車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 三重県旧関町(亀山市)

2017年01月31日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・三重県

旧鈴鹿郡関町(せきちょう)は三重県の北西端、鈴鹿山脈の山裾に位置した町です。町の名は、古代からの交通の要衝として「伊勢鈴鹿関」が置かれた事に由来します。町の中心地区には江戸時代になって整備された「関宿」があり、大和街道・伊勢別街道への分岐点にある宿場町として栄えてきました。

関宿から見る冬の鈴鹿山脈

1889年(明治22年)、町村制の施行により鈴鹿郡関町・神辺村・白川村・坂下村・加太村が発足。

1955年、鈴鹿郡神辺村の12地区、白川村の5地区を編入。 鈴鹿郡坂下村、加太村と合併、改めて関町が発足。

1956年、加太一ツ家地区が阿山郡柘植町に編入される。

1958年、安芸郡芸濃町萩原・福徳地区を編入。

2005年、亀山市と合併、亀山市関町となりました。

マンホールには関宿を背景に、関町のキャラクター『アスレくん』が描かれています。(関まちなみ資料館の展示マンホール)

関町坂下地区集排マンホールには町章を中心に、「町の鳥:雉」「町の獣:鹿」「町の花:石楠花」、周囲に「町の木:杉」がデザインされています。

鈴鹿川に架かる「ふれあい橋」には、この4つのシンボルが美しくデザインされています。

雨で濁った鈴鹿川

昭和47年10月1日制定の町章は「頭文字である(セ)を図案化したものです。昔ながらの交通の要衝と伸びゆく発展を水平線で示し、円で平和と団結の町を象徴しています。」合併協議会資料より

防火水槽

仕切弁

空気弁

消火栓

側溝蓋

関宿周辺案内書

関宿:マンホール

五十三次 関の地蔵タイルプレート

お地蔵さんと旅人がモチーフの関町のイメージキャラクター『アスレくん』。名前の由来は「ア(明るく)ス(住みよい)レ(歴史の街)」「アスレ」。アスレの肩にとまっているのは町の鳥:キジ、笠につけているのは町の花:シャクナゲです。

撮影日:2011年4月10日&2015年9月6日

 

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亀山城址・亀山神社 in 三重県亀山市本丸町

2017年01月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

かって伊勢国鈴鹿郡亀山にあった「亀山城」、別名「粉蝶城(こちょうじょう)」。文永2年(1265)に伊勢平氏の流れをくむ『関実忠』によって伊勢国鈴鹿郡若山に築城され、その後、関氏の時代のうちに現在の位置に移されます。

天正11年(1583)には『蒲生氏郷』が城主となり、更に七年後の天正18年(1590)に『岡本良勝』が入城。この時、天守、本丸、二の丸、三の丸などの亀山城の母体となる城が形成されたと云います。江戸時代には伊勢亀山藩主の居城となり、寛永9年(1632)『三宅康盛』の代には天守が下ろされます。ところが、これが実はとんでもない間違い(^^;)。何と、丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた『堀尾忠晴』が、丹波国と伊勢国を間違えて伊勢国の亀山城にその命を伝えたんですね。その後の正保年間(1644~1648)『本多俊次』が城主の時に天守跡に現在の多門櫓が建てられました。さらっと書き飛ばしましたが、国名を間違えた堀尾氏はその後どうなったんでしょう??? ああ、ちなみに丹波亀山城の天守は明治の廃城令が出るまで現存していたようです。

東海道の要衝であった事から、何度も何度も城主が変わった亀山城。やがて石川氏の代に幕末を迎え、明治6年(1873)の廃城令によってほとんどの構造物が取り壊されました。今は天守台・多聞櫓・石垣・堀・土塁など一部を残すのみとなりましたが、三重県下において多聞櫓が現位置のまま残る唯一の遺存例である事から、昭和28年に県史跡に指定されました。

平屋建白壁の塗込で屋根は入母屋造り、東西北の三方に破風があり、平時は武器庫として利用されていた多門櫓。

内部の見学が出来ると聞いていたのですが、土日祝のみ・・残念ながら櫓の入り口は閉ざされたまま。

亀山城本丸で使用されてきた「与助井戸」「天正18年(1590)岡本宗憲による亀山城築城の際、この場所にあった民家「与助鍛冶」を城外に移したとの伝承から「与助井戸」と呼びならわされてきました。城外への抜穴伝説がありましたが、確認されていません。」

