沿いの案内板に「中宮寺」への矢印があったので、閉ざされた門の近くまで行って見ました。中宮寺は、聖徳太子が母の為に建てたとも、また『間人皇女(はしひとのひめみこ)』自身の発願とも言われています。

法隆寺最後の紹介は、百済観音像をはじめとする寺宝を公開する「大宝蔵院」。百済観音堂および東宝殿、西宝殿からなる建物で1998年に完成。歴史の教科書でしか見た事がなかった「玉虫厨子」。実際に目にした瞬間、思わず漏れたため息・・忘れ難い経験でした。

さて、法隆寺といえば『正岡子規』が法隆寺に立ち寄った折に詠んだという有名な句 【 柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺 】
だからと言うわけではないでしょうが、家々の庭先ではたわわに実をつけた柿の木が一杯。周辺の路地では立ち止まる場所ごとに何かの祠が奉られ、そのいずれもが清潔に保たれていたのが心に残りました。 

参拝日:2007年10月7日

 

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法隆寺(斑鳩の宮)~其の一 in 奈良県斑鳩町法隆寺

2023年04月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

「松の翠の美しい矢田丘陵を背に、大和平野を広々と見渡す斑鳩の里に聖徳太子が斑鳩宮を造営されたのは推古天皇9年(601)。ほどなく太子は、ここに亡き父用明天皇のため寺の造立を発願され、推古15年(607)ごろに完成したのが法隆寺です。」HPより

聖徳宗総本山「法隆寺」、別名:斑鳩寺(いかるがでら)。法隆学問寺などとも称され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院としても広く知られています。

境内は金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられており、その広さは約18万7千平方メートル。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群であり、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。

法隆寺の訪問・・私にとっては実にウン十年ぶり(笑)とあって、期待感で一杯。あの時には見えなかった様々なものが今は驚くほどスムーズに目の中に飛び込んできます。まずは法隆寺の玄関にあたる総門「南大門(国宝)」。三間一戸の八脚門で、現法隆寺建立時には中門前の石段上に立っていましたが、寺域の拡大により現在の場所に移されたと言われます。創建時のものは永享7年に焼失、現在の建物は永享10年(1438)の再建。

参道を真っ直ぐに進むと西院伽藍の本来の入口となる中門(国宝)。正面が四間二戸と入口が二つある形が特徴で、エンタシスの柱や上層には金堂と同じ卍崩しと、人字型割束(ひとじがたわりづか)を配した高欄を備え、壮麗な飛鳥時代の様式を今に伝えます。

中門内の左右には日本最古(8世紀初)の仁王像とされる「塑造金剛力士立像(重文)」を安置。

惜しむらくは風雨にさらされる場所に安置されているため、補修が甚だしく、吽形(うんぎょう)像の体部は木造の後補材(こうほざい)に代わっているとのこと。ですが・・こうして側近くで拝観できる幸せを思うと、そんな事はどうでも良くなります。

中門をくぐると、パンフレットなどでお馴染みの「金堂」と「五重塔」が屹立する美しい光景が展開されます。この構図はあまりにも有名で、法隆寺の写真と言うと必ずこの二つが並んで紹介されています。

日本最古の塔である「五重塔(国宝)」は、五重目の軸部が初層の半分の大きさになっており、これに深い軒の出が相まって見上げる姿に安定感を与えています。五重塔最下層の心柱の四方には、釈迦に関する四つの説話から四つの場面を現した「塔本塑像」が展開されており、これは必見!

