車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 鳥取県伯耆町&旧岸本町

2017年07月31日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・鳥取県

西伯郡伯耆町(ほうきちょう)は鳥取県の西部に位置する町です。2005年1月1日、西伯郡岸本町と、日野郡溝口町が合併して誕生。古来からの鬼伝説や鴟尾の里として知られています。「伯耆」の名は、旧国名「伯耆国」の名残で、現在の鳥取県中西部と島根県東部の一部を含む地域には今でも多くの「伯耆○○」という地名や旧跡が残っています。「霊峰:大山」の西側にある当町から望む山容は、まるで富士山のように見えることから、古来より「伯耆富士」「伯耆大山」と呼び親しまれてきました。「町の木:キャラボク」「町の花:菜の花」を制定。

キャッチフレーズは「森と光が織りなすうるおいのまち 共生と交流の伯耆町 ~誇りと愛着のもてるまちづくり~」

2005年1月1日制定の町章は「大山、澄みきった川の流れ、森の緑などの伯耆町の豊かな自然を図案化し、歴史や文化を背景に未来に向かって輝き躍動するまち・自然を表す。」公式HPより

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旧西伯郡岸本町(きしもとちょう)は鳥取県の西部に位置した町です。日野川流域の大殿地区に現存したとされる白鳳時代の大寺跡地からは心礎と石製鴟尾・仏堂・回廊跡などが発見されています。その中でも、特に「石製鴟尾(せきせいしび)」と呼ばれる発掘物は、国の重要文化財にも指定されるなど、全国的に見ても非常に珍しいものです。「町の木:松」「町の花:菊」を制定。

岸本町域から見た大山

明治22年(1889)、町村制の施行により会見郡日吉村・吉寿村・大幡村・幡郷村が発足。

1896年、郡制の施行のため汗入郡・会見郡の区域をもって西伯郡が発足。

1912年、日吉村・吉寿村が合併、西伯郡八郷村が発足。

1955年、八郷村、大幡村・幡郷村(小野・小町・金廻・大殿・坂長・岩屋谷)が合併、西伯郡岸本町が発足。

2005年、日野郡溝口町と合併、西伯郡伯耆町となりました。

マンホールには「大山」と町の花:菊」中央に特産の「スイカ」。左に国重文の「鴟尾(しび)」。右に「みどりと清流のまち きしもと」の文字がデザインされています。

昭和31年(1956)3月9日制定の町章は「「岸本」を図案化して、総体の円型は、円満 と融和を、上部の開口は、上に向かって伸びる 町発展を象徴したもの」合併協議会資料より

撮影日:2011年5月20日

 

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板井原(いたいばら)集落 in 鳥取県智頭町

2017年07月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取県智頭町に位置する山村、県選定板井原伝統的建造物群保存地区「板井原(いたいばら)集落」

「智頭町中心地から北東約3kmに位置する板井原集落は、山に囲まれた小さな谷間に広がる集落です。始まりは平安時代に遡る事から平家落人の隠れ里とも言われています。昭和42年に板井原トンネルが開通するまでこの地に車が入ることはなく、徒歩で行き来する「六尺道」だけが唯一の道でした。」智頭町観光協会HPより

専用の駐車場に車を置き、そこから徒歩で川に沿って続く林道を進みます。

杉木立を抜けると、右手に「板井原集落」の建物が見えてきました。杉の木独特のフォルムに囲まれて、春の日差しの下でまどろむ田舎の風景・・まさにそんな形容がぴったり。

日本の山村集落の「原風景」を残し、昭和30年代にタイムスリップしたかのような懐かしい景色。それは板井原川の流れを利用した米つきの水車小屋であったり、茅葺屋根の古民家であったり・・

川向こうの小高い丘の上から集落を見守る「向山神社」。御祭神は『天穂日命』と思われます。創建や由緒などは不明ですが、長くこの地に鎮座し、板井原の人々の営みを見守ってきました。