「飯沼慾斎(いいぬま よくさい)生誕之地」碑。江戸時代の医家で本草学者。スウェーデンの植物学者「リンネ」の植物分類法を最初に採用した「草木図説」を出版しました。

明治17年、近藤鐸山ら同志によって亀山城址に建立された「黒田孝富遺剣之碑」。

「亀山城楠門址」

「史蹟・明治天皇亀山行在所遺構・三重県」(市指定有形文化財)

明治13年(1880)7月10日~11日、『明治天皇』は大阪鎮台・名古屋鎮台兵対抗演習天覧のため行幸され、亀山の藤屋でニ泊されました。その折に玉座として使われた建物が亀山城跡地に移築されています。

江戸時代、南崎権現社の神官であった「大久保家の棟門」(市指定文化財)。かって亀山西小学校の裏門として使われていましたが、後にこの地に移築されました。

本丸跡に鎮座される「亀山神社」。御祭神は『源義家公・源義時公・石川義純公』

鳥居の両脇より神域を守護されるのは、浪花系狛犬さん一対。雨の下と言う悪コンデションながら、とても良いお顔をされています。

「拝殿」、御朱印をと喜んだJさんですが、呼びかけに答えてくれる方はおいでになりませんでした。

明治32年(1899)10月1日、心形刀流剣術:亀山演武場の門人たちによって亀山神社境内に建立された「山崎雪柳翁遺剣之碑」。表碑文は西郷従道

「亀山演武場」

 

亀山公園として整備された楠門跡に展示されていた「蒸気機関車 C58359号」

「JA3015」

生憎の雨で足場が悪く、石垣や土塁などをじっくり見て回る事が出来なかったのは残念ですが、始めから終わりまで三人だけの貸し切り状態。まぁ、これはこれで良しでしょう(笑)

ラストの画像は亀山市野村3丁目。樹齢400年の椋の巨木がそびえ立つ「野村一里塚」。三重県下で唯一原形をとどめる貴重な遺構として、国史跡に指定されています。

訪問:参拝日:2015年9月6日

 

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亀山八幡神社 in 三重県亀山市江ケ室

2017年01月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

三重県亀山市江ケ室に鎮座される「亀山八幡神社」、御祭神は『『品陀和氣命(ほむたわけのみこと)・帯中津比古命(たらしなかつひこのみこと)息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)』

由緒「文永2年(1265)関左近将監実忠、九州豊前国、宇佐八幡大神を奉斎し、羽若の地に勧請。時は経て、元和4年(1618)ここ江ケ室の現在地に御遷宮され、明治末に近隣に祭られていた稲荷社、愛宕社、山神社、他合祀され現在に至る。当社は古来、亀山城下の守護神として厚く崇敬されると共に、応神天皇の御母である神功皇后さまは母子神としても限りない慈しみと深い愛情を注がれ、信仰される神さまとされている。又、神紋である「向い鳩」は、平和と家内安全の象徴として慕われている。」

参道、二の鳥居

二の鳥居前より神域を守護されるのは、大正五年一月建立の浪花型に近い狛犬さん一対。吽形さんは仔狛を、阿形さんは毬に手を置き、何故か大笑い(笑)

親狛の手に縋りながら参道を見やる仔狛さん。なかなか気の強そうな顔立ちで、こちらも将来が楽しみ(⌒∇⌒)

木製の三の鳥居と拝殿

広い境内と拝殿

御本殿

崇敬の篤さを思わせる奉納燈籠の数々

石鳥居の笠木と島木の部分と思われますが、何故ここに在るのか不明。

満開の山桜が美しい。

参拝日:2011年4月10日

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『品陀和氣命(ほむたわけのみこと)=応神天皇』、『神功皇后』の子。仲哀天皇の第四皇子。

『帯中津比古命(たらしなかつひこのみこと)=仲哀天皇』、『日本武尊』の第二子で『神功皇后』の夫。

『息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后』

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 三重県亀山市

2017年01月28日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・三重県

亀山市(かめやまし)は三重県北中部に位置する市です。東は鈴鹿市、西は伊賀市、南は津市、北は県を跨いで滋賀県甲賀市に林セル。市内の北西部には鈴鹿山脈が、南西部には布引山地が連なり、市域の半分以上が山林で占められています。江戸時代には伊勢亀山藩の城下町として、また、東海道鈴鹿峠東側の宿場町として栄えてきました。「市の木:杉」「市の花:花菖蒲」を制定。