五重塔の屋根を支えているのは、束ではなく東西南北それぞれに異なった邪鬼たちで、画像は束南西角にいる邪鬼。ところでなぜ邪鬼なのか・・実はその理由がとても面白いのです。邪鬼と言ってまず思い出すのは「天邪鬼」。何にでも反発する事にかけては天下無敵の邪鬼、この反発力を洒落心で利用した、一種の呪いの類なんですね(*^^*)

五重塔の右隣に建つ「金堂(国宝)」は西院伽藍最古の建築。入母屋造り二重の瓦屋根と下層の裳階(もこし)で成っており、上層には部屋はなく外観のみとなっています。

二重目の軒を支える四方の柱には、構造を補強するために、龍の彫刻が刻まれています。こういう場面を写す時はもっと良いカメラが・・と思うのですが、2007年当時の私たちにはこれが精一杯で(-"-)

裳階(もこし)の上では、神獣の獅子が一階の屋根の軒桁を支えています。四方それぞれに異なった神獣がいましたが、高所の為、写せたのはこの一体だけ(^^;)

金堂と五重塔の北側に立つ「大講堂(国宝)」は、元は北側の回廊の外に独立して建っていましたが延長3年(925)に焼失。正暦元年(990)ほぼ元の規模と同じ大きさで現在地に再建されました。

「回廊(国宝)」は東側の鐘楼、中央の大講堂、西側の経蔵につながり、並立する五重塔と金堂を囲んでいます。平安時代以前の回廊は、経蔵、鐘楼の手前で閉じられており、大講堂、経蔵、鐘楼は回廊の外にありました。

目にする建物の殆どが国宝という豪華さに、目が眩みそうですが(笑)、この続きは又、明日のブログで(*^^*)

参拝日:2007年10月7日

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 奈良県斑鳩町

2023年04月26日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

生駒郡斑鳩町(いかるがちょう)は奈良県北西部にあり、生駒市、大和郡山市、三郷町、平群町、安堵町、王寺町、河合町に隣接。奈良盆地の西北部から矢田丘陵の南端に位置し、南には大和川、東には富雄川、西には竜田川が流れ、水と緑の自然豊かな町です。町の歴史は古く、聖徳太子が飛鳥から斑鳩宮に移ってきたことで斑鳩の地は一躍脚光を浴びました。中世以降、斑鳩は太子信仰の中心地となり、集落の成立に大きな影響を与え、世界文化遺産法隆寺をはじめとする寺社や文化財、藤ノ木古墳などの豊かな歴史文化を有する町として知られています。「町の木: クロマツ」「 町の花 :サザンカ、ツバキ」「 町の鳥 :イカル」を制定。

キャッチフレーズは「一人ひとりが創り出すまち 歴史と文化がくらしの中に息づく“新斑鳩の里”」

明治22年(1889)、 町村制の施行により平群郡竜田村、法隆寺村、富郷村が発足。

1891年、竜田村が町制を施行、平群郡竜田町となる。

1896年、平群郡と添下郡が合併して生駒郡が発足。

1947年、生駒郡竜田町、法隆寺村、富郷村が合併し斑鳩町が発足。

マンホールには「三重塔」「竜田川とモミジ」「町の花:サザンカ」と「町の木:黒松」。周囲には金堂の高欄に使われている万字くずしがデザインされています。

法隆寺五重塔:観光案内プレート

「法隆寺五重塔」

中央に「町の木:黒松」周囲に「町の花:サザンカ」がデザインされています。

昭和22年2月1日制定の町章は「まだら鳩は、斑鳩町の象徴であり“和”の精神を具現したものである。」HPより

斑鳩町マスコットキャラクター「パゴちゃん」 。「柿食えば 鐘が鳴るなり法隆寺」のイメージで体は「柿」、頭には五重塔をのせています。 

撮影日:2007年10月7日

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2016年12月1日、第3弾として全国46自治体で46種類(累計109自治体120種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「斑鳩町」のマンホールカードは、「法隆寺iセンター」でいただけます。

