車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

大井川・川越遺跡の文学散歩 in 静岡県島田市

2019年01月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

川越遺跡の最寄の駐車場となる「島田市博物館」では、市の歴史や民俗資料が展示されていますが、2011年は入館時間に間に合わず、2016年は月曜で休館・・・結局、一度も入館出来ず。多分、相性が悪いんです。

折角なので散策できる範囲の敷地内を歩いていると、なんと、大好きな芭蕉さんの句碑を発見! 元禄7年の夏、島田で船止めに遭った芭蕉一行が俳諧仲間の元にいた折に詠んだ句。

【 ちさはまだ 青ばながらに なすび汁 】

大意(ちさ(苣)は春野菜の一種なのだが、もう夏も半ばなのに、まだ若い青葉のままでだしてくれた。 そのうえ、秋野菜でまだ初物の「茄子(なすび)汁」も振る舞ってくれた。)

さらにもう一種、これも上記と同じ時、同じ場所で詠まれた自画賛の句。

【 たはみては 雪まつ竹の けしきかな 】

大意(うなだれしなった竹をみていると、まるで間もなくやってくる雪の重みを予期しているようだ)

川越遺跡に繰り出し、まずは川会所を訪問。そこで三基目の芭蕉さんの句碑。 元禄4年(1691)10月下旬、初めて俳諧仲間である『塚本如舟』を訪れた時に詠んだ句。

【 馬方は しらじ時雨の 大井川 】

大意(私を金谷まで運んで戻って行ったあの馬方は、時雨の大井川を越えた私の難儀を知らないだろう)

芭蕉さんの句碑はこれだけですが、他にもいくつかの句碑を見つけたので、まとめて紹介。博物館を出てすぐに「朝顔の松公園」と名づけられた、綺麗な芝生の公園があります。 そこには一本の松の木が植えられ、その傍らに「朝顔堂」とその由来、「朝顔の句碑」があります。

【 爪音は 松に聞けとや 春の風 】厳谷小波

大意(瞽女(ごぜ)の『深雪』が爪弾く三味の調べはもう誰も知らない、この老松に聞いてみようか)

【浄瑠璃でおなじみの「朝顔日記」には、恋する人を慕って流浪する盲目の娘『深雪(朝顔)』が、大井川のほとりで川留の悲運に泣くが、その時、奇跡的に目が治るくだりがあります。その時はじめて目に映ったのが大きな一本の松でした。このことから地元では、大井川畔の巨松を「朝顔の松」と名づけました。昭和十年代に枯れてしまい、その樹幹は博物館南側の朝顔の松公園内朝顔堂に木碑として保存しています。】島田市観光案内より

朝顔の松公園内にもう一つ、「口語俳句」で有名な『田中波月』の句碑。

【 稗(ひえ)しごくと こぼれ太陽の ふところに 】

大意(実った稗を手ににぎりしめて強くしごくと、熟した実が太陽の光に輝きながらこぼれていく)

次は句碑ではありませんが、遺跡の中のとある辻の入り口で「関川庵・八百屋お七の恋人吉三郎の墓」と書かれた標柱を見つけました。
『八百屋お七』を知らない方は、そのものずばりのキーワードでググって頂くと一杯出てきますが、折角なので大筋だけ紹介。
「自宅が火事で焼け落ち避難した先の寺で、超美形の『寺小姓・吉三郎』に一目ぼれしたお七さん。 でも自宅が再建されてつかの間の恋は終わり・・火事になればまた会えるかも・・もう一度会いたい一心で、後先も事の善悪も考えず、あろう事か!自宅に放火してしまったのです!!
当時火付けは重罪中の重罪。死罪、それも火あぶりの刑です。たった一人の大事な跡取り娘。我が子可愛さゆえに親たちは手を尽くすのですが、叶わぬ恋なら死んだほうがまし! という事で、火あぶりの刑にされてしまいます。恋は盲目と言いますが・・・・一途な恋心は哀れではあるけれど、全財産もたった一人の可愛い娘も失って残された二親の気持ちを想うと・・言葉が見つかりません。
あまりにも衝撃的な事件ゆえ、浄瑠璃や演劇界などでは悲劇のヒロインとして一躍有名になったお七さん。
その後、恋人とされた吉三郎は寺にも居られなくなり、お七を弔う旅に出てここ島田の地で病死したと伝えられています。結局関係者全員を不幸にしたんですよ、お七さん!
標柱には【 火と燃ゆる 恋に心も 身も焼きて あわれお七が 灼熱の恋 】

最後は、これも句碑とは関係ないのですが「島田市博物館」に設置された『勝海舟』の銅像。 なぜ島田市で『勝海舟』なのか、これも「牧之原開墾・勝海舟」でググると詳細が出てきます。私などは思わず感動してしまいましたが・・