昭和前期に建設された木造2階建の建物は「国登録有形文化財:旧智頭小学校板井原分校」。昭和28年(1954)に現在地に曳家移転されました。建築面積36㎡。木造2階建て、切妻造。金属板葺で外壁は下見板張。軒周りのみが白漆喰で仕上げられており、現在は「板井原公民館」として使用されています。

板井原川沿いに建つ茅葺屋根の家屋は、明治32年(1899)に建築された「智頭町指定文化財:藤原家住宅」。智頭町の観光案内マップに必ず登場するこの佇まいは、「平家の隠れ里伝説」を彷彿させ、しばしのタイムスリップを経験させてくれます。

主屋は明治32年(1899)に建てられたもので建築面積118㎡。木造平屋建、入母屋、茅葺、平入、直屋造、下屋庇(板井原川側鉄板葺、庭園側桟瓦葺)、主屋から板井原川に直接下りるように石段が設けられています。

標高480mにある板井原集落は、山すそのあちこちに雪が残り、流れる水は冷たく切るようです。集落に残る六尺道を歩いていると、満開だった智頭宿の桜並木がまるで夢のようで・・

かつては20数戸の住民が住んでいましたが、今では通年生活している世帯はわずかといいます。人とは勝手なもので「日常ではない風景」を求めるクセに、決して自らがその主人公になろうとはしません。誰しも快適で便利な生活の方が良いのです。それでも・・・またいつかこの地に降り立った時、甘酸っぱいような「この風景」に出会いたいと願う自分がいます。

雪解けとともに一斉に芽吹く「蕗の薹(ふきのとう)」。「蕗の薹」は、蕗の花芽の事。春の山菜として知名度が高く、てんぷらや蕗味噌に。開いてしまった花・・少し苦みがあるけど茹でて刻んで蕗味噌にしたら美味しいんだよと・・ずっと昔、母が教えてくれました。

訪問日:2012年4月14日

 

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諏訪神社 in 鳥取県智頭町

2017年07月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取県智頭町智頭宮前、牛臥山の山麓に鎮座される「諏訪神社」。御祭神は『建御名方神』。

街道沿いにある一の鳥居を潜り参道を暫く歩くと、急な石段の先に二の鳥居。

境内、一段高くなった場所に、後に明治神宮宮司となった陸軍大将『一戸 兵衛』揮毫の「忠魂碑」。ご亭主殿曰く、日露戦争の旅順攻囲戦で名を馳せた人物だそうです。

急な石段はさらに続き、流石に座り込みそうになりながらも、気力を振り絞って一段、また一段(^^;)

「蒙古来襲の頃、弘安元年(1278)に信州の諏訪大社の分霊をいただき、「諏訪大明神」と称した。古くから軍神や鎮火の守護神として崇敬され、後醍醐天皇も祈願された神社と伝えられている。江戸時代には、鳥取藩主池田家の祈願所として栄え、慶應4年(1868)に「諏訪神社」に改号。天明2年(1782)より、諏訪大社の御柱祭に倣った「柱祭り」が6年ごとに行われている。現在の本殿は天保3年(1832)の築。」境内由緒より

明治37年(1904)に改築された幣拝殿。御社紋は古より伝えられた「楓紋」。

諏訪といえば「梶葉」と思い込んでいましたが、由緒に「古来境内には当社紋に則り楓を植樹せしが地質調和よく繁茂し数百樹が織りなす秋の紅葉は
実に華麗なり」とあります。

拝殿前より神域を守護されるのは、広島型玉乗りの狛犬さん一対。大きな玉に前足をかける独特の姿、この因幡ではあまり目にしないタイプですが、岡山県の備前地方では時折目にします。吽形さんのギョロ目が・・・(^^;)

下りの石段参道を前に、山側石垣の上に祀られる摂社「荒神社」・「稲荷社」」・「天満宮」に参拝。

名残惜しさについ振り返る境内の風景。

参道途中に見つけた石碑。「一二三」の文字は分かりますが後は・・・(-"-)

