車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

御薗(みその)神社 in 三重県伊勢市御薗町

2021年04月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

伊勢市御薗町王中島に鎮座される「御薗(みその)神社」。御祭神は『八柱神・宇迦之御魂神・大山祇神』。

境内には由緒の類は無く、神社庁のページにも記載がない為、詳細は不明。

正面入り口、鳥居の両脇より神域を守護されるのは、昭和5年12月建立の岡崎型狛犬さん一対。吽形さんは仔狛を、阿形さんは小さな玉を持っています。

石垣で組んだ一段高い場所に祭られる注連縄が掛けられた自然石。残念ながら説明が無く、祭神等は不明。

御薗神社境内にある四本の大楠の一つ。最大の楠は本殿の右側にあり、幹周り5.90m、樹高は24m。

境内の片隅に建立されていた道標。傷みを食い止めるためか角の補強がなされています。裏面「左 長屋 高向」「右 新開 神社」は、明治維新までの神領地4ヶ村「長屋村・高向村、新開村」の事であろうと思われます。

参拝日:2010年4月3日

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ふらり~二見の町歩き in 三重県伊勢市二見町

2021年04月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

二見と言うと反射的に「二見浦」、二見浦とくれば「夫婦岩」となるのですが、それだけで二見を紹介してしまうのは、いささか勿体無い気がします。訪れる人を収容する宿、記念の品や土産を並べる店、土地の名物を食べさせる店等々・・なんでもない風景の筈なのに思わず足を止めてしまう非日常が、二見のそこかしこに存在しています。

例えば「伊勢」と言えば「伊勢海老」。ちなみにイセエビは学名で決して伊勢市の伊勢では有りません。ですがイセエビ三大産地の一つで全国水揚げ量1位を誇っているのも事実。別名「志摩海老」とも呼ばれています。

海産物つながりで、伊勢志摩の海女さんが採って来た新鮮な貝料理を食べさせてくれるお店も沢山あります。捨てられるはずの貝殻も、工夫一つでりっぱな看板に😲

二見の代表駅である「参宮線:二見浦駅」。全面ガラス張りの駅舎は夫婦岩をモチーフとしており、1993年に建てられたそうです。

駅前の句碑は【宿日傘 借里てみやげの もの買ひに】冬嶺星

二見浦に向う途中の山の上に、えらく派手な建物を見かけたので、お安いコンデジさんに頑張ってもらって目一杯ズーム!。多分「伊勢・安土桃山文化村」の建物だと思う👀

路地から不意に現れる小さなお社は「茶屋庚申堂」。庚申様は農作・風邪などの神様。堂内には、江戸後期に茶屋組中により建てられた、緑色片岩の自然石の塔とニ体の石地蔵が収めらされています。

幾つかの家の軒先に、「蘇民将来子孫家門(そみんしょうらいしそんかもん)」と書かれたお札が下げられた注連飾りを見かけます。意味する物は、昔話とか佛説法などで説かれる、貧者の施し的な内容ですが「蘇民将来」が人の名前だった事にちょっと驚きでした。

人の気配が少しずつ消えていく町歩き。歩きやすくては良いのですが、殆どのお店が店じまいをしており、それはそれで物足りないのも事実😅

茶屋地区から二見浦に向かって歩いていると、打ち寄せる波の音が聞こえてきます。子供の頃に慣れ親しんだ潮の香りは、幾つになっても懐かしく、センチな気分にさせてくれます。今日は少々風が強く、そのせいで波音もたかく聞こえるのでしょう。

遊歩道に沿って歩いていると、右手に「賓日館」の入り口が見えてきました。皇族や要人の宿泊施設として明治20年(1887)に建設。現在は資料館として公開されています。建物は2004年3月に、三重県指定有形文化財に、2010年6月に、国重要文化財に指定されました。