記事に出来るほどの画像が無いのでその経緯は紹介は出来ませんが、「牧之原開墾」で心に残った一文があります。
「一望千里の荒れ野、磽确(ぎょうかく)不毛、水路に乏しく、民捨てて省みざること数百年」(磽确(ぎょうかく)=石が多く、土地がやせていること。また、そのさま。荒れ地。やせ地)

そこに住まう者にさえ見捨てられた見渡す限りの荒れ地・・・生きる糧を得る為に刀に変えて鋤鍬を握った侍たち。標高40~200mの山肌に沿って幾重にも連なる緑の大地は、今「日本一の製茶地帯」として名を馳せています。

訪問日:2011年11月14日&2016年12月12日

 

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島田宿大井川:川越遺跡 in 静岡県島田市河原

2019年01月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

有名な馬子唄の一節「 箱根八里は馬でも越すが ~ 越すに越されぬ大井川 」。江戸時代初期の慶長六年(1601)、幕府は宿場の制を定め、東海道に五十三次の宿場を置きました。 大井川を目の前にした島田宿は五十三次二十三番目の宿場。寛永十年(1633)に本陣がおかれたのが最初とされています。

江戸時代初期においては、大井川を歩いて渡る徒渉(としょう)は比較的自由であったと言います。しかし幕府の体制が整うにつれ、江戸の防衛重視の為に、自由な徒渉は禁止されてゆきました。

大井川を越える手段は、幕府が公認した馬や人足を利用した川越のみ。大井川の渡しは島田宿と対岸の金屋宿を結ぶ唯一の手段で、まさに交通の要となったのです。

金谷宿川越遺跡跡

架橋はおろか、渡し船も厳禁とされた大井川。その制度は大名・庶民を問わずに適用。 このため、大井川は東海道屈指の難所とされ「~越すに越されぬ大井川」と歌われたのです。当時の幕府にとって、大井川の架橋は決して難しくはなく、また渡し舟の手段も容易に手配できました。しかし大井川をこれほどまでの難所にしてでも、江戸の防衛は重要だったのです。

まずは川越えを管理するための「川会所」が大井川河畔 ・三軒家に建てられ、それによって川越制度を確立します。 元禄九年(1696)には川越賃銭を定め、両橋詰に1人づつ、2人の川庄屋が任命されました。

【川庄屋のもとに年行事・小頭・口取・待川越等の役のものをおいて、日々川の深浅による徒渉賃銭の取りきめや、公家や大名をはじめ各種公用人から庶民に至るまでの通行人渡河順序の割振り諸荷物等の徒渉配分などの円滑な運営がはかられた。】(大井川渡しの歴史より)  川の深浅による徒渉賃は川会所が決め、川越人足が勝手に渡し賃を要求する事は禁止されていました。

渡し賃は予め川会所で川札、または蓮台に載る場合は台札を購入し、料金を払うのが原則。 人足一人を雇うのに1枚の川札が必要で、それ以外に荷物を運ぶ場合は別の人足が必要となります。また蓮台と人は別払いで、一人乗り平蓮台の場合は担ぎ手4人で川札4枚の台札が必要となります。

金谷宿川越し場跡「大井川蓮台越えの図」に描かれている蓮台渡しは、おそらく上の「半高覧蓮台」だと思われます。 前後・左右それぞれに2人の担ぎ手が描かれていますから、川札は八枚が必要ということになります。

「大高覧蓮台」は大名や貴人を駕籠(かご)のまま乗せるもので、担ぎ手は2~30人を要します。 

庶民にとってはそれでも高額であった「平蓮台」が、板に2本の担い棒をつけただけである事を思えば、まさに天地の差。

時代とともに東海道の交通量が増加すると、川庄屋は4名に増やされ川人足の数も増えていきます。 川の両岸にそれぞれ350人と定められた川人足は、幕末には約650人に増えていきました。

おや・・ご亭主殿、その立派な体格(笑)を見込まれたのか、スカウトされたようです。でも、こればっかりはどんなに好待遇を持ちかけられても、この私が承諾しませんからね( ̄^ ̄) 

大井川の徒渉による川越は、明治時代に入って架橋が許され各所に橋が架けられるまで続きました。 そうした橋の中でも特に著名なのが明治12年(1879)に架橋された「蓬莱橋」です。

島田市河原一丁目の地には「島田宿大井川川越遺跡」として復元された町並みが新たな観光名所として人気を集めています。

川越人足は一から十までの組に分けられ、川越人足の詰所でもあった各番宿にて待機していました。現在は三番宿、十番宿が公開されています。

「仲間の宿」は陸取りなどの詰所であり、会合や親睦の場としても利用されていたと言われており、内部は外見からは想像できない広さです。

一見すると商家の見世の間のような拵え。

現在は、復元された「権三わらじ(人足が履いた川越用のわらじ)」が展示されており、こうした技術が今も継承されている事に何故かしらホッとすると言ったら変ですか?