明治37年(1904)に改築された幣拝殿と記載がありますが、これはどんなに贔屓目に見ても、木の香も新しいという言葉がしっくり。調べた所では2004年9月の台風18号の影響で本殿が倒壊したとあり、後に復旧工事が成されたそうです。

参拝日:2012年4月14日

 

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智頭往来~Ⅱ~ in 鳥取県智頭町

2017年07月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

昨日に続いての「智頭往来」。今日は「面積の93%が森に囲まれた杉の町」というフレーズを踏まえての町歩きから。

「杉」と言って最初に思いつく物って何?と御亭主殿に聞いたところ、速攻で「酒林(さかばやし)」と答えてくれました。他に無いのかと再度詰問したところ(笑)、しばらく悩んで「お山の杉の子」って・・それ懐かしの童謡 ミ(ノ;_ _)ノ =3 と、内輪ネタは置いといて。智頭往来を歩いていると割と頻繁に「酒林・・杉玉」を見かけます。

「酒林」。酒造家ではその年の新酒ができた事を愛飲家に知らせるために、この杉で作られた「酒林」を軒先に吊るしました。吊した当初は緑色で時の経過と共に茶褐色へと変化する・・この変化がお酒の熟成と似ているために象徴的に使われるようになり、やがて次第に酒屋の看板として常に店頭に吊るされるようになりました。では智頭町にはそんなに酒蔵が多いのかって思われそうですが、町の酒蔵は「諏訪酒造」の一軒だけ。

黒壁の酒蔵がある風景・・この雰囲気。お酒には全く無縁の私ですが実はとってもお気に入りのアングル。この景色が見たくて日本各地、アチコチの酒蔵の町を歩いて来ました。

「酒蔵交流館・梶屋」は、某局のテレビドラマ「夏子の酒」で紹介された「諏訪酒造」の酒蔵。とは言えこのドラマ、実は一度も見た事がありません(^^;)。

館内には、原作となった漫画作者『尾瀬あきら』氏の原画が展示されたギャラリーも有ります。ああこの絵・・この漫画なら、確かに読んだことがある。

受付&レジの素敵なお姉さま方の楽しい口車に乗せられて・・鳥取の車泊旅初日というのに「銘酒:諏訪娘」を買ってしまった御亭主殿。狭い車内での割れ物の保管は大変なんですよ!(笑)

一時のおしゃべりを楽しんだ後は、再び智頭往来へ。あっ!酒林の材料がこんな所に!!

なんでこんなに沢山の杉の枝が??? 実は杉で作るのは酒林だけでは無い!杉玉と呼ばれる所以の丸い形を応用してこんなものも (⌒∇⌒)

「ふくろう」は、「不苦労・福朗・不苦老」に通じる縁起物。軒先に是非一羽! (^▽^)/   ・・流石に四羽は多すぎるような(笑)

智頭街道に面して建つ木造、下見板張の「智頭消防団本町分団屯所」。総2階の切妻造、桟瓦葺洋館で、正面の屋根中央部を切妻破風に切り上げ、切妻造の火の見櫓をのせています。正面中央壁沿いの梯子段が切妻破風を貫通して櫓に至る姿は、消防団屯所としての用途を明確に表しています。

昭和16年(1941)建築の「智頭消防団本町分団屯所」は、2000年12月4日、国登録有形文化財に指定されました。

「本町分団屯所」と道路を挟んで近くに建つのは、大正3年(1914)に「智頭町役場」として建築された「下町公民館」。昭和3年に現在地に移築され、町役場や電報電話局として用いられてきました。木造2階建、寄棟造、桟瓦葺、外壁下見板張の洋風庁舎は今も現役で活躍しています。

「酒林」が下げられた「旧智頭町役場」は、地方における洋風庁舎建築として2002年6月25日、国登録有形文化財に指定されました。

千代川に架かる備前橋を渡った先に見かけた「光明真言塔」。上部に「梵字」。中央に「真言二百萬遍」。左右に「戦勝祈念」「国家安全」の文字が刻まれています。光明真言を二百万遍唱えたのを記念して建立した供養塔・・そこに籠められた願いに頭を下げて・・