亀山市田村町に鎮座される「能褒野(のぼの)神社」には伊吹山で深手を負われて薨去された『日本武尊』が祀られており、亀山駅前に面して一の鳥居が建立されています。

キャッチフレーズは「豊かな自然・悠久の歴史 光ときめく亀山」

1889年(明治22年)、町村制の施行により鈴鹿郡亀山町・槇尾村・昼生村・井田川村・川崎村・野登村が発足。

1908年、鈴鹿郡槇尾村と合併、改めて亀山町が発足。

1954年、鈴鹿郡昼生村・井田川村・川崎村・野登村と合併、亀山市が発足。

1954年、亀山市小田町・和泉町・西富田町・中富田町が鈴鹿市に編入。

1955年、鈴鹿郡神辺村の一部・白川村の一部を編入。

1957年、鈴鹿郡鈴峰村大字原字能褒野を編入。

1958年、安芸郡芸濃町大字楠平尾の一部を編入。

2005年、(旧)亀山市、鈴鹿郡関町が合併、新・亀山市が発足。

マンホールには、「亀山城址」と「市の花・ハナショウブ」がデザインされています。

「亀山城址」の旧東海道観光プレート

亀山城多門櫓

観光協会記念スタンプ「東海道53次46番目の亀山宿」 

2005年に合併した旧関町のマンホール、上記に「かめやま」の文字が入りました。

旧関町集排マンホール。「町の鳥:雉」「町の獣:鹿」「町の花:石楠花」、周囲に「町の木:杉」のデザイン。自治体章が亀山市に変わりました。

2005年3月31日制定の市章は「新市の特徴である豊かな自然や歴史文化を守り、さらに高めていく姿を大きな山並みとして表し、曲面(ウェーブ)はときめく都市の限りない発展を意味する。」公式HPより

消火栓

仕切弁

市章付き側溝蓋

昭和29年11月30日制定の旧町章は「「カメ山」を図案化。天、地、人三体の配合は市運の上昇飛躍発展を意味し、全体の円形は円満和合の相を示している。」合併協議会資料より

旧亀山町時代の「止水栓 量水器」。自治体章が残された蓋はどんなものであっても、マンホーラーにとっては貴重です (⌒∇⌒)

駅前で見かけた、ご当地グルメ「亀山みそ焼きうどん」のシンボルキャラクター『かめみちゃん』。御亭主殿とJさんにリクエストされていたのですが、あちこち動き回っているうちにお店から遠~~~~く離れてしまって、食べる機会に恵まれませんでした(^^;)

撮影日:2011年4月10日&2015年9月6日

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2017年4月3日、第4弾として全国42自治体で50種類(累計151自治体170種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「亀山市」のマンホールカードは、「関まちなみ資料館」でいただけます。

2018年に設置開始されたマンホールには「関宿」と「アスレ君」がデザインされています。

「東海道五十三次の江戸から数えて四十七番目の宿場町として、参勤交代や伊勢参りの人々でにぎわった関宿。 そのまちなみを背景に、お地蔵さんと旅人をモチーフにして生まれた旧関町のイメージキャラクター「アスレ」を描いたデザイン蓋です。 アスレの肩にとまっているのはキジ、笠につけているのはシャクナゲの花です。 現在、旧東海道の宿場町のほとんどが旧態をとどめない中、関宿には江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町屋が200棟以上が残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。 往時の宿場の雰囲気を味わいながら、マンホールめぐりをお楽しみください。」

訪問日:2017年12月14日

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四郷(よごう)郷土資料館 in 三重県四日市市西日野町

2017年01月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

三重県四日市市西日野町、小高い丘陵の南斜面に建てられた「四郷(よごう)郷土資料館」。入館は無料ですが開館は土曜日だけ、外観のみの見学です(-"-)

「当館は、郷土の先人第10世伊藤傳七翁(元貴族院議員、元東洋紡績社長)が郷土への恩返しにと、大正10年(1921)に6万円(約1億)という大金を寄付し、三重郡四郷村役場として建造。 木造2階建て一部塔屋は3階建て、正面には車寄せ、中央には玄関広場。塔屋の最南端はらせん階段になっており、当時としては実にハイカラな村役場でした。建物は小高い丘陵の南斜面に建てられている為遠くからも眺められ「全国一の村役場」と謳われた村民自慢の建物でした。」