おや、こちらの唐破風の正面玄関にも「蘇民将来子孫家門」の注連飾り。

二見興玉神社、参道入り口近くに建立されていた「中村九一」氏の献歌碑

【いつみても かわらぬ伊勢の二見岩 夫婦は仲良く くらせとゆふらん】

「契りの松」の側、寛政12年に二見浦の絵の賛として詠まれた本居宣長歌碑。 

【かはらじな 波はこゆとも 二見がた 妹背の岩の かたき契りは】

【月と日の 間の二見の あさぼらけ 松島十湖

最後は大好きな芭蕉さんうたがふな 潮の花も 浦の春

訪問日:2010年4月3日

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二見興玉(ふたみおきたま)神社 in 三重県伊勢市二見町

2021年04月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

伊勢市二見町江に鎮座される「二見興玉(ふたみおきたま)神社」。御祭神は『猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)・宇迦御魂大神=(豊受大神)』

海岸沿いに続く道は、「二見興玉神社」への参道。入口には神明鳥居が建立され、美しい日の丸が潮風を受けてはためいています。

特に境内の磯合にある「夫婦岩」は、沖合約700メートルの海中に沈む「祭神・猿田彦大神」縁の「興玉神石」を拝する神社であり、夫婦岩がいわゆる「岩門」であることは案外知られていません。

由緒によれば、御神体とされる「興玉神石」は『猿田彦大神』の化身とも、天孫降臨の際に大神が立たれた石とも伝えられ、宝暦年間に発生した地震により、夫婦岩の沖合約700mの海中に沈んでしまったと云われています。その為肉眼で見る事は出来ませんが、1960年のチリ地震による津波で水が引いた際一時的に姿を現し、その大きさは、東西216m・南北108mであったと言います。「興玉(おきたま)」とは、海中の神霊を意味する『澳魂(おきたま)』の別名。海底深く眠る神の依り代・・・・波の音さえも厳粛に聞こえる気がします。

夫婦石の周囲に屹立する岩にはそれぞれに、左から「獅子岩・烏帽子岩(通称蛙岩)・屏風岩」の名称がつけられています。

岩の前にちょこんと座っている「蛙」。ちなみに猿田彦大神の神使は蛙さん。神社参拝の後に神徳を受けた人々が神社の境内に蛙の塑像を献納するため、境内には様々な素材の蛙像が参拝者を出迎えてくれます。

「明治43年(1910)、猿田彦大神を祀る「興玉社(おきたましゃ)」と宇迦御魂大神を祀る「三宮神社(さんぐうじんじゃ)」を合祀したもので、その際に現社名に改称。興玉社の歴史は、夫婦岩に注連縄を張り、興玉神石の遙拝所を設けたのに始まるという。天平年間(729年 - 748年)、僧行基が興玉神の本地垂迹として「江寺(えでら)」を創建し、境内に興玉社を建てて鎮守社とし、後に現在の二見浦へと遷座した。」(Wikipediaより)

手水舎のうちより、仲良く並んで参拝者を出迎える蛙さん。ここでは吐水龍ではなく、吐水蛙なんですね😊

水をかけると願いが叶うと言わる「満願蛙」さんは水の中。但し書きがあるのは、多分吐水蛙さんと間違えられる事が多いからかも。

手水舎の隣に位置するのは「天岩屋」。神代の昔、太陽神である天照大御神がお隠れになり、世界が真っ暗になったという神話の舞台となった場所です。

拝殿の前には「天照大御神」を誘い出すために面白おかしく神楽を舞う「天宇受賣命」像があります。ストリップの元祖とも言われる神楽舞ですが、実際に石見神楽などにも取り入れられており、個人的には好きな演目です。

境内の一画に鎮座される「竜宮社」、後祭神は『綿津見大神(わたつみのおおかみ)』。海の神であり、転じて海・海原そのものともされます。

神域を守護されるのは海神の眷属とされる阿吽の龍一対。阿形は口中に宝玉を、吽形はがっちと爪を食い込ませて宝玉を握り締めています。

禊橋(みそぎばし)を渡った先の見晴所の一角に立つ「契りの松」。江戸時代、阿波国から伊勢参りに来た若い男女が、二見浦で塩垢離(みそぎ)を行うときに、着物を松の木にかけて結び 夫婦の契りと子孫繁栄を祈願したことから、「契りの松」と呼ばれるようになったと伝えられています。