備前街道の一画に大切に祀られる「大師堂」。清掃の行き届いた堂内には、三体の地蔵様が座し、それぞれに香華が手向けられています。

この道を何処までも歩いて行けば、その先には私の故郷がある。そんな風に思うだけで、ここもまた「特別な場所」に思えてくる・・言葉の不思議。

彼方に見えるお城のような建物。何だろうと気になって尋ねたら、あそこは「愛宕公園」で、あの建物は「展望台」だと教えてくれました。

心地よい春風にその存在を主張する一叢の水仙に見送られて・・・さぁ、次の目的地は平家落人の隠れ里とも言われる山村集落。どんな素敵に出会えるのでしょう(〃∇〃)

訪問日:2012年4月14日

 

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智頭往来~Ⅰ~ in 鳥取県智頭町

2017年07月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取県智頭町智頭、JR智頭駅から徒歩で約10分。「智頭宿」は上方へと向かう主要道であった「智頭往来」の宿場町。智頭往来(因幡街道)と、備前街道が合流する地にあり、参勤交代で江戸へと向かう鳥取藩の最初の止宿(ししゅく)として栄えた歴史を持ちます。

宿場内には鳥取藩主池田公の祈願所として栄えた「諏訪神社」や、鳥取藩初代藩主:池田光仲の父:忠雄公の位牌が安置される「曹洞宗寺院:興雲寺」、往時を偲ばせる道標なども残されており、文化庁選定「歴史の道百選」にも選ばれています。

町歩きのスタートは、智頭往来に面して建つ「伊藤邸」から。

漆喰の土蔵に押された「陰陽勾玉巴紋」。歴史上最初に登場する家紋で、公家、武家の家紋の他に神社の神紋などに多く使用されます。が・・実際に個人宅のお蔵に見たのは初めて。

冒頭から〇〇家なんて書いてしまいましたが、振り返ってみれば実はそれぞれのお宅の表札を確認したわけでも無く・・・したがって半数以上が画像のみの紹介しかできない事に、今更気が付いた私(^^;)。

智頭宿における最も大きな建物の一つで、智頭往来に面して建つ、重要文化財「石谷家住宅」。敷地面積3000坪、建築面積641坪、部屋数40以上、土蔵は7棟を数えます。石谷家は屋号を「塩屋」と称した近世以来の商家で、明治以降は山林地主として栄えてきました。

鳥取藩主の参勤交代の時、殿様は御本陣に宿泊。随行の上級武士は石谷家を宿泊所として使用していました。この画像だけでは想像もつかない贅と粋を凝らした部屋の数々・・普段着では抵抗ありすぎて敷居を跨げません(笑)

家の格式を表すために造られた「武家風の式台(総欅造り)」。参勤交代の宿泊客を受け入れる際には、ここが本玄関として使用されます。

端から端まで画像に収まりきらない・・・(-"-) ここまで凄いと「羨ましい」とか「凄い」とか、そんな庶民的感情はどこかに吹っ飛び、とにかく「ほぉ~~~」と眺めるだけ(笑)

三間一戸薬医門の形式の堂々とした佇まいを見せるのは、国登録有形文化財「米原(よねはら)家住宅上門」及び「塀 」「控柱を表側に立て、両脇にのびる塀の起点とする。屋根は切妻造桟瓦葺で棟の輪違積に十字紋をあしらう。両開板戸には大振りな八双金物を打ち、天井に幅広の隠岐スギを使う豪壮な門塀で、往来の景観を整える。」文化遺産オンラインより

智頭往来と備前往来の交差する角地に建つ「米原(よねはら)家住宅・主屋」「桁行一二間梁間七間と大規模で、屋根は入母屋造桟瓦葺で四周に下屋を廻らす。外壁は黒漆喰塗、腰はモルタル洗出で破れ目地を切り、出格子を連続させる。」文化遺産オンラインより

忍びの者を気取るご亭主殿・・いやいや、全く忍べていませんが(-"-)