「海野光弘版画記念館」島田市HPによれば「昭和52年にはスイス美術賞展優秀賞を受賞するなど、版画家として第一線で活躍をしながら39歳の若さで急逝した『海野光弘』の作品を数多く収蔵、展示する記念館」と紹介されています。

「八重枠稲荷神社」境内案内に「昔ここは大井川の出し堤防があり、洪水の時には蛇籠に石を詰めて杭で固定し、これを幾重にも並べて激流から村を守りました。八重枠の名はここからきています。宝暦十年(1760)に川越衆の安全と事故の排除を祈願して建立されたといいます。しかし、ここの神社の祭日は二月の初午の日である事からも建立当時の目的は、川で亡くなった人々の供養が主だったかと想像されます。」

「島田大堤」現地看板には「天正の瀬変え以降島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が慶長の大洪水で決壊し、建設間もない島田宿のすべてが押し流されました。その後大堤完成までの確かな記録は不明ですが~中略~正保元年までには完全な大堤が完成していた事と思われます。~中略~今は切れ切れとなって忘れられていますが、長い間島田宿及び下流の村々の生活を守って来た大変重要な大堤だったのです。」

ラストの画像は、街道の左右に設けられた「せぎ跡」。河原の石が積まれ、溝に板を挟んで堤防の役目をしました。この「せぎ跡」より西側は河原です。

2011年に訪ねた島田宿。駆け足で巡った宿場は昼間の明るさを少しずつ失い、もう私たち以外、人の姿も楽し気な笑い声も聞こえてきません。

大井川に沈んでゆく夕日が、早くお帰りなさいと急き立てます。

訪問日:2011年11月14日&2016年12月12日

 

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大井(おおい)神社 in 静岡県島田市大井町

2019年01月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

島田市大井町に鎮座される「大井神社」。御祭神は『弥都波能売神 (みづはのめのかみ)・波邇夜須比売神(はにやすひめのかみ)・天照皇大神』。それぞれに「水・土・太陽」をつかさどられます。

由緒「創建不詳。三代実録巻11に貞観7年(865)『授駿河国正六位上大井神社従五位下』との記載あり。『駿河記』『駿河志料』に、ある時、現在の川根本町大沢村より流されて島田に祀られたとある。建治2年(1276)8月、島田に鎮座の記録が残る。慶長9年(1604)の大洪水で、島田の街と共に大井神社は現在の元島田の野田山へお遷しされ、その後の元和元年(1615)、御仮屋町に還坐。その後、大井神社上流に民家が広がり、氏子からの請願により、元禄2年(1689)現在の御社地に還座。これに伴い、元禄8年(1695)より神輿渡御が行われ、御仮屋元境内は「御旅所」と呼ばれるようになる。宝永5年(1708)正一位大井大明神と奉称、嘉永7年(1854)に勅宣正一位大井神社と改めた。明治5年郷社に、明治41年に県社に昇格、昭和41年7月1日、神社本庁より別表神社に加列、現在に至る。」大井神社HPより

境内入り口より神域を守護されるのは、昭和13年(1938)6月吉日建立の岡崎型狛犬さん一対。写す位置の所為なのですが、吽形さんの表情が思慮深く優しそうで、岡崎型としては珍しく好みかも(〃∇〃)