「時代の移り変わりとともに傷みも激しく取り壊しの運命にありましたが、地元住民の熱心な存続運動が実り、昭和57年2月、四日市市の有形文化財の指定を受け保存されることになりました。更に四郷を物語る歴史・民俗資料や文化財を収集し、旧役場とともに永く後世に伝えようと昭和58年11月3日「四郷郷土資料館」として生まれ代わりました。」公式HPより

百聞は一見にしかず、美しい建物に野暮な説明は不要という事で、玄関広場と正面車寄せ。

車寄せと塔屋

車寄せ部分の屋根

玄関

二階建て建物部分と一部三階建て塔屋

三階建て塔屋

建物背面北側

玄関広場の一画に展示されていた鬼瓦。仔細は不明(^^;)

「四郷郷土資料館」から一段高い場所に設置されていた、コンクリート造の「火の見櫓」。元々そうだったのか、それとも時代の背景が金属仕様を許さなかったのか・・いずれにしても、コンクリート造の「火の見櫓」と言うのは私には珍しい。

四日市市室山町にある「合資会社:旧笹野酒造 酒蔵」

500石に満たない極少量生産の笹野酒造。ここで生み出された酒は全国鑑表会金賞受賞の常連だったとか・・・残念ながら2008年3月31日をもって廃業されました。

訪問日:2011年4月10日

 

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日野(ひの)神社 in 三重県四日市市西日野町

2017年01月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

三重県四日市市西日野町に鎮座される「日野(ひの)神社」、御祭神は『伊邪那岐命・速玉之男命・予母都事解之男命(よもつことさかのをのみこと)』

「創建不詳。往古熊野三山よりの勧請を起源にして、明細に本宮・新宮・那智と記載され、創紀当初は熊野三照権現と称す。伊勢安国寺又同境内に在ったが、天正年間兵火にあい建造物は焼失。棟札に慶長二年(1597)有、江戸期再建。明治40年、近隣の無各社八社を合祀、日野神社と改称。」境内由緒より

御本殿

御本殿玉垣内より神域を守護されるのは、出雲丹後系の狛犬さん一対。来待石と言う素材は細工がしやすい分、堅牢さに欠けるという欠点があります。阿形さんのお顔はすでに表情を無くしている為、後姿の紹介です。

瓦材と思われる狛犬さん一対。大人しめの吽形さんに対して、まるで雄たけびを上げているかのような阿形さん。瓦材ゆえの自由さがこんな不思議な一対を生み出したのかも。

阿形さんの前足の間に隠れていた仔狛さん。その仕草は、やはり仔狛独特の愛らしさ。

拝殿玉垣よりご神域を守護される狛犬さん。実際には一対ですが撮影には適さない位置にあり吽形さんのみ。

「拝殿」

拝殿内より神域を守護される神殿狛犬さん一対。獅子のような毛並みと、真っ白い歯が薄暗い社殿内にひときわ鮮やか。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、昭和十六年三月「初老記念」の奉納。鈴昭和と呼ばれる招魂タイプの狛犬さん一対。

境内社「日野榮稲荷神社」

社殿左右より神域を守護される二対の神狐さん。

境内社「金毘羅神社」

拝殿前左右より神域を守護されるのは。昭和十九年三月 「初老記念」奉納の招魂社系狛犬さん一対。真横に向けられた吽形さんの引き締まった顔が・・良い (〃v〃)

摂社「山祇社」。御祭神は『大山積大神』

1993年5月24日、この地に鎮座。

「皇大神宮遥拝所」  「明治神宮遥拝所」

「靖国神社遥拝所」

これまでずいぶんと沢山の留め蓋瓦の獅子を拝見してきましたが・・これほどユニークな獅子さんは、滅多にお目にかかれるものではありません。膝頭を噛む獅子・・・一体何が有ったのかと問いかけたくなる秀逸さ。