国登録有形文化財「旧塩屋出店」。石谷家の分家として再建された戦前の建造物。商家風町家は1897年頃の建設とされ、他に西洋館、和風庭園、塀で構成されています。

「旧塩屋出店」と、先の「米原家住宅」との間にある門を潜ると、右手に米原家の母屋と庭園。

書院造の母屋、和風庭園に面した座敷は「喫茶・お食事処 海彦山彦」として活用されています。

庭園の奥に見える白い壁の洋館は・・

四代目当主:嫡子の結核療養施設として1930年頃に建築された洋館。現在は智頭町出身で「絶唱」などを監督した『西河克己』記念館として公開されています。

絶唱と言うと確か舟木一夫のヒット曲・・「大江賢次の原作を西河克己が脚色・監督した純愛名篇。企画主演は舟木一夫。薄幸のヒロインに和泉雅子。智頭町をロケ地とし、昭和41年(1966)9月17日に公開されました」。美男美女のカップルには及びませんが、係りの方が記念に一枚とシャッターを押してくれました。

見所の尽きない智頭町、明日に続きます。

訪問日:2012年4月14日

 

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ご当地マンホール in 鳥取県智頭町

2017年07月26日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・鳥取県

八頭郡智頭町(ちずちょう)は鳥取県の南東部に位置し、南と東は岡山県に接しています。町域の93%が山林で、周囲は1,000m級の中国山脈の山々が連なり、その山峡を縫うように流れる川が合流し、千代川となって日本海に注ぎます。智頭林業の植樹の歴史は、350年以上といわれ、町内には「慶長杉」と呼ばれる樹齢300年以上の人工林が残り、吉野・北山に並ぶ歴史ある林業地として、全国的にも高い評価を受けてきました。

鳥取砂丘の砂を育んだ源流の町であり、また鳥取藩の宿場町で「智頭宿」でも知られています。「町の花:どうだんツツジ」「町の木:杉」を制定。

沖の山に源を発する千代川。清らかな流れに沿う1.3kmの桜並木は、まさに春爛漫の彩。

キャッチフレーズは「みどりの風が吹く 疎開のまち 鳥取県智頭町」

明治22年(1889)、町村制の施行により、八頭郡智頭村・山形村・那岐村・土師村・富沢村・山郷村が発足。

1914年、智頭村が町制を施行、八頭郡智頭町となる。

1935年、八頭郡山形村・那岐村・土師村を編入。

1936年、八頭郡富沢村を編入。

1954年、八頭郡山郷村を編入、現在に至ります。

マンホールは全体に町章をデザインし、上に「町の木:杉」、下に「町の花:ドウダンツツジ」がデザインされています。

「満天星(どうだんつつじ)」

昭和37年(1962)3月24日制定の町章は「智頭町の頭文字「チ」と杉を円形に図案化したもので、町民の融和と町の円満発展を表徴し、突起する三角形は、主産業である林業の飛躍的発展を意味しています。また中の空白は、鳥取県の文字「と」を表しています。」公式HPより

耐震性防火水槽

智頭町マスコットキャラクター『紅子ちゃん』。ドレスは町の木・杉。頭は町の花・ドウダンツツジで出来ています。仲良しの『杉太くん』はそのまんま、杉の男の子。

木材の町らしい、木の香漂う「智頭町観光案内所」

智頭宿観光駐車場の「顔出し」に友情出演中の二人。

西日本旅客鉄道・智頭急行「智頭(ちづ)駅」。なぜかフリガナは「ず」でなく「づ」・・不思議(^^;)

町役場近く、昭和62年の歌会始に選ばれた『大谷照子』さんの歌碑、お題は「木」。

【 幾十年 かけて育てし杉の木を 伐り給ふなり 嫁ぐわがため 】

撮影日:2012年4月14日

 