参道より拝殿

「大正八年 明治神宮造営御用材の一部下賜を得て、総桧造にて造営」

拝殿前左右より神域を守護されるのは、1998年8月1日建立のブロンズ製の神殿狛犬さん一対。堂々とした顔立ちは三女神の鎮まる地を護るに相応しいお姿。

透塀の内に鎮まられる、文久三年再建の御本殿。

「双竜の清水」

「大井神社の最も古い信仰は、大井川より発生した土地生命を護る水神信仰です。拝殿脇のこの手水は境内地下より汲み上げた清らかな水を使用しております。」

今年の豊年満作 一粒萬倍を祈る「田のかんさぁ(田の神様)」

田を起こし米を育てるお百姓様、収穫したお米は大切に米蔵に納められます。

しゃもじとお椀を持つ神様・・この優しい素朴な神の姿に手を合わせ、人々は豊作を祈ってきました。

神井戸の上に鎮座される「祓戸神社」『清め祓いの神』を御祭神とします。

神井戸より汲み上げられる御神水

「福寿の手水鉢:江戸時代享保年間、武州多摩川の崇敬者の奉納した手水鉢」

拝殿向かって左手に鎮座される「大井天満宮」。御祭神は『菅原道真公』

「春日神社」。御祭神は『春日神

「静霊(しずたま)神社」

『国の為に亡くなられた島田市出身の英霊千九百余柱を祀る。』

私たちは、皆様方の尊い命の上にこうして今この時を過ごさせて頂いています。その事を決して忘れないように・・心から感謝を込めて「有難うございます」

「崇敬子来之碑」 「日清・日露戦慄紀念の碑」

「大井恵比寿神社」

出雲大社より『大国主神(大黒様)』、西宮神社より『事代主神(恵比須様)』の御分霊をお祀りしています。

「大井神社・最古の奉納燈籠:寛文三年(約三百四十年前)」

「大井社 元禄二年社号標:元禄二年(約三二〇年前)この年に大井神社は元社地 現御仮屋御旅所より当地に還座島田宿の中心に氏神として鎮座し広く信仰を集め崇敬された」

「大井大明神 奉献燈籠壱対 元禄十六年(1703)約三百年前建立」

江戸時代建造の常夜燈籠、長年の経過による損傷の為一旦解体、島田の宮大工佐野覚氏によって、2004年に再建されました。

「石の太鼓橋・江戸時代正徳三年(三百年前)神輿の渡御の為に造営。両脇の平橋は安政三年(一五〇年前)川越連中が奉納した。」

拝殿から裏参道へと向かう屋根つきの回廊。大井神社の結婚式場「宮美殿」へと向かう、佳き日の通路として使われます。 

幸せに包まれた新郎新婦が見るのは、鮮やかな緑に映えて美しい朱の太鼓橋と「御神池」。豊かな水をたたえた「御神池」は、大井神社大祭:鹿島踊り奉納時の進路にもなっているそうです。

回廊の灯篭には「丸千木(まるちぎ)」の御神紋。丸千木は、島田に流れ付いた二体の御神体がx」の形で河原にひっかかっていた事からと云われています。

「安産祈願の帯塚」

社務所

社務所屋根 留め蓋飾り瓦の玄武

「大井神社:絵馬・島田の帯祭」

奉納「大奴:鹿島踊りブロンズ像」

参拝日:2011年11月14日&2016年12月12日

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御神名一口メモ

『弥都波能売神 (みづはのめのかみ)』、「日本書紀」では『罔象女神』と表記。神生みの終わりに生まれた火を鎮める水神。豊穣をもたらす農耕神。

『波邇夜須比売神(はにやすひめのかみ)』、「日本書紀」に「土神を埴安神と号す」とある。神生みの終わりに生まれた土の神。作物を育む農耕神。

 

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ご当地マンホール in 静岡県島田市・旧島田市

2019年01月28日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

島田市(しまだし)は静岡県中部、志太平野を流れる大井川の両岸に位置する都市です。 江戸時代より東海道の宿場町として盛え、市内を流れる大井川は、江戸の防衛上の理由から架橋を禁止されたため、人足による川越制度が敷かれていました。静岡市、浜松市、藤枝市、掛川市、菊川市、牧之原市、焼津市、吉田町、川根本町、森町に隣接。駿河国と遠江国の境界線である大井川沿いに位置するため、自然地理的にも人文地理的にも、島田市が東西の境界線となっており、島田市から西と東では地形地質も食文化も大きく異なっています。「市の木:茶」「市の花:バラ」「市の鳥:オオルリ」を制定。

キャッチフレーズは「人と産業・文化の交流拠点 水と緑の健康都市 島田」

戊辰戦争が終わり、職を失った将軍警護隊たちは遠江国の一部に広がる牧之原台地の開墾に着手。 これによって牧之原台地は全国有数の大茶園地帯となり、島田市緑茶化計画の発信元となりました。

島田市役所前に設置された緑色のポスト。

日本書紀にもその名が見られ、また箱根馬子唄に【箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ】と歌われた大井川。島田市南2丁目に架かる「蓬萊橋(897.422m)」は、「世界最長の歩行者専用木造橋」として1997年12月にギネスブックに登録されました。

明治22年(1889)、町村制の施行により、志太郡島田町、六合村、大津村、大長村、伊久身村、榛原郡金谷町、五和村、下川根村、初倉村が発足。

1948年、志太郡島田町が市制を施行、島田市となる。

1955年、島田市が志太郡六合村、大津村、大長村、伊久身村南部を編入。榛原郡川根村が町制を施行、川根町となる。

1957年、榛原郡金谷町と五和村が合併、新たに榛原郡金谷町が発足。榛原郡初倉村大字湯日・牧之原のそれぞれ一部が分離し金谷町に編入。

1961年、島田市が榛原郡初倉村を編入。

2005年、島田市と榛原郡金谷町が合併、新たに島田市が発足。

2008年、榛原郡川根町を編入。現在に至ります。

マンホールには、浮世絵に描かれた「大井川蓮台越」が美しく描かれています。

金谷宿川越し場跡「大井川蓮台越えの図」と、「八軒屋橋」のレリーフ

三年に一度の「島田大祭帯祭り」が描かれたマンホール。「鹿島踊」と「大奴」が美しくデザインされています。

帯祭り:大奴の路上タイル

プラスチック製の枡蓋には、簡略化した市章と「市の花:バラ」がデザインされています。

「市の花:バラ」の路上タイル

2005年7月14日制定の市章は「SHIMADASHIの『S』の文字をかたどり、東海道の中心から全国に広がる躍動感を表現し、青は大井川を、緑はお茶を表し、豊かな自然をイメージしています。」公式HPより