最後は浜参宮鳥居の近くに奉納された「さざれ石」「千代に八千代に さざれ石の 巌となりて」・・君が代に詠われるように、細石は、小さな小石が何百何千と集まり、悠久の年月を経て凝固し巌となります。その意味さえも学ばず、国歌である君が代を敬えない者が、何故この国にしがみつくのか・・ 私にはその歪みきった精神構造が全く理解できません(理解したくも有りません)。

参拝日:2010年4月3日

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神宮徴古館・神宮農業館・宇治山田駅 in 三重県伊勢市

2021年04月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

神都の異名を持つ伊勢市に残された歴史的建造物。最初の紹介は伊勢市神田久志本町にあるルネッサンス様式の「神宮徴古館(ちょうこかん)」

第二次世界大戦末期の1945年7月、アメリカ軍の空襲により外壁を残すのみとなりましたが、1953年の第59回神宮式年遷宮を記念して修復。現在は、神宮崇敬の歴史や日本の文化を展示する「歴史と文化の総合博物館」となっています。

「設計は片山東熊・高山幸次郎で、煉瓦造に石貼仕上げとする端正な意匠の建物。平面は、中央ホ-ルとその奥の貴賓室、左右の翼屋を廊で繋ぐ構成になる。戦災後大改修されたが、外壁廻りは保存されている。」 ~文化遺産オンラインより

社殿建築の模型、式年遷宮の御神宝類等々、神宮を知る為には必見の博物館、できれば内部も拝見したかったのですが・・・・やっぱり時間が😔

1998年に国の登録有形文化財に指定された「徴古館」と同時期に、文化財に指定された「神宮農業館」。平等院鳳凰堂をモデルとした和洋折衷の建物はどこか懐かしく美しい佇まいを見せています。

「農業館」では、神宮と農業の係りを示すものとして、神嘗祭に奉納された皇居御田で作られた稲穂。香淳皇后ゆかりの生糸、繭などを展示。人間と自然の産物との関わりをテーマとした、日本最初の産業博物館となっています。

「元はロの字型の平面であったが,近年の移築で中央部の宝形屋根の望楼の左右に翼屋を配し、廊で繋ぐ前半部のみに縮小。外観は和風で,内部架構は洋風にまとめる優れた技量がうかがえる。設計は片山東熊。」~文化遺産オンラインより

同敷地内の「神宮美術館」は、1993年・第61回神宮式年遷宮を記念して建てられました。日本の伝統的な建築様式を踏襲しており、緩やかな勾配の銅板葺の屋根に、内装は素木を活かした現代建築。各分野の方々から神宮に奉納された作品を所蔵、展示しています。

御幸道路沿いに一際目を引くケヤキ造の大門。かっては徳川将軍家の祈祷師を務めた御師邸の門でしたが、1935年に神宮文庫の門として倉田山へ移築。『御師邸門』として1958年に伊勢市の有形文化財に指定。通称「神宮文庫の黒門」と呼ばれています。

参宮急行電鉄の終着駅として昭和6年(1931)に建設された「宇治山田駅」。間口120m、鉄筋コンクリート3階建ての外部壁面は、クリーム色のテラコッタ・タイルで装飾。スパニッシュ様式に仕上げられた駅舎は、2001年、国の登録有形文化財に指定されています。

お伊勢参りの玄関口として多くの観光客を迎える駅舎内には、そのものズバリ「お伊勢参り顔出し」。右は遷宮の際に新しい御正殿の敷地に敷き詰める「お白石」を奉献する「お白石持行事」の奉曳車。