1992年に設置開始されたマンホールには「三重塔」と「竜田川とモミジ」、「町の花:サザンカと町の木:クロマツ」がデザインされています。

「斑鳩町は、豊かな自然に恵まれた歴史と文化遺産の町です。世に名高い「斑鳩三塔」は、法隆寺の五重塔、法輪寺の三重塔、 法起寺の三重塔の総称で、三塔を巡るコースは観光の定番です。本マンホール蓋の図柄は、斑鳩の風景を代表する「塔」に加え、 在原の業平や能因法師など多くの歌人に詠まれた「竜田川」と「もみじ」、そして町の木「黒松」、町の花「山茶花(さざんか)」を 題材に構成しています。図柄の周囲は、お寺で使われている万字くずしをイメージしてデザインしました。 竜田川は古今集にも登場する「町の宝」であり、その清らかな流れを守る想いがあふれたマンホール蓋です。」

訪問日:2017年4月26日

 

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ご当地マンホール in 奈良県旧都祁村(奈良市)

2023年04月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

 旧山辺郡都祁村(つげむら)は奈良県の北東部、笠置山地の大和高原に位置した村です。奈良市、天理市、桜井市、 山添村、 榛原町、室生村に隣接。気候は盆地部より比較的冷涼・寒冷で夏季は過ごしやすく、冬季は厳寒を極めます。 村内を名阪国道が横断、交通の至便な地で、針ICにある「道の駅・針T・R・S」は関西圏のライダーの聖地として知られています。また都祁南之庄町の「三陵墓古墳群」が有名で、中でも「東古墳・西古墳」は、古墳中期の大和高原において最大級の古墳として重要である事から県の史跡に指定されています。「村の木: 黄楊(つげ)」「 村の花 :スズラン」「 村の鳥 :ウグイス」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、山辺郡都介野村・針ヶ別所村が発足。

1955年、都介野村・針ヶ別所村が合併、山辺郡都祁村が発足。

2005年、添上郡月ヶ瀬村と共に奈良市に編入、奈良市都祁となりました。

昭和54年10月1日制定の村章は「「ツゲ」を図案化。上に伸びた線で振興と発展を、円形は、村の平和を表徴しています。」

マンホールは自治体を現す物が何も無い規格蓋だけですが、仕切弁には村章と自治体名があります。 

消火栓には自治体名があり、このような形であっても旧村の名が残るのは、ご当地マンホールファンとしては嬉しい限り(*^^*)

この当時、私達のお出かけと言えばタンデムが定番。乗り物、特に車に弱かった私にとって、バイクの後部座席はまさに特等席でした。便宜上車を購入してからも、よほどでない限りはタンデムであちこちと走り回ったものです。私が病を患い、どう頑張ってもバイクに乗れなくなるまでの間、随分と楽しい時間を過しました。当時の思い出は沢山の画像と共にいつでも鮮やかに蘇ってきます。それでもいずれ記憶は薄れていくでしょう。だからこそまだ思い出すことの出来る今のうちに・・・過去に遡って当時の思い出を綴り続けようと思うのです。

撮影日:2005年6月5日&2009年4月29日

 

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追分梅林 in 奈良市中町

2023年04月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

奈良市中町の一画、市街を見わたせる丘一面に約4000本の梅が見ごろと聞き、早速バイクの後部座席に(笑)。緩やかな谷間の両斜面を埋め尽くしているのは奈良時代に愛でられた白梅。所々に平安時代に愛されたあでやかな紅梅が濃く薄く、様々な彩を見せて咲き、しかもそれが無料で観覧できると言うのです。

唯一の欠点は観光地として整備された場所ではないので、そこに至る道幅が狭いこと(^^;)  にも関わらず大勢の人が車で訪れる為、付近一帯がかなりの渋滞に巻き込まれてしまうのです。何が驚いたといって、大型の観光バスが道幅一杯にのろのろと進んでいるのを見た時・・・、何もこんな狭い場所に来なくてもと、思わず運転手さんに同情した二人(笑) ともあれ、満車の駐車場もバイクの私たちには問題ではなく、無事に梅林へと繰り出せました。