仕切弁

消火栓

空気弁

側溝蓋

旧島田市

大正4年10月23日制定の旧市章は【全体は「シマダ」を図案化したものであり、「マ」を四つ組み合わせて、「島」を意味し、それを円で囲んで「田」を表したもので、町章として制定されたものを市制施行後に継承した。】HPより

防火貯水槽

仕切弁

大上水

消火栓

空気弁

旧市章と「旧市の花:銀木犀」がデザインされた側溝蓋。

単に「ガス」蓋を表しているのか、固有の会社の徽章なのか不明。

島田茶PRキャラクター『えい茶くん』は、日本にお茶を広めたとされる『栄西禅師』がモデル。 左手に新芽、右手に湯のみ茶碗を持ち島田茶を全国に広めようと旅をする男の子です。

モデルとなった『栄西禅師』は、島田駅前で黄金の茶葉を高く掲げ、島田茶の存在をアピールしています。

金谷地区で生産される金谷茶イメージキャラクターは『金谷茶のかなちゃん』。旧金屋町時代には「茶子ちゃん」と呼ばれていましたが・・いつの間にか改名されていました(笑)

島田市川根町、NPOまちづくり川根の会のマスコットキャラクターは、フクロウをモチーフにした『チャリムくん』。背中に背負っているのは「お茶カゴ」だそうです。

島田髷を結った浮世絵美人が描かれた「島田市茶葉振興協会」のステッカー。

「島田髷発祥の地」として「島田髷祭」が催される島田市の商工会キャラクター『おしまちゃん』。髪の毛は島田髷。市章入りのかんざしに、お茶のかざりとバラの髪飾り。大井川を表現した水色の着物の胸元にはSL。島田の文字入り法被を着て広報活動に励んでいます。

撮影日:2011年11月14日&:2013年10月14日&2016年12月12日

 

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神(みわ)神社 in 静岡県藤枝市岡部

2019年01月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

藤枝市岡部町三輪に鎮座される「神(みわ)神社」。御祭神は『大物主神(おおものぬしのかみ)』「美和天神」とも称され、「駿河国神名帳」には「三輪明神」と記載される古社。『大物主神』は、『大国主神』の「和魂(にぎみたま)」とされ、他にも『八千矛神・三諸神』等々・・多くの名を持ちます。
相殿に『天照大神・葛城一言主神(かつらぎひとことぬしのかみ)』

山沿いの12月は、日の落ちるのが予想以上に早すぎて、写真だけ見ると夜の参拝のようですが、これでもまだ4時半過ぎ。 きっと御朱印もいただける筈と、急いで車を飛ばしたのですが・・(^^;)
御朱印がいただけなかった事は残念でしたが、灯りの入った拝殿はとても神々しく、鎮守の杜を背景に境内全部の気が澄み渡り、独特の静謐感に満ちています。

由緒【皇極天皇三年(644年)四月中の牛の日、東国に疫病が蔓延 して人民が苦しみあえいだ時、先の崇神天皇の御代の吉例に倣って、大和国三輪山大物主神を【意富多多根古命二十六代の子孫三輪四位』を神主としてこの地に祀り、大難を救って戴いたのがこの神社創祀 の由来である。】

拝殿の後方、石垣の上に本殿が鎮座しているという事で、早速拝殿の右がわに。

ご本殿は文化八年十月の建立とあり、華美ではないですがすっきりと美しい姿を見せています。

本殿の右手には、白木の三ツ鳥居。鳥居の向こうは時間の所為も合って深く暗く・・、何となく立ち入ってはいけない場所に思えます。
由緒に寄れば【当神社は古来本殿がなく、三ツ鳥居の奥が古代の斎庭であった。今でも例祭など主な祭りには、お山に五対の御幣(おんべい)を立て、本殿と同じ神饌を上げて祀る古代祭祀の姿を残している。】(祭祀は岡部町民俗無形文化財の指定)