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旧根雨公会堂~根雨町歩き in 鳥取県日野町

2017年07月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

江戸時代、参勤交代が交差する地で、出雲街道の宿場町として栄えた「根雨宿」。根雨の町並みには参勤交代の大名が泊まった「本陣の門(日野町指定有形文化財)」が現存しており、往時の面影を今も濃く残しています。

ただ何気なく歩くだけなのに、旅人気分を味合わせてくれる町並み。この何とも言えない「ウキウキ感」が町歩きの醍醐味なのですが・・

根雨の町歩き一番のお目当ては、たたら製鉄による鉄山経営で財を成した近藤家の屋敷。現在は「日野町歴史民族資料館」として町の歴史などが展示されています。

国登録有形文化財に指定された建物は、昭和15年(1940)、たたら製鉄で財を成した近藤家の七代当主・近藤寿一郎氏が「根雨公会堂」として根雨町に寄贈。

正面・側面の上部には、根雨の「ネ」と文化の「文」を組み合わせたシンボルマークを配置。

日野地域の文化の殿堂として存在していた当時の姿を今に伝えるものとして、根雨宿の人気スポットとして紹介されています。

「昭和58年5月に国道180号下菅地内の道路拡張工事中、藪津橋下流東側の水田より発見された。この石は坊主石(ぼうずいし)といわれ、江戸時代末期のたたら炉床の基礎となった石である。現在、郡内で確認されているものは日野町にある2個のみで、非常に希少価値の高いものである。また、この炉床は同一地点でたたらの施設を作りかえたもので、県内でも例がなく歴史的価値の高いものである。現在は、国道下に埋め戻し保存されている。たたらの名称 才ノ原たたら跡」現地案内原文

出雲街道:根雨宿の一角。切妻作りの玄関は、かって旅館業を営んでいたのかしら?傍らのショーケース下には「こばた(煙草)」の文字。

「旧雲陽実業銀行根雨支店」が建てられたのは昭和4年(1929)。二年後に「松江銀行根雨支店」、昭和16年(1941)に現在の「山陰合同銀行根雨支店」になりました。

1996年には鳥取県の「県民の建物100選」に選定された「山陰合同銀行根雨支店」。歴史の遺産ともいえるこの佇まいが、この先も大切に残される事を願ってやみません。

で・・突然ですが(笑)町歩きはここまで(-"-)、実はこの時、街道筋の向こうにある「島根銀行」の屋根が強風で剥がれかけたとかで、通行禁止になっていたのです。

丁度、本陣の門の辺りでゲートが作られ、優しそうな婦警さんが立ち番をされていました。「折角、遠くから来たのに残念でしたね」と言ってくれましたが・・・・ええ、本当に!!。それでも「山陰合同銀行根雨支店」の写真を撮る事を許可して頂けて、本当に有難かったです。御亭主殿、大急ぎで行って、何と3分以内で帰ってきました(笑)

訪問日:2012年4月22日

 

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金持(かもち)神社 in 鳥取県日野町金持

2017年07月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

日野町金持に鎮座される「金持(かもち)神社」。御祭神は『天常立尊(あめのとこたちのみこと)、八束水臣津奴命(やつかみずおみつのみこと)、意美豆努命(おみずぬのみこと)』

「弘仁元年(810)伊勢の神宮御遷宮に向けて、出雲国薗妙見宮の神官の次男が出発するにあたり、「道中安全の為」と玉石を御守神として袋に入れて旅をした。金持の地まで来たときに玉石袋が急に重くなり、どうすることもできずその場において伊勢に急いだ。時を同じくして、梅林家先代の吉郎左衛門に宮造りをするよう神夢があったことで、この玉石を金持の氏神として崇め奉ったと伝える。」公式HPより

往古より「三体妙見宮」と称し明治六年に「金持神社」と改称、大正四年「野々尾神社(天香語山命)」を合併。

眼前に延びる長い石段・・折れて曲がってさらに石段

石段参道半ばより神域を守護される出雲構えの狛犬さん一対。こんなに穏やかなお顔の出雲構えさんは珍しい。

境内には鳥取県銘木100選中で樹齢600年位と云われる「サワラ」「チャンチン」の2本があります。「サワラ」は神社遷宮の際に屋根のコワ材として利用する為に植えられたと考えられています。