この見事としか言い様のない美しさ!。桃源郷という言葉がありますが、さしずめこれは梅源郷(笑)。見渡す限り一面の梅の花、しかも樹高が低いので花の色香をすぐ近くに感じることができるのです。私の下手な説明ではとてもこの感動は伝えきれません(^^;)

春日観光のHPには、「梅林の中を周回するように道があり梅林全体を見て楽しむことができます。追分梅林の梅は、白梅、紅梅で背が低いのが特徴です。」

梅の木の下でお弁当を広げている家族連れや、カップルの姿もたくさん見かけました。それでも広大な梅林なので、人の居ない場所を探すのは至って簡単。

さらに!お弁当を忘れてきても、関係者の方々の手作りのお弁当が販売されているので問題なし。観光地にありがちな割り増し価格ではなく、本当にお手頃な価格でしかも美味しい!!とくれば、言うことなしですよね。

そういえば、梅林の外れに「ダチョウ」が飼われていたんですが、大きな玉子が一つ忘れ物みたいに転がっていました。あれはこの梅林の所有者が飼育しているものなのでしょうか?とすると玉子は食べるのかしら?

なんて興味津々で眺めていたら、いきなり近寄って来たダチョウさんがお腹をツンツン!そんなに痛かった訳ではなかったのですが、意外と力があったのと何より吃驚したのとで思わず「痛っ!!」・・・ダチョウさん、あの時はごめんね(^^;)

早春の一時、花と美味しいお弁当と、思い思いに語らっている賑やかな家族連れ・・・ああ、日本って本当に美しい国だとしみじみ。とかく嫌なニュースが多い昨今、この美しさが損なわれることの無いようにと願わずにはいられません。

この日の観梅は「ダチョウとの遭遇」も含めて予想以上に楽しい一日だったのですが、良い事ばかりは続かないもので(^^;)  渋滞を避けようと選んだ帰り道で悲惨な目に遭いました。たまたまバイクで走っていて見つけた道路標識「大阪府道・奈良県道7号枚方大和郡山線」この道を通ったら枚方市に出られるみたいだね・・なんて、本当に無知ほど怖いものはありません。

「大阪府と奈良県、府県境の傍示(ほうじ)峠の区間は、平均勾配8.9%の急勾配が約1kmにわたって続く難所。」・・・通称「腐道&険道7号線」と呼ばれていたなんて・・それを知ったのは恐怖の何十分間かを経験した、ずっと後のことでしたq(T▽Tq)(pT▽T)p


訪問日:2008年3月16日

   

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ならまち散策 in 奈良市

2023年04月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

「ならまち」って、何となく優しくて素敵な響きだと思いませんか? 私たちがタンデムで「ならまち」に来たのは、単純にそんな理由から。行けばそれなりに素敵な何かに出会えるに違いない・・私達の旅の原点とも言えるアバウトさ(笑)に後押しされて。 まずは、奈良の伝統工芸「筆、鹿角細工、漆器、一刀彫」等々の「職人の技」を垣間見ることが出来る「なら工藝館」

まずは「奈良筆」。奈良市・大和郡山市周辺で作られる筆で、一切機械を使わず、材料の仕入れから仕上げまでの工程全てを筆匠一人で行います。古くから継承される伝統を高く評価され、昭和52年10月に伝統的工芸品としての指定を受けました。

「奈良団扇」。その起源は、奈良時代に春日大社の神官の手内職として、実用的で丈夫な渋団扇が大々的に作られた事に始まります。中世に新しい団扇が考案されてから次第に洗練され、江戸時代の中頃には、奈良団扇の特徴である透し彫りの施された美しい団扇に進化しました。

予想以上に充実した展示内容にすっかり気を良くした私たち。さぁ、憧れの「ならまち」へ繰り出しましょう。と・・・その前にまずは腹ごしらえ。好き嫌いの多すぎる私、入るのは常に和食系のお店限定。赤い暖簾に簾が素敵な店構え。ここなら間違いなく、大丈夫そう(笑)