杉之坊舎参拝所

こちらの神社には守護の神獣はいないのかと思われては心外(笑)ですので、『大物主』ではピンとこなくても、『大国主』と言えば直ぐに思い浮かぶのが因幡の白兎。 一対の小さな神兎さんが、体の十倍以上はありそうな注連縄を首にかけられて健気に神域を守護されています(*^^*)

参拝日:2016年12月11日

 

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大旅籠:柏屋歴史資料館 in 静岡県藤枝市岡部

2019年01月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

藤枝市岡部町岡部に今も残る、東海道岡部宿を代表する大旅籠のひとつ「大旅籠柏屋」。 江戸時代に建てられた建物は、それ自体が資料館ともいえるもので国登録文化財に指定されています。

建物内には、店の間、台所、1、2階の客室などがあり、部分的な改修を重ねながらも、180余年にわたり往時のたたずまいを伝えてきました。

期待に胸を膨らませて玄関を入ったところで、係りの方に「今日は休館日です」と言われ、二人とも茫然自失! たまたまこの日はステンドグラスの作品展示の為に、玄関を開けていたとか・・本当に言葉をなくすくらいのショックでした。
ところが私たちが遠方から来たとわかると、中を見るだけならと館内に入れて下さったのです。 そのときの驚きと喜びは何年たっても忘れがたく、思い出すと胸が熱くなります。

当時の旅籠の様子が再現された客室で、旅の疲れを癒す等身大の人形たち。女中さん相手に旅先でのあれこれを話す旅人、そんな話に時折相槌を打ち、酌をする女子衆。 賑やかな笑い声が聞こえてきそうな場面ですが、今の私たちは、とにかくひっそりと、静かに・・(決して強要された訳ではありません)

街道の様子を再現したジオラマは、一目で当時の様子が見て取れ、とても興味深い展示。 旅籠の様子から道を急ぐ旅人まで。男も女も厳重な旅の拵えで、日が落ちないうちに難所とされる宇津峠を越えようというのか、急ぎ足。

じっくりと見れば、どれもこれも興味深い歴史的な資料ばかりですが、何しろご好意だけで見学させていただいている身。なるべく時間をかけないように、静かに急いで・・それでも思わず足を止めて見入ってしまう資料が並んでいます。

おそらく館長さんのご好意でしょう。館内には電気がつけられ、見学に不自由はありません。

特別な客室だったと推測される重厚な部屋。

重ねた年輪の手触りまでもが伝わってきそうな、巨大な松の水墨画。

往時を思わせる高い天井には太い梁がめぐらされ、さすがはと納得する「大旅籠」の貫禄。

まるで精巧な幾何学模様を見ているような梁の様子、上から見下ろす事も出来ます。

土間に設けられた井戸。

手入れの行き届いた和風庭園が美しい離れも、外観だけですがこうして見ることができました。

土間を抜けて裏手には江戸期と明治の二つの土蔵があり、ギャラリーなどに利用されています。顔出し看板の二人は『弥次さん・喜多さん』。 実在する人物では有りませんが、東海道といえば「膝栗毛」。

中学生の頃だったと記憶しているのですが、『十返舎一九』「東海道中膝栗毛」。その軽妙な語り口が面白くて、図書館の貸し出しでは飽き足らず、お小遣いを貯めて買い求めたものです。

かの有名なお二人は玄関を入った土間にもいて、なんと一緒の記念写真まで撮っていただきました。 こうして画像を見返すとあの日の思いがけない親切が心に染み入り、胸が温かくなります。

今更ですがあのときのお心遣いと優しいお申し出、本当に、本当に感謝に耐えません。 こんな小さなブログの中ですが、改めて「ありがとうございました!! 」

訪問日:2011年11月14日

 

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ご当地マンホール in 静岡県旧岡部町(藤枝市)

2019年01月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

旧志太郡岡部町(おかべちょう)は静岡県の中部、静岡市と藤枝市の間に位置した町です。江戸時代には東海道の宿場町として栄え、現在でも静岡市との境界にある宇津ノ谷峠は交通の要衝であり、旧街道、明治・昭和初期・昭和中期・平成のトンネル全てが、利用可能な状態で利用されています。町域にある、新舟・朝比奈地域は、京都の宇治、福岡の八女と並び、「玉露」の三大産地の一つとして有名であり、また2年に一度の「朝比奈大龍勢」では勇壮なロケット花火の打上げがみられる事でも知られています。

静岡市・焼津市・藤枝市と隣接。「町の木:モクセイ」「町の花:梅」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、志太郡岡部町・朝比奈村が発

1955年、志太郡岡部町と朝比奈村が合併、新たに志太郡岡部町が発足。

2009年、藤枝市に編入され現在に至っています。

玉露の産地でもある岡部町のマンホールには「茶壷」と、周囲に「お茶の花」が描かれています。

岡部宿にあったカラー側溝蓋には「町の花:梅」。

「たけのこ」が描かれた仕切弁ですが、それぞれのたけのこの先が別方向を向いて描かれています。 自治体名を表すのもは有りませんが、藤枝市岡部町の子持坂付近にのみ設置。