獅子と言うにはあまりにも穏やかで可愛らしい笑顔。本殿玉垣内の瓦材狛犬さんもそうですが、こんなに素敵な細工瓦にお目にかかれて幸せです。

参拝日:2011年4月10日

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御神名一口メモ

速玉之男命(はやたまおのみこと)』、黄泉平坂で伊邪那岐が伊邪那美に別離宣言をした際に吐いた唾から生まれた神。

『予母都事解之男命(よもつことさかのをみこと)』、黄泉平坂の地を掃きはらった際に生まれた神。

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大宮神明社 in 三重県四日市市日永

2017年01月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

三重県四日市市日永に鎮座される「大宮神明社」、御祭神は『天照大神』。配祀『天手力男命・栲幡千千姫命・市杵島比売命・田心毘売命・高津比売命・品陀和気命・大山津見命・弥都波能売命』

由緒「創祀不詳、礼伝によると第11代垂仁天皇の御代、皇大神宮が 伊勢にお遷りになる時に岡山の庄陵地に一時お留りになったと伝え、この地に皇大神宮を勧請したのが創祀と考えられる。 永禄五年(1562)に舟付け明神として祀っていた神明社が焼失。東海道の傍らに遷座されたのが大宮神明社である。 江戸時代には神戸藩主本多家の崇敬をうけ、また神祇管領長上吉田家の参拝も数次にわたっている。明治40年に天白社、八幡社を合祀、明治41年には五社を合祀。公式HPより

一の鳥居奥左右より神域を守護されるのは、鼻の下のちょび髭がとってもダンディな(笑)大正6年建立の狛犬さん一対。台座から落っこちそうな前足も愛嬌があります。

鬱蒼と濃い影を落とす参道

「神明造の御本殿」

「拝殿」

拝殿屋根の留め蓋には、高く足を蹴上げる飾り瓦の獅子一対。

摂社「二柱大神社」。御祭神は『大巳貴命・少彦名命』。一名「永宮神社」とも称されます。

「二柱大神社」前より神域を守護されるのは、岡崎型狛犬さん一対。独特の口元が、昨日紹介した「鵜森神社」の狛犬さんとよく似ておいでなのは、もしかしたら同じ石工さんが生み出されたものかもしれませんね。

朱塗りの鳥居が美しい「摂社:稲荷社」。

社殿前より神域を守護される神狐さん一対。建立年は不明ですがそれなりの時代を経ているように見えます。

境内摂社「天神社」

「皇大神宮遥拝所」  摂社「山神社」

大木の根元に、摂社「靖国社」

迫力がありすぎる手水舎の吐水龍。今にも柄杓を一飲みにしてしまいそうで、手を出すのが躊躇われます(^^;)

参拝日:2011年4月10日

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御神名一口メモ

天手力男命(てじからおのみこと)、天照大神が隠れた天の岩屋の戸を手で開けた大力を有し、天孫降臨に従った神。

栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)、造化三神の一柱『高木神』の娘。『天忍穂耳命』の妻で、『天火明命』・『邇邇芸命』の母神。

市杵島比売命・田心毘売命(たこりひめのみこと)・高津比売命(たかづひめのみこと)、「宗像三女神」。記紀に於いて天照と素戔嗚の誓約で生まれた女神。宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神。

弥都波能売命(みつはのめのみこと)、神生みの終わりに生まれた、火を鎮める水神にして豊穣をもたらす農耕神。

 

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鵜森(うのもり)神社 in 三重県四日市市鵜の森

2017年01月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

三重県四日市市鵜の森に鎮座される「鵜森(うのもり)神社」。御祭神は『天照皇大御神・建速須佐之男命・菅原道真公』。御霊社に『浜田家四代』

由緒「慶長以後(1596~)万治以前(1658)、鵜森大明神として創立。天保8年(1837)御霊社を創設。文明2年(1470)に築城されたとされる浜田城があったところで、浜田城主の先祖といわれる俵藤太藤原秀郷(鎮守府将軍)や初代城主田原忠秀らを祀っている。明治42年4月16日に鵜森神社と改称した。」

『俵藤太秀郷』と言えば、滋賀県・瀬田の唐橋で大ムカデを退治した、あの武将。こんな場所でお耳にするなんて(*^^*)