店内には庚申様が一杯の自在鉤。鉄瓶に投げ込まれた季節の花々。

美味しい食事に満足したら、お次は目の前に展開される「古の良さ満開」の向かいの建物へ。

「福助足袋」「旅館 好生館」「櫻正宗」等々・・建物の壁面にずらりと並んだ古い看板の数々。

建物の入り口一杯に揺れる、赤い小さな庚申様・・

ここは奈良町の保存を目的として1985年に開館した私設の「奈良町資料館」。館長が収集した江戸時代から明治・大正にかけての看板や、生活用品などの民俗資料が数多く展示されています。館内では庚申様のお使いとされる赤い猿を、実際に作っている様子も見学できました。

伝統的な町家を修復した「奈良町物語館」の館内で見た「床下収納庫」。でも本当は違う名前だった気がする(^^;)

「湯血養 りすく御かおくき」石柱には「總本家 きくおか」と刻まれています。さて何時の時代のものだろう? 

次々と目に入る古い店舗や歴史を重ねた看板。

古都の佇まいを残す町並み。何処をとっても、どの路地に入っても興味深いものばかり。

どれもこれも目に入るもの全部が「良いね~、凄いね~」「ホント、来て良かったね~」と続きます(笑)

大正十年創業、蚊帳の老舗「吉田蚊帳」。蚊帳と言えば夏の夜に部屋に吊るす物と言うイメージしかなかったのです・・・・

奈良特産の蚊帳生地がこんなにもカラフルでお洒落素材に大変身・・・ああ、こんな風に時代に沿った商品を生み出し、伝統を受け継いでいるんだと思うとなんだか無条件に嬉しくて、うす紫の「蚊帳のれん」を購入。

街歩きに疲れたら奈良の伝統的な町家を再現した「ならまち 格子の家」で一休み。ここに座っていると時間がとてもゆっくり流れてゆく気がします。結局、この時を含めて「ならまち」には三度訪問しました。何度訪ねても新しい素敵に出会える町です。

「ならまち」の帰路にほんの少し立ち寄った「春日大社」は、一の鳥居から参道を移動しただけで終わり(^^;)。参道の外れを歩いていると、春日大社眷属の鹿さんが突然現れて、歓迎してくれます。

ふかふかの落ち葉の寝床で、ウトウトとまどろんでいる鹿さん(*^^*) 鹿も夢を見るとしたらどんな夢? そうだね・・きっと背後に広がる春日原生林を駆け抜けているのかも。

訪問日:2005年10月1日&2006年9月9日

 

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元興寺(がんごうじ)の桔梗 in 奈良県奈良市中院町

2023年04月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

奈良市中院町に門を構える真言律宗寺院「元興寺(がんごうじ)」。南都七大寺の1つで西大寺の末寺。「智光曼荼羅」を本尊とし、昭和52年(1977)までは「元興寺極楽坊」と称していました。寺号である元興とは、日本で最初に仏法が興隆したという意です。

「1300年の歴史を持つ奈良の国宝・世界文化遺産である元興寺は、南都七大寺のひとつに数えられる寺院です。蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城遷都にともなって、蘇我氏寺から官大寺に性格を変え、新築移転されたのが元興寺(佛法元興の場、聖教最初の地)です。」HPより

極楽坊本堂(国宝)は寛元2年(1244)、旧僧房の東端部分を改造したもので、内陣周囲の太い角柱や天井板材には奈良時代の部材が再用され、屋根瓦の一部にも飛鳥〜奈良時代の古瓦が使用されています。阿弥陀堂建築の特色である東を正面とし、正面柱間は偶数の6間で中央に柱を置きます。一般的に仏教の堂塔は正面柱間を奇数とし中央柱は置かない為、非常に珍しい形式と言えます。