いずれの地でも同じですが、文化財に指定された建物だけが素晴らしいわけではありません。長い歴史を生き抜いてきた建物は、その存在自体が既に素晴らしいものなのです。神宮外宮近くにあるレトロな木造三層楼「山田館」。深川の宮大工が最高の技術と感性で創り上げた建物は、今風の建物の中にあって、思わず足を止めさせる風格を備えています。

外宮参道の角に建つのは、明治創業の打刃物店「菊一文字金近本店」。「菊一文字」と聞くと、鎌倉時代初期の刀工、菊一文字則宗が鍛えた「沖田総司」の刀を思い出すあたり・・マニアックです😅。

伊勢・せきやの「参宮あわび」の大看板に思わず立ち止まって見上げ、改めてこうした諸々によって参道の景観が作り上げられている事を実感させられます。

訪問日:2010年4月3日

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猿田彦神社 in 三重県伊勢市

2021年04月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

宇治浦田に鎮座される「猿田彦神社」。御祭神は『猿田彦大神・大田命(おおたのみこと)』

「天孫降臨を啓行(みちひらき)された猿田彦大神は、高千穂に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を御案内した後、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)と御一緒に本拠地である「伊勢の狭長田(さながた)五十鈴の川上」の地に戻り、この地を始め全国の開拓にあたられました。そして、神宮第一の古典『皇大神宮儀式帳』等にあるように、宇治土公(うじのつちぎみ)宮司家の祖先で猿田彦大神の裔である大田命が、倭姫命の御巡幸に際して、猿田彦大神が聖地として開拓された五十鈴の川上にある宇遅(宇治)の地をお勧めし、そこに皇大神宮(内宮)が造営されました。そのため宇治土公家はその後、神宮において代々「玉串大内人(たまぐしおおうちんど)」という特別な職に任ぜられ、式年遷宮で心御柱と御船代を造り奉るなど、重要な役割を果たしてきました。」HPより

一の鳥居近くより神域を守護されるのは護国タイプ鈴昭和の狛犬さん一対。

「五瓜梅鉢」の御神紋を染め抜いた拝殿幕。後方には「さだひこ造り」と呼ばれる特殊な妻入造の本殿が続きます。

拝殿正面には昔の神殿跡を印し、方角を刻んだ八角の石柱があります。この場所は、昭和11年(1936)の御造営まで永く御神座のあった最も神聖な場所です。

猿田彦神社の本殿に向かい合うように鎮座される「境内社:佐瑠女(さるめ)神社」。御祭神は『天宇受売命』。天照大御神が天岩窟にこもられたときに神楽をされたことから、俳優(わざおぎ)、神楽、技芸、鎮魂の祖神とされます。

絵馬に描かれた「みちびきの舞」は、明治天皇の皇女・北白川房子様御参拝の時にお詠みになった御歌に作曲、振付をした猿田彦神社独自の舞いです。「さだひこの 御名いと高し 天くだり神代の昔 しぬびまつれば」

拝殿の後方に広がる「御神田(おみた)」では、毎年5月5日に豊作を祈って早苗を植えるお祭りが行われます。桃山時代の衣装をつけた植方が、のどかな田楽に合わせて早苗を植える優雅な「御田植祭」は、三重県の無形文化財に指定されています。

赤と土の色で構成された小さな祠は「猿田彦土中神社」とありましたが、説明では、神社ではなく美術品だとの事。中に入って戸を閉めると「土中絵画」なるものが見られます・・・が、凡人故なのか、良くわかりません😔

鳥居の手前にある池は、宇治土公家の産霊神がお宿りになるとされ、子宝に恵まれるという言い伝えから「子宝池」と呼ばれています。

子宝池の近くにある赤門は『宇治土公』家の正門として江戸時代初期に建築され、昭和46年に現在地に移築されたそうです。

この留蓋を飾る獅子が何と言うか非常に手が込んでいるのです。小さくて見え難いかも知れませんが、何と阿吽共に仔獅子を連れているのです。

これまでにも細工瓦の留蓋獅子は色々と見てきましたが、こうした仔連れというのは滅多に見かけることが無く、それだけにご亭主殿も大喜び。

参拝休憩所横に建立された『本居宣長』歌碑は、寛政11年(1799年)に本居参宮の時、宇治土公家に逗留し、定津神主に贈ったもの。

【神世より 神の御末とつたへ来て 名くはし宇治乃 土公わが勢】

裏参道入り口より神域を守護されるのは、昭和36年建之の浪速型の狛犬さん一対。それほど古いものではありませんが、強面すぎるきらいはあるものの、良いお顔をしておいでです。