絵馬に描かれているのは、社宝として保存されている「十六間四方白星兜鉢」。伝承では、秀郷が三上山のムカデを退治した際、褒美として龍神から贈られたものだそうです。

一の鳥居脇より神域を守護されるのは、昭和二年十二月建立の岡崎型狛犬さん一対。この上唇の波波が何と言うか・・・非常にチャーミング。

拝殿屋根の鬼瓦

留め蓋瓦の獅子一対。これだけの神獣さんに護られれば、怖いモノなんて何にも無いかも(笑) 瓦の神紋は田原家の家紋「三頭左巴」

朱塗りの鳥居は、摂社「田原稲荷大明神」。御祭神は『保食守・猿田彦守・大宮能売命(おおみやのめのみこと)』

「享保9年(1724)の明細帳に乗る境内社。最初は境内南東の位置にあったが安永8年(1779)現在地に移された。田原家の鬼門除けの鎮守社として旧境内社中の最古社と云い伝えられる。」パンフレットより

拝殿前より神域を守護される神狐さん二対。いずれも随分ときつい顔立ちで控えておられます。

社殿の屋根にいる留蓋瓦の神狐さん一対。狐と言うよりもイタチ系・・(^^;) なんて言ったら絶対に叱られそう。それにしてもご亭主殿・・何をどう見たらこんなアングルになるのか(^^;)

屋根の上に二対も留め蓋の神狐さんがいるなんて、しかも前垂れ付きなんて初めて見ました。

参拝を済ませてくぐる千本鳥居体中、心も体も朱色に染まってしまいそうな空間。

「皇太神宮遥拝所」

「包丁塚」

「手水鉢」

「鵜森神社資料館」

「四日市市指定記念物(史跡):浜田城址」浜田城は、文明2年(1470)に『田原孫太郎景信』の三男『田原美佐守忠秀』が築いたものです。その後、『藤綱、元綱』らがこの地を領しましたが、天正3年(1575)、『織田信長』の家臣『滝川一益』に攻められ落城しました。

「浜田城址」碑

「鵜森神苑」碑

空を染め尽くす満開の紅枝垂れ桜

参拝日:2011年4月10日

 

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すわ公園交流館 in 三重県四日市市諏訪栄町

2017年01月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

三重県四日市市諏訪栄町、諏訪神社に隣接する「諏訪公園」。もとは神社所有の「保光苑」という公園でしたが、明治40年に四日市市に移管。大正5年(1916)には「諏訪公園」と改称し、現在も市民の憩いの広場として親しまれています。

すわ公園の一角を占める建物は、伊勢電気鉄道株式会社の社長や四日市銀行の頭取などを歴任した実業家熊澤一衛氏が、昭和天皇のご即位記念事業として建設し、昭和4年(1929)の竣工後、図書2,000冊を添えて四日市市に寄贈した図書館です。

昭和20年6月18日の四日市空襲では、負傷した人たちを緊急収容するなど、病院として転用されていた時期もありました。

戦後、図書館として復活しましたが、昭和48年に新図書館の開館に伴い同51年から児童福祉施設「こどもの家」が設置され、現在にいたります。建物の両サイドに施されたレリーフは「うさぎの餅つき」。古来より日本では餅つきはハレの日の行事。そう、この兎たちは図書館の完成を祝って餅をついているのです。

そして図書館らしく中央には「2588」の文字が浮き出された本のレリーフ。
この数字は図書館が竣工された「皇紀2588年」を表しています。

天使が肩に捧げる水瓶。水は、多分下の牡牛の口から流れ出るようになっていたのでしょう。長い年月・・良くも無事でいてくれたもの・・・

建物の随所に見られる美しい意匠が、スクラッチタイルの外壁に彩を添えて見る者を魅了します。

このような建物が今も現役で使われている事に感動し、いつまでも在り続けて欲しいと心から願います。

桜と橘のレリーフが施された玄関ドア

ちなみのこの建物・・実は派出所なんです(⌒∇⌒)

そしてこれ・・・二階部分の用途は確認していませんが、下は公衆WC。

公園全体が図書館を中心としてまとまり、開放的な空間を生み出しています。

「すわ公園交流館」は2003年に国の登録有形文化財となりました。願わくばいつまでもこの美しい景色が残されますように・・・

満開の桜の向こうに鎮座される諏訪神社

境内社:政成稲荷神社近くに聳え立つ「誓之御柱」。昭和九年、五箇条のご誓文をもとに地元の篤志家によって建立されました。

一. 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ(政治を行う際に多くの意見を求めること、政治に関して、全てのことを会議で話し合って決めていく)

一. 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ(身分の上下に関わらず、心を一つにして国家を治め整えていく)