建物は内陣の周囲を念仏を唱えながら歩き回る「行道」に適した構造で、板敷の内陣の周囲を畳敷きの外陣がぐるりと囲んでいます。

本堂の西に軒を接して建つ「禅室(国宝)」。元は本堂も含んだ東西に長いひと続きの僧房であったものを鎌倉時代に改築したもので、正面の4箇所に板扉が設けられています。2000年の元興寺文化財研究所の発表によれば、禅室の部材に西暦582年伐採の樹木が使用されているとか。1440年以上も前にこれだけのものが建造された・・この事実にただひたすら感動を覚えます。

本堂・禅室の屋根には日本最古となる飛鳥時代の瓦を使用。上部が細くすぼまり、下部が幅広い独特の形で、この瓦を重ねる葺き方を行基葺(ぎょうきぶき)といいます。

ゆったりと流れてゆく時間。それでもこの建物が見て来た時間に比べれば、それはほんの瞬きの一瞬。

「元興寺」の境内は「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録されており、隅から隅まで見学すればそれだけで優に一日が費やされそう・・。ですが、実は今日の目的は境内南庭「浮図田(ふとでん)」に、整然と並べられた千五百余体の石塔・石仏群。

民の祈りが作り上げた御仏の世界を埋め尽くすように、淡く揺れる桔梗の群生。

静かに佇む石仏の隙間から顔を覗かせる薄紫の桔梗。その何ともいえない涼やかな美しさは、まさに別世界。石に刻まれた地蔵様のお顔の優しい事、そこにあるのは古より受け継がれた人々の切なる心。何かの為に、誰かの為に安らかなれと願いつつ供養されてきた、長い長い悠久の時間。

神には願えない個々の祈り・・願い・・。時に成す術の無い悲しみを癒す存在として、人は仏の世界に救いを求めてきたのかもしれない。

穏やかに・・・ひたすら優しく時が流れ、有るか無しかの微かな風が、紫の花を揺らせていきます。時折思い出したように激しく身もだえして鳴く蝉の声も、ここでは風景の中の一つ。

石仏の前に座ってそのお顔を見ていると何故か泣きだしたいような心持ちになり、慌ててご亭主殿の手を捜して立ち上がる。

あの時・・私は確かに、そこに亡き父の顔を見つけた・・

本堂近く、境内片隅に置かれている「元興寺講堂跡礎石」。出土場所や礎石の大きさから、元興寺講堂に使用されていた礎石と考えられています。礎石の大きさは、長さ1.1~1.5m、幅1.2~1.6m、厚さ0.7~1.2m、中央部に深さ90cmの柱座が造られています。創建当初の講堂には「丈六薬師如来坐像」を本尊とし、脇侍二体、等身十二神将が安置されていたと伝えられています。

境内の北側、本堂の裏手にひっそりと佇む「かえる」の形をした巨石「蛙石」。太閤秀吉が河内の川べりにあった石を気に入って大阪城に持ち込んだと伝えられています。大坂城落城の折にはこの蛙石の下に淀君の亡骸を埋めたと秘かに伝えられてきました。やがて時を経て大阪城の乾櫓の堀をはさんだ対岸に置かれるのですが、その頃から、石がある場所から大阪城の堀に身を投げる者が後を絶たない。あるいはこの石の上に履き物を置いて身を投げる者が多く出る。さらに大阪城の堀に身を投げて死んだ者は必ずこの石の側に流れ着く・・等々。「殺生石」とも呼ばれた石ですが・・見方によっては堀の水底で朽ちて無縁仏とならぬように尽力したとも言えるのでは。

境内の一隅、「十年戊寅(ぼいん)に元興寺の僧(ほふし)のみづから嘆ける歌一首『万葉集』巻六・1018)」

【 白玉は 人に知らえず 知らずともよし  知らずとも 我し知れらば  知らずともよし 】   読み返すほどに負けん気と悔しさが伝わってきます(^^;)。

奈良市芝新屋町の民家に囲まれた一画に『史跡 元興寺塔跡』の碑。華厳宗、東大寺の末寺「元興寺」。『十一面観音立像』を本尊としますが、この時は時間切れのため、山門を写したのみで参拝はしませんでした。