昭和47年5月23日制定の町章は「全体で「オカベ」を図案化、富士山と左右で鳩を意匠化しています。」

町章が描かれた岡部町の消火栓二種類。

岡部町商工会キャラクターの『おかべぇ』。頭はみかん、体は茶畑、いつもニコニコ岡部の町を歩いています。

2016年12月の静岡車中泊の旅では、道の駅「玉露の里」を利用させていただきました。 真夜中のWCはとても明るく安心できた事が印象に残っています。

車で旅をする者にとって、こうした施設は、本当にありがたく大切な場所です。

改めて、その折は有難うございました m(__)m

撮影日:2011年11月&2016年12月

 

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飽波(あくなみ)神社 in 静岡県藤枝市

2019年01月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

藤枝市藤枝に鎮座される式内社「飽波(あくなみ)神社」。別称「川関(かわせき)大明神」とも称します。

御祭神は『少彦名命(すくなひこのみこと)』。配祀、『瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)、蛭子命(ひるこのみこと)、天忍穗耳命(あめのおしほみみのみこと)』。『瀬織津姫命』は水神・祓神・瀧神・川神としての面を持つ女神で、龍神の后神とされます。

由緒に【当神社は古墳時代第十六代仁徳天皇六年十月(316年)、飽波郷(旧藤枝一円)の鎮護の神としてお祀りされた、志太平野で最も古い伝統のある神社です。 御祭神『少彦名命』は、『大国主命』と共に日本の国を開き産業を進め、医薬の術 を教え、人々にさまざまな智恵を、授けるなど幸福をもたらす神様です。 昔この山裾の小石のまわりから清らかな水がこんこんと湧き出て諸病の霊験があったと 伝えられ人々に命の水を恵み、又瀬戸川の水害から護って下さることから「川関大明神」とたたえられ「沸波神社」とも称せられました。】

由緒にある命の水は現存しませんが、伝承では泉の中央に丸い石があり、湧水の上では小石がおどっていたと云い、「湧波の池」とも「湧玉の池」とも称したと伝います。昭和49年、社務所建設と同時に境内に氏子の奉納による池が作られ、改めて「湧玉の池」と命名されました。

水難除けとしても名高い神社の御神紋は「波巴」、文字通り、波で描かれた三つ巴紋。 巴紋は八幡宮の社紋として有名ですが、このように波を使って描かれた紋はこの時が初見。

拝殿下、石段参道の左右より神域を守護されるのは、 強面系で名を馳せた(笑)昭和8年建立の丹後系狛犬さん一対。藤枝町時代の「料理業組合」の奉納。一見強面なんですが、じっと見てると実はすごい愛想良し(^▽^)/

境内の右手にある鳥居の奥。左側の「七ツ森神社」には、「熊野社・諏訪社・泉社・進雄(すさのお)社・藤森社・作神社・七ツ森社・秋葉社」

「七ツ森神社」の右側には『金山彦命』を御祭神とする「金山神社」が祀られています。

今日の参拝でとっても印象に残ったのは、社務所前に奉納されていた沢山の怪獣や恐竜たち。 素材は鉄鋼のようですが、これがとてもよく出来ていて、思わず三人とも童心に返って(笑) 特に、狛犬さんの下に並んでいた阿吽の龍、正直言って狛犬さんよりも迫力満点。

恐竜たちを前にファイティングポーズをとる友人Jさん(^_^;)。このノリの良さは流石、私の友人(笑)

最後は境内の一角に建立されていた「針塚」

参拝日:2016年12月12日

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 静岡県藤枝市

2019年01月23日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

藤枝市(ふじえだし)は静岡県中部の志太平野に位置する市です。北は南アルプスを望む赤石山系の森林地帯から、南は江戸時代「越すに越されぬ」と言われた大井川の一部まで広がり、江戸時代には田中藩の城下町として、また東海道藤枝宿と岡部宿の宿場町として栄えてきました。静岡市、焼津市、島田市に隣接。「市の木:松」「市の花:藤」「市の鳥:鶯」を制定。

市名の由来は、江戸時代の若一王子神社の社伝に、源義家が奥州下りで「若一王子神社」に立ち寄った際、裏山の古い松の木に藤のつるが絡まり、藤の花が咲き誇っているのを見て詠んだ和歌【松に花咲く藤枝の 一王子 宮居ゆたかに いく千代をへん】に由来すると言われています。
市庁舎の玄関部分、吹き抜けの窓には一面の藤の花のステンドグラスが施され、それは見事です。