御神木の傍ら、狛犬さんと一緒に神域を守護されている神狐さん一対。稲荷の社も無いし、御祭神の中にもお出にならないのに何故神狐さんがおいでなのか不明。傍らの出雲構えさんにも増して穏やかで優しい顔立ち。

鳥取県銘木100選の「チャンチン」はセンダン科の薬木で、その実が目薬に用いられる事から、先人が鉄生産の予防薬として中国より取り寄せたものと考えられています。 県内でチャンチンの木は、この1本しか確認されていません。

なんとか辿り着いた拝殿

拝殿前左右より神域を守護されるのは、綺麗に足をそろえてスラリと座す穏やかなお顔の狛犬さん一対。赤い前垂れがこんなに似合う狛犬さんも珍しい(〃∇〃)

拝殿内には『濱田珠鳳』氏が2003年に奉納された「指画龍神之図」

「金持」と言う縁起の良い地名は、全国を探してもここ日野町にしかありません。かつて、この地は昔人が「黄金にもまさる」と大切にした鉄の産地でした。狩山(アサカリ)、野谷山(ノダニ)、平畠山(ヒラバタケ)と言う三つの鉄山があり、これらの鉄山を持つ村と言う意味で「かなもち」と言い、それが略されて「かもち」となったと言われています。」拝殿掲示板より

「宝くじが当たりました」「宝くじが当たりますように」そんな嬉しい報告や願いがぎっしりと書き込まれた絵馬。おそらく手書きと思われる図柄の多彩で可愛い事。

境外、社務所近くに展示されていた金持礫岩:金持地区に少量その分布が認められ、中生代白亜紀(約1億年前)にできたと考えられる。しかしこの岩石には、それよりも古い時代の花崗岩や変成岩などの岩石が礫として存在し、礫以外の部分(基質)を火山性の物質が占めている事から火山活動によってできたと考えられる。地質学的に謎に満ちた貴重な岩石である。」公式HPより

「金持党発祥之地:鳥取県日野町金持は、全国に広がる金持一族発祥の地である。古代、鉄を産したことにより当地は「かもち」と呼ばれ「金持」の漢字があてられた。~中略~ 金持党の末裔は転地先にてその名字を残している。金持の地を離れたことにより、読み方は「かなじ」「かなもち」「かねもち」などに変わったが、多くはここ金持党の末裔である。金持党誕生以来九百余年、その本貫であるこの地に碑を建立するものである。」

参拝日:2012年4月22日

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御神名一口メモ

『天之常立神(あめのとこたちのかみ)』、天の永久性を象徴する神。高天原(たかまがはら)につねに存在し、「国常立尊(くにのとこたちのみこと)」と対になる神。

『八束水臣津奴命(やつかみずおみつのみこと)』、国引きを行った神。出雲の開闢神・島根と出雲の名づけ親。須佐之男命の子孫、大国主命の祖父。

『意美豆努命(おみずぬのみこと)』、国引きを行った神。出雲の開闢神・島根と出雲の名づけ親。須佐之男命の子孫。

『天香語山命(あめのかごやまのみこと)』=『天香山命(あめのかぐやまのみこと)』、天照太神の曾孫神。饒速日尊と天道日女命との間に生まれた神。尾張氏等の祖神。

 

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ご当地マンホール in 鳥取県日野町

2017年07月23日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・鳥取県

日野郡日野町(ひのちょう)は鳥取県西南部に位置し、岡山県と境を接する町です。戦国時代には尼子・ 毛利両氏の戦場となり、徳川時代初期には、関長門守が黒坂に城下町を形成。藩政時代には、福田氏による自分手政治が行われ、新田開発などによる農業の生産拡大がはかられました。また、山砂鉄の採取とたたら製鉄は、明治時代に近代製鉄が台頭するまでこの地域の重要な産業として発展してきました。「町の木:杉」「町の花:ツツジ」「町の鳥:おしどり」を制定。