一. 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス(役人・武士・庶民まで身分の違いを超えて、それぞれの志を実現できるような社会を目指す)

一. 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ(古くからの悪い習慣を無くして、世界共通の正しい道理(国際法)に従う)

一. 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ(欧米の進んだ文明(智識)を求めて、国家を発展させる)

明治天皇が天地神明に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した五箇条のご誓文。黎明期の日本が対面しなければならなかった、国内外の諸事に対する心構え。私の母は「五箇条のご誓文」「教育勅語」を諳んじて、意味も解せない幼い私によく聞かせてくれたものです。

訪問日:2011年4月10日

 

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諏訪(すわ)神社 in 三重県四日市市諏訪栄町

2017年01月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

三重県四日市市諏訪栄町に鎮座される「諏訪(すわ)神社」。御祭神は『建御名方命(たけみなかたのみこと)・八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)』 昭和15年(1940)に新造された銅板製二の鳥居

由来「鎌倉時代初期の建仁2年(1202)に、信州の諏訪大社の御分霊をこの地に勧請し創祀されたと伝わる。四日市・浜田の総産土神として崇敬を集めた。往時は「正一位諏訪大明神」と呼ばれたが、明治の諸改革で明神号とともに廃された。明治6年(1873)県社になり「諏訪神社」と改称。昭和20年6月の四日市空襲で灰燼に帰すも、昭和26年に本殿等再建が成された。」公式HPより抜粋

鳥居の内より神域を守護されるのは「奉献 黒田長忠 安政三年(1856)」の銘を持つ狛犬さん一対。全体に丸っこい形は、いわゆる関西系でしょうか?

昭和26年再建の拝殿

御神紋は「諏訪梶の葉」

奉納御神馬の腹掛けにも同じく「諏訪梶の葉」の御神紋。

境内社「山津見神社」、御祭神は『大山祇神・天照大神・素盞鳴命・大物主命・応神天皇・倉稲魂命・大宮能売命(おおみやのめのみこと)・猿田彦命・大市比売命(おおいちひめのみこと)・加具都知命(かぐつちのみこと)・国常立尊(くにとこたちのみこと)』。明治41年に旧四日市・旧浜田地区四十八社を当社境内へ移転合祀。

「山乃神」碑

山津見神社前に架かる石橋の傍らに「堅磐(かきわ)橋」と刻まれた石柱。「明治四十年(1907)八月十二日起工 九月二十五日落之 以賽三十七八年役之戦功 石工生川卯吉」「奉献 三重軍人義会 四日市支部」とあり、日露戦争の戦果を記念して架けられた橋と思われます。」公式HPより

「政成(まさなり)稲荷神社」、御祭神は『倉稲魂命・大宮能売命・猿田彦命』。願い事の成就になぞらえ「まさなりさま」として親しまれています。

「浜田村の生川吉左衛門氏が嘉永6年(1853)6月に伏見稲荷神社の御霊璽を拝受して、屋敷神としてお祀りになられていたものを、万延元年(1860)2月12日に「正一位政成大明神」として当社境内に移遷されたものとされる。」

境内社「天神社」、御祭神は『菅原道真公』。左に「戎祠」、御祭神は『えびす神』。慶応元年(1865)に地元の豪商・田中武兵衛氏によって勧請したと伝えられます。

御神木「楠木」

社務所の屋根留め蓋、飾り瓦の獅子一対。

東海道に面して立つ一の鳥居。「大正15年(1926)、小菅剣之助氏によって建立。一見しては鳥居には見えませんが、左右に二基ある三輪鳥居流の脇鳥居の穴に貫を通すもので冠木鳥居とも言います。祭礼時に山車の練り込みの支障とならないようなつくりとしたのではないかと考えられます。」

境内の西口に立つ鳥居。昭和14年(1939)角田忠誠氏によって建立。

参拝日:2011年4月10日

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御神名一口メモ

『大宮能売命』、天太玉命の御子。天岩戸から新殿に移った天照大神に侍女として仕えたとされ、天皇八神の一柱。伏見稲荷大社で祀られる稲荷三神の一柱。

大市比売命』、大山津見神の御子。須佐之男命の妻で、大年神と宇迦之御魂神(稲荷神)の母神。

『国常立尊』、日本書紀では、天地開闢の際に出現した最初の神とされる。

 

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