参拝日:2010年4月4日

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おかげ横丁~其の二 in 三重県伊勢市

2021年04月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

何所を見ても遊び心満載。見るのも、買うのも、食べるのも「おかげ横丁」ならではの楽しさに、ついつい制限時間を忘れてしまいます😅

食べると言えば「伊勢うどん」。お伊勢参りで混み合う客を、次々さばく為に考案されたと言われていますが、本当のところはどうなんでしょう?。ほんのりと甘みがある真っ黒なたまり醤油のたれに、太いうどんがよく合います。

食べると言えば・・暑い日だった所為もあるのでしょうがスティック胡瓜が人気らしく並べる側から売れていきます。胡瓜の浅漬けに割り箸を差したもので、甘いアイスよりも口当たりが良いのかもしれませんね。

伊勢の名物なら一通りは揃うと思われる「おかげ横丁」。ここでは綺麗に絵付けされた亀山ローソクが売られています。綺麗なんだけど・・・使い道が無いのが残念。ローソクだから停電の時とか・・とんでもない!!勿体なくて火なんか点けられません。

伊賀の組紐で作られた帯締め、どれも締めやすそうで素敵ですが、これ以上増やしてどうするんだ?という事で、目の正月で我慢😔。

お伊勢さんといえば『天照大御神』、それに付きものなのが天岩戸・・とくれば『天鈿女命』。「伊勢の地に百年、風月に色あせた”お多福”と共に、岩戸屋は今も昔も内宮前」の言葉通り、色あせた”お多福”さんの看板が良い雰囲気。

ちなみにお多福さん=『天鈿女命』。で、こちらでは神宮のお札(剣祓)を模った「お多福印生姜糖」が人気だそうです。

おかげ横丁にきたら絶対に立ち寄ってしまう「吉兆招福亭」。それはもう何を外してもこのお店だけは!!と、このキュートなお猫様、私の心を鷲づかみ😍

店内には数え切れないほどのお猫様が、もうこれでもかと言うくらい「おいで、おいで」と招いてくれるのですが、それがまぁ、いちいち可愛いったらありゃしない!!

これを全部飾ることの出来るスペースが欲しい!!、でもまずはこのお値段を見て、笑ってお財布を取り出せる財力が欲しい!!😅

そんな切実な願い事、お悩み何でも叶えてくれ・・・そうもない😔「御猫様大明神」。何たってお猫様、いつでもどこでも自分ファーストで良いのよ~。

「吉兆招福亭」の向かいは、看板の巨大な「煙管(きせる)」が目印の「つぼや」。煙草と宝くじを販売しており、刻みタバコを詰めた「煙管」で一服できると言う事で、結構な人数の方が順番を待っていました。禁煙してすでにタバコの臭いも辛くなった二人には縁の無いお店。

宝くじ売り場の軒の上では、まねき猫ならぬ「眠り猫」、ほら、果報は寝て待てって言うでしょう。

看板娘ならぬ、看板ニャンちゃん、そういう事なので寝転んで、福を待ってます。う~~ん、人目が無ければ一緒に寝転びたいぞ!!