キャッチフレーズは「おしどりの住むまち」

木造の古い駅舎が郷愁をそそるJR西日本伯備線「根雨(ねう)駅」

明治22年(1889)、町村制の施行により日野郡菅福村・黒坂村・渡村・安井村・根雨村・ 真住村が発足。

1913年、渡村・安井村が合併、日野郡日野村が発足。黒坂村・菅福村が合併、改めて日野郡黒坂村が発足。 根雨村・真住村が合併、日野郡根雨町が発足。

1936年、黒坂村が町制を施行、日野郡黒坂町となる。

1953年、根雨町と日野村が合併、日野郡根雨町が発足。

1959年、根雨町と黒坂町が合併、日野郡日野町が発足。現在に苛ります。

マンホールには町章と、「町の鳥:オシドリ」「町の花:ツツジ」、「大山の山並」が描かれています。

「鵜の池公園」カラーパネル

昭和35年(1960)4月30日制定の町章は「日野町の「ヒノ」を図案化。鳥は鳥取県を表し、翼は躍進、円は町民の協調を意味し、町の限りなき前進と発展を象徴します。」公式HPより

日野町金持地区に鎮座する「金持神社」カラーパネル

撮影日:2012年4月22日

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一口メモ

「自分手政治(じぶんてせいじ)」、江戸時代、鳥取藩が藩内統治の一環として家老職にある家に藩内の重要な拠点の町を委任統治させたこと。 「自分政治」ともいい、 寛永9年(1632)8月、国替えで岡山から池田光仲が鳥取城へ移った年から実施され、明治2年(1869)に廃止されるまで約240年間続いた。

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御湯(みゆ)神社 in 鳥取県岩美町岩井

2017年07月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

岩美町岩井に鎮座される「御湯(みゆ)神社」。御祭神は『大己貴命・八上姫命・御井神(みいのかみ)・猿田彦命。』

「創建は弘仁2年(811)、岩井温泉を発見した『藤原冬久』が温泉の守護神として勧請したのが始まりと伝える。当初は大野台地に鎮座していたが、大野地区の集落が衰退し祭祀に支障が生じてきた為、宝暦2年(1752)、同地区の「伊勢宮(猿田彦命)」と合祀し現在地に遷座。江戸時代中期以降は「伊勢宮」と称したが、明治時代に旧社号「御湯神社」に復した。湯の町岩井の守護神である「御井神社」の「みい」が転訛り「みゆ」となり御湯の文字をあてて「御湯神社」と称するようになったものと思われる。」境内案内より

参道正面に入母屋、銅板葺、妻入向拝付の拝殿。外壁は素木板張りで、美しく秀麗な姿。

拝殿に続く本殿は一間社流造。銅板葺で外壁は拝殿と同じく素木板張り。

拝殿右手の境内には本殿と同様の流造、銅板葺の稲荷社が鎮座し、神狐が控えています。

境内の一画に残されている『平 教経(のりつね)』「矢研石」。平清盛の甥で「王城一の強弓精兵」と呼ばれた武将。平家物語では「源義経」の好敵手的存在として描かれています。

かってこの境内地には郡内一と称されるほど多くの巨木・古木が生い茂っていたと言います。しかし、昭和50年ごろに「松くい虫」の被害にあい、樹齢数百年の古木も切り倒されてしまいました。

境内地の「松魂慰霊碑」は、そうした古木の魂を慰める為に建立されたのでしょう。

慰霊碑の近くに置かれていた出雲構えの狛犬さん。ここで松の魂を守護されていたのでしょうか?吽形さんは、頭部と僅かに体の一部を残しただけ。緑の苔に身をゆだね始めた阿形さんは、精悍な良いお顔でしっかりと台座を踏みしておられます。

参拝日:2016年10月20日

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御神名一口メモ

『御井神(みいのかみ)』、井泉・井戸の神。別名「木俣神(きまたのかみ)」。大国主神と八上比売との間に生まれた子。

 
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