ブログを書く為に画像を追いかける事で鮮明になるご亭主殿との思い出。それは、何物にも変えがたい大切な宝物に姿を変え、私の中でキラキラと輝きを増していきます。

参拝日:2009年7月4日

 

コメント (2)
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般若寺のコスモス in 奈良市般若寺町

2023年04月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

奈良坂を登りきった奈良市般若寺町に位置する「真言律宗寺院:法性山 般若寺(はんにゃじ)」。重要文化財指定の『文殊菩薩』を本尊とします。通称、コスモス寺の名で知られ、公式HPには「日本最古のコスモス名所」とあります。

どこも同じかもしれませんが特に古都と呼ばれる地域の寺社には、重文級の建物が驚くほど多く現存します。ここ般若寺も例外で無く、入母屋造・本瓦葺きの「楼門」は重文を飛び越えて「国宝」の指定。

記事の最初に紹介した画像の中央に見えているのは、重要文化財の「十三重石宝塔」。建長5年(1253)頃、南宋から来日した石工『伊行末(いのゆきすえ)』により建立されたもので、日本の代表的な石塔とされています。

「十三重石宝塔」の横に残る「石造相輪」

またその息子『伊行吉(いのゆきよし)』によって建立された石塔婆も、「考古資料」として、重要文化財に指定されています。

歴史の重みを受け止めてきた古都の寺院と、秋の風情を優しく包み込むコスモスの取り合わせ。こんな風景を目の当たりにすると、地獄の渋滞を必死で抜けて此処まで来た苦労が報われます(笑)

、その核となる本堂は寛文7年(1667)『妙寂院高任・妙光院高栄』が勧進して再建。屋根は入母屋造りで外陣は吹き放しとする古様の形式を残しており、奈良県指定文化財。

また、『大塔宮・護良親王』が唐櫃に隠れ危難を逃れられたと伝えられる切妻造の「一切経蔵」は、鎌倉再興期の建立とみられ、重要文化財の指定を受けています。

ふうわりと風に揺れるコスモスを見ていると、通りの向こうでじりじりと進む観光バスの列もどこか別の世界のように思えるほど・・・・本当に此処は静かで時間がゆっくりと流れています。

本堂を背景に、「かんまん石」の上におわすのは「不動明王像」

「西国三十三所観音石仏」は、元禄15年(1702)山城国北稲八間の寺島氏が病気平癒の御礼にと奉納したもの。

コスモスの向こう側で穏やかに佇む石仏たち・・その何ともいえない優しさに触れていると、亡くしてしまった大切な人の顔が重なって、不意に涙ぐみそうになります。

この道を真っ直ぐ進んだら何処に行くのだろう・・。

梵字が彫り込まれた「藤原頼長公供養塔」。崇徳上皇に仕え、保元の乱の謀主とされた人物だそうです。

一石五輪塔」「板碑石仏」等々・・・

地蔵様や供養塔が建ち並ぶコスモスの通路。仲良く並んだ供養塔はいつからここに在るのでしょうか? 偶然写り込んだ不思議な光はどこから?

しばしのまどろみに羽を休める蝶々

境内の全ての建物を包み込んで風に揺れるコスモス。

何所を切り取っても絵になる美しさは、私達のような素人がシャッターを押してもそれなりに「様」になります(*^^*)

次々と訪れる参拝者や観光客で、コスモスの通路も混雑し始めました。 でも・・・確か拝観受付の所に注意がありましたよね。「三脚の使用は禁止!」って。綺麗な写真を撮りたい気持ちは理解できますが、マナーを守らないと、綺麗な花が泣きますよ。

御詠歌【 み仏の めぐみもふかき般若台  ももの願いを かなえたまわむ  】

訪問日:2005年10月1日

 

コメント (2)
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