隅から隅まで見ていけばどんなに時間が有っても足りない「おかげ横丁」ですが、今は主流から外れてしまった感のある「おはらい町」も中々に捨てがたいのです。

おはらい町の一角を占めるのは、室町時代の創建とされる「旧:慶光院」。1869年の神仏分離、廃仏毀釈の風潮によって、その他100ヶ所以上の寺院とともに廃寺となり、その後、伊勢神宮によって買い取られ、明治5年(1872)に神宮司庁の庁舎、明治23年(1890)には、神宮祭主職舎となりました。

訪問日:2006年11月5日&2010年4月4日

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おかげ横丁~其の一 in 三重県伊勢市

2021年04月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

「江戸時代、伊勢神宮には全国から多くの人々が参拝に訪れていましたが、第二次世界大戦後はモータリゼーションの発達やレジャーの多様化により、このおはらい町に立ち寄る参拝客は激減し、次第に町は衰退していきました。 しかしながら、昭和54年、この町の衰退を危惧する(株)赤福は、住民有志や市・県と共に、おはらい町の電線の地中化や石畳への再舗装など、伊勢の伝統的な町並みの回復に取り組みました。さらに(株)赤福は、平成5年におはらい町の中程の一角に「おかげ横丁」を開業し、内宮鳥居前町らしい賑わいを取り戻しました。」おかげ横丁HPより

伊勢特有の町並みである妻入の建物や、伊勢河崎の蔵などが忠実に再現され、今では、お伊勢参りとは切っても切れない観光地として重要な位置を占める「おかげ横丁」。私たちも2006年にバイクタンデムで一度、そして今回は車中泊での訪問です。

「赤福」によって作り上げられた町並みの建設費用は約140億円。これは1990年当時の赤福の年間売上高とほぼ同額ながら、行政から補助金を受ける等は一切せず、全て自己資金で賄ったと言います。

五十鈴川に架かる新橋のたもとは、いろんな意味で絶好の撮影ポイントなのですが、その主な理由となるのが右手前の建物!

切り妻入りの重厚な店の前は大勢の客で混みあっており、赤福独特の甘い餡の香りが店のまわりを包むように漂っています。これは・・・甘党ならずとも素通は難しいかも😅

「伊勢らしい切妻屋根は間口を広げるために高くし、正面に掲げた横書きの大きな看板には金色で赤福の二文字。妻入りの軒先にかかる海老茶色ののれんをくぐると、朱塗りの釜戸から、湯気が立ち昇っています。」公式HPからの抜粋ですが、そのまんまの情景が展開されています。

こちらは新橋から見下ろした「赤福」の屋根ですが、まるでジグソーパズルの題材になりそうな甍の波。幾何学的でとても美しい情景です。

甍といえば細工瓦、おかげ横丁で見つけたのは「三猿」。何だ「三猿」なんて珍しくないと思ったあなた!そう、そこのアナタ😠 なんと、ここでは見て・聞いて・おしゃべりもする猿さんなんですよ!!

細工瓦の定番は何と言っても恵比寿ダイコク。モミジの細工は屋号か販売品に関係しているものでしょうか?後ろで大黒様がにこやかに往来を見守っています。

恵比寿様はおいでになりませんが、波間から顔を出した大きな鯛が勢いよく跳ねています。

お客様のお越しを心よりお待ちしております・・と、深々と頭を下げるのは「福助さん」。ご自慢のおでこにお日様が当たって光ってますよ~😄

「不苦労」 「福籠」 「福老」 ・・・語呂が同じという事で縁起が良いとされる「ふくろう」。屋根の上では細工瓦のフクロウさんが往来を見守っています。

屋根の上に楼閣を持つのは、創業明治42年の「豚捨」さん。ユニークな屋号の店名は「牛肉に拘って豚を捨てた」という意味だとか。揚げたての牛肉コロッケが人気で、沢山の人が列を作っていました。

おかげ横丁の中心にある「太鼓櫓」。2006年の訪問では力強い「神恩太鼓」の演奏を見学させていただきました。

お腹に響く和太鼓の音を聞いていると、日頃の憂さも吹っ飛ぶような気がします😃 え?お前は年中能天気じゃないかって?・・失礼な!こう見えて色々有るんですよ😡

二年分の思い出が詰まった「おかげ横丁」、まだまだ続きますがそれは明日のブログで。

訪問日:2006年11月5日&2010年4月4日

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外宮摂社:月夜見宮(つきよみのみや)参拝 in 三重県伊勢市