また「サッカーの町 藤枝」としても知られており、少年野球が全盛であった大正時代に、旧制志太中学校の校技として採用されたことに始まります。

キャッチフレーズは「元気供奏・飛躍ふじえだ ~元気つながる、笑顔ひろがる。~」

明治22年(1889)、町村制の施行により志太郡藤枝町・葉梨村・稲葉村・青島町・大洲村・高洲村・瀬戸谷村・広幡村が発足。

1954年、志太郡藤枝町・葉梨村・稲葉村・青島町・大洲村・高洲村が合併、藤枝市が発足。

1955年、志太郡瀬戸谷村を編入。

1957年、志太郡広幡村を編入。

2009年、志太郡岡部町を編入、現在に至っています。

マンホールには市の花「藤」を背景に、「富士山」市の木「松」市の鳥「鶯」が描かれています。

「藤枝市浄化センター」展示マンホール

「藤枝市浄化センター」展示マンホール

市の木「松」、市の花「藤」、市の鳥「鶯」に市章がデザインされたおしゃれな消火栓。

昭和29年9月11日制定の市章は「市の花である藤に見られる高潔な気品を藤枝の姿として、永遠に汚れない清潔な市として躍進と発展を遂げることを願い制定されました。」公式HPより

市章のみ、もしくは自治体名に、それぞれの用途が記載された、いわゆる規格蓋。 消火栓、防火貯水槽、仕切弁。

樹脂弁(腐食性環境や金属などが使用不可能なラインにおいて使用できるプラスチックで構成されたバルブ)。

撮影日:2011年11月14日&2016年12月11日&2018年11月06日

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2018年8月11日、第8弾として全国76自治体76種類(計364自治体418種類)のマンホールカードの無料配布が開始されました。藤枝市のマンホールカードは「藤枝市郷土博物館・文学館」で頂けます。

2015年に設置開始されたマンホールには「市の花:藤」「市の鳥:うぐいす」「市の木:松」「富士山」がデザインされています。本音を言えば何故シールタイプにしたのか・・マンホール大好きな私としてはかなり不満。

【わがまち藤枝を連想する、市の花「藤」、市の木「松」、市の鳥「うぐいす」、背景には静岡県を象徴する「富士山」がデザインされています。 「藤」は平安時代の武将八幡太郎源義家の歌にも詠まれており、「藤」は昔から藤枝の地と縁が深いのです。 「松」は東海道の松並木、日蓮上人のお手植えの「久遠松」があります。 街中では「うぐいす」の鳴き声が聞こえ、その姿を見ることができます。 カードのマンホールは蓮華寺池公園前交差点内に設置されています。 公園内には他のマンホールもあり、公園内を散策することで、マンホールや景色、花を楽しみながら、藤枝の魅力を感じることができます。】

訪問日:2018年11月6日

 

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焼津(やいづ)神社~其の二 in 静岡県焼津市

2019年01月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

昨日に引き続いての「焼津(やいづ)神社」は、境内者、末社等々の紹介。拝殿から少し離れた「焼津御霊神社」。人の姿は無く、とても静かな空気の中で参拝させて頂きました。 祀られているのは「西南戦争から第二次大戦までの国難に殉じた焼津市出身の2,500余柱の英霊」。日の本の光よ、御霊にあまねく降り注がれますように・・

末社「七社合殿」には、左より「春日社・橘姫社・八幡社・天王社・
稲荷社・竃神社・浅間神社」

末社「稲荷神社」、御祭神は『宇伽之御魂(うかのみたま)』

境内一画に建立されていた石祠と碑

同じく境内に建立されていた「誠心照萬古」碑。 “誠の心から出た行いは、永遠に光り輝くものである”

参拝日:2016年12月11日

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焼津神社の飛地境内社「須賀神社」。御祭神は『須佐之男命、奇稲田姫命、大巳貴命』。地元の方からは『須佐之男命』に合わせて「おてんのうさん」と呼び親しまれているようです。

鳥居の中から枝を広げ神域を守る黒松は、昭和53年に焼津市の保存樹として指定。

社殿はささやかですが、清潔な境内の空気からは、地域の方に大切にされていることが伺えます。

拝殿前左右より神域を守護されるのは何ともユニークな顔立ちの狛犬さん一対。

阿形さんのお顔を見てると「頑張ってる!」よりも、この場所にいる事が楽しくて仕方ないような(笑)

頭上に角を持つ吽形さんは、阿形さんの分も頑張らなければと、笑いたいのを必死で我慢して歯を食いしばっていますよ(-_-;)

小さな飛び地の境外摂社ですが、ここにも末社である「天白稲荷大明神」が祀られています。 農耕民族である日本人にとって、穀霊神・農耕神である稲荷信仰の凄さ、改めて感じさせられます。

参拝日:2011年11月14日

 

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