2021年04月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

伊勢市宮後に鎮座される式内社「月夜見宮(つきよみのみや)」。 御祭神は、天照大神の弟神であられる『月夜見尊・月夜見尊荒御魂』。

清浄な気に満ち溢れた境内を歩き、宮の前に佇んで拝礼をしていると、心が洗われるような何ともいえない満ち足りた気持ちになり、二人で見交わす顔は、自然と笑顔になります。

社殿は外宮に準じ外削ぎの千木と、5本で奇数の鰹木を持つ萱葺の神明造で南面。

月夜見宮の右奥に鎮座される外宮摂社「高川原神社」。『月夜見尊御魂』とともに、宮川の河岸段丘上の高河原であるこの辺りの守護神をお祀りします。

社殿左側の後方に奉られる小さな「稲荷社」。楠の根元の洞部分が祠を包み込むように、小さな神狐さんに程よい木陰を提供しています。

それほど広くは無い境内、参拝の滞在時間は本当に僅かでしたが、初めての車泊での「外宮参拝」は、実に忘れ難い貴重な思い出となりました。

参拝日:2010年4月3日

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豊受大神宮(とようけだいじんぐう)外宮参拝 in 三重県伊勢市

2021年04月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

伊勢市宇治館町に鎮座される「伊勢神宮」、正式には「神宮」とのみ称されますが、他の神宮と区別するために伊勢神宮と通称されています。「伊勢の神宮」、また親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称され、神社本庁の本宗(ほんそう)であり、二十二社(上七社)の一社。また、神階が授与されたことのない神社の一つであり、古代においては宇佐神宮、中世においては石清水八幡宮と共に二所宗廟のひとつとされました。

お伊勢さん参りは、外宮を参拝してから内宮に参拝するのが正しいとされています。伊勢市豊川町に鎮座される「豊受大神宮(外宮)」。衣食住の守り神である『豊受大御神』を祀ります。相殿神に「御伴神(みとものかみ)三座(東に一座、西に二座)」を祀ります。

延暦23年(804)に編纂された社伝「止由気宮儀式帳」によれば、雄略天皇の夢に天照大御神(内宮祭神)が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せるように」と神託。この神託を受け雄略天皇22年7月7日 (旧暦)、内宮に近い「伊勢国度会の郡、沼木の郷、山田の原」の地に豊受大御神を迎えて祀ったのが始まりとされます。

ご本殿は外側から板垣・外玉垣・内玉垣・瑞垣の四重垣に囲まれ、南北の門に宿衛屋(しゅくえいや)が置かれていますが、拝所からは直接見ることはできません。

20年に一度の式年遷宮で知られる神宮には、正宮の隣に次の神宮式年遷宮の際に正宮が建てられる「御敷地(みしきち)」があります。この御敷地は、前回の式年遷宮の時に正宮が置かれていた土地であることから「古殿地」とも称されています。

正宮前の池の横にある「亀石」は、高倉山の天岩戸の入り口の岩を運んだと伝えられています。最初は何故に亀?と不思議だったのですが、なるほど!!見る角度で確かに「亀」に見えます。

亀石を渡った先、石段の左に鎮座される「風宮(かぜのみや)」。御祭神は『級長津彦命(しなつひこのみこと)・級長戸辺命(しなとべのみこと)』、風雨を司る神とされます。

「風宮」の右に鎮座される「土宮(つちのみや)」。御祭神は『大土乃御祖神』。山田の原の地主の神とされます。

土宮と風宮の間にある石段を98段登った丘の上に鎮座される「多賀宮(たかのみや)」。『豊受大御神荒魂』を御祭神とし、四つの別宮の中では最高位とされています。

参道の途中にある銅板葺、入母屋造りの建物は「外宮神楽殿」。御朱印などはこちらで授与されます。

入口に架かる「火除橋」は、火事の際に使用される神宮の神域の堀川に架けられたことから「火除橋」と呼ばれており、外宮には二つの橋があります。

  

私たちが参拝した折には、もう一方の「火除橋」は新たに工事の最中だったようで、滅多に見られない光景に遭遇できました。

神路通りにあった「お木曳きひき行事と山田」と題された案内板。お木曳きとは、遷宮の為に木曽の山から切り出された御用材を、宮川より外宮の北御門まで神領民と呼ばれる地元の人々によって運ばれる民俗行事の名称。この案内の最後に芭蕉の句が添えられています。

【たふとさに みなおしあひぬ 御遷宮】

またこれと並ぶように、「昭和の歴史とともに歩んだコンクリート電柱」が大切に保存されています。案内板には「昭和三年に昭和天皇ご即位の大典が京都でとり行われ、同年十一月には、両陛下が伊勢神宮にご参拝されました。これにあわせて、皇大神宮(内宮)宇治橋付近から宇治浦田町交差点付近までの間(通称おはらい町通り)約六百mに、通信ケーブル架渉用にコンクリート電柱二十三本が建設されました。~後略」

参拝日:2010年4月3日

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伊勢神宮:内宮参拝~其の二in伊勢市

2021年04月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

事前の予備知識無しの今回の伊勢神宮参拝、何と内宮神苑での手数入り奉納が見学できるとの事。相撲にはそれほど興味を持っていない二人ですが、現役横綱の手数入式を間近で見られる、こんな機会はおそらく二度とない・・(横綱が誰なのかも知らない二人)

時間は11時からですが「宇治橋を渡る力士は華がある」と言う、誰かの声に釣られて移動。橋の近くは報道陣も含めて凄い人だかり😅 見えてきた力士たちの姿にあちこちから声が飛びます。

外人さん力士と並んでいるのは・・誰だったっけ😓 見た顔なんだけど名前が出てこない。

相撲に興味が無い割には、折角の機会なので前の方で見ようと言う事で、場所確保の為大幅に時間を費やしスタンバイ。背広姿の親方らしき人が土俵を整えている場面。

準備が整ったところで三役力士による「揃い踏み」。ちなみに三役力士とは「大関・関脇・小結」に相当する力士たちで、そろって土俵上で四股を踏むことだそうです。足の着地に合わせて、あちこちで「よいしょ!!」の掛け声が聞こえます。

続いては古式ゆかしく、横綱の「手数入(土俵入り)」の奉納。さすがに横綱の土俵入りとなると、一所作ごとに掛け声と拍手が沸きおこり、その熱気に圧倒されっぱなし😲😲

で・・この横綱・・誰??😓 隣り合わせて仲良くなった方にお聞きしたところ、代69代横綱『白鵬』だと教えてくれました(絶対、あんた何で此処にいるのって思われただろうな。)

「手数入」が終わるとほぼ同じ頃に、「小笠原流百々手式奉納」があると言うので、急遽左に移動。小笠原流というと、礼儀作法を教える流派くらいの認識しかなかったので、ちょっと意外でしたが、鎌倉時代から一子相伝により伝えられてきた礼法・弓術・弓馬術の流派なんですね。(ちなみに昨今、巷に溢れるーおへその前に両手を重ねるー不細工なお辞儀を小笠原流と言う馬鹿がいますが、真っ赤な嘘です)

さて、その弓馬術礼法小笠原流31世小笠原清忠宗家の長男・小笠原清基氏。弓馬術の礼法など全く縁のない私ですが、最初から最後までその所作はとても美しく、神苑の空気の中で凛として輝いていました。

美しい装束をまとった射手たちが次々にもろ肌を脱ぎ弓を射る。耳に心地よく聞こえる弓音。偶然とは言えこんな場面に立ち会えるなんて、夢見たい😄

生まれて初めての車中泊、伊勢を選んだのは特別な何かがあった訳ではなく、「どこに?」となった時、何故か「伊勢へ」と答えていた私・・もしかしたら呼んで頂けたのかな😄

参拝日:2010年4月4日

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