車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

別宮大山祇(べっくおおやまずみ)神社 in 愛媛県今治市

2020年10月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

今治市別宮町に鎮座される「別宮大山祇(べっくおおやまずみ)神社」。御祭神は『大山積大神』。

「御祭神大山積大神は、天照大神の兄神で、山の神々の親神にあたられて(古事記、日本書紀)、和田志大神とも云われ(伊予国風土記)、日本民族の祖神として、また、地神、海神兼備の大霊神として海上の安全、交通、産業の守護をはじめ日本の国土全体を守護し給う神であるところから、古代より日本総鎮守と尊称される。」境内由緒より

「当神社は、和銅五年(713)越智玉澄公により、大山祇神社(大三島町元国幣大社)の地御前として勧請創建せられ(豫陽盛衰記)、伊予国一の宮の別宮として、創建以来、代々の領主、藩主等は勿論、人々に広く篤く崇敬されてゐる。」境内由緒より

一の鳥居脇より神域を守護されるのは、文政13年(1830)4月吉祥日建立の狛犬さん一対。阿吽共に理知的、なおかつ思慮深そうな顔で、見上げる参拝者を見返してくれます。

ご本殿右手に鎮座される「阿奈婆神社」。御祭神 は『磐長姫大神(いわながひめのおおかみ)』

「大三島の阿奈婆神社から勧請申しあげたお社です。 磐長姫大神は、大山積大神のご長女にあたられ、大変ご長命にあらせられた上、福徳円満の神さまで、「長生の神さま」、「福徳円満の神さま」としてご神徳の高い神さまであります。 また、特に「下の病」の治癒にすぐれた力をお持ちの神さまとして崇敬者の祈願奉實のため遠近より参拝するものが四時絶えません。」 境内由緒書

朱塗りの鳥居が美しい「境内社・清高稲荷神社」。御祭神は『宇迦之御魂神』

拝殿前より神域を守護されるのは何とも不思議な雰囲気を持った神狐さん一対。無駄な線を一切省くとこんな感じになるという見本でしょうか?

朱房の鍵を咥えて雲の中を翔ける唐破風の白狐様、なんとも艶めかしく美しいですね。

「境内社:奈良原神社」。御祭神は「楢原山山頂の奈良原神社分霊」。奈良原神社の氏子全員が離村して今治市内に移ることになったため、当社境内に分霊を勧請したと案内にあります。

鳥居の内より神域を守護されるのは、明治29年(1896)9月吉日建立の構え狛犬さん。吽形さん、もともと大きな顎なのに更に膨大な毛の量で、これ以上ないくらいのデカ顔に。阿形さんは、尾っぽの毛を背中まで伸ばして首の後ろでカールさせています。

「境内社:荒神社」。御祭神は『三宝荒神・大穴牟遅神』。社殿は寛政6年(1794)に「摩利支天宮」として建立されたものです。

拝殿前の一角で大きく枝を広げるのは、昭和49年7月6日、今治市天然記念物に指定された御神木の「お袖大明神」。一体どれほどの樹齢を重ねてきたのか・・・

参拝日:2011年6月11日

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橘(たちばな)神社&野間(のま)神社 in 愛媛県今治市

2020年10月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

今治市中寺に鎮座される「橘(たちばな)神社」。御祭神は『須佐之男命・大山祇命・宇迦魂命・日本武命・弟橘姫命・上津姫命・下津姫命・大名牟遅命・石折神』

境内案内に「創立年代不詳 伊予國古神社祭神録に所載されている祇園神社の一社であり立花郷の産土神として鎮祭立花宮と称し崇敬され慶長二年宮の脇に社殿を造営、その後橘神社と改称奉斎した。」

参道より神域を守護されるのは、安政5年(1858)8月吉祥日建立の狛犬さん一対。イカ耳なのは何を警戒してなのか、あの鋭く尖った歯で襲われたら・・考えたくない😣

さらにもう一対、やはり同じようにイカ耳で周囲を警戒しているのは、明治35年(1902)4月吉日建立の狛犬さん一対。威圧感では少々引けを取りますが中々負けていません。

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今治市神宮に鎮座される「延喜式内明神大社:野間(のま)神社」。御祭神は『飽速玉命(あきはやたまのみこと)・若弥尾命(わかみおのみこと)・野間姫命(のまひめのみこと)・須佐之男命

由緒に「古くより悪病除け開運の神として名がある。後醍醐天皇の綸旨、尊氏将軍教書、河野家寄進状等により崇敬の広かったことがわかる。特に松山藩侯は雨乞の祈願所として尊崇せられた。天平神護二年五位下、神戸に烟を充て、天慶三年正二位、承和四年名神に、延喜の制では大社に列せられた。」

鳥居から〆鳥居と続き、さらに参道を真っ直ぐに進むと神門があり、その奥に社殿に続く石段が見えています。私は少々酷使しすぎた足を庇って石段の下で待機、その先はご亭主殿に一任。

石段参道の上より神域を守護されるのは、文政4年(1821)8月吉日建立の狛犬さん一対。まるでオールバックのような髪型に突き出した胸・・短い四肢。こんなにユニークな狛犬さんに会えるのなら、無理しても頑張るんだった!

待ちぼうけの間に見つけた「境内社:猿田彦大神社」。御祭神は『猿田彦大神』

狛犬さんは居なかったのですが、屋根の上で亀を捕まえる(ように見える)獅子を見つけ、待ってる間中、一人で悦に入ってました😄 惜しむらくは横から・・と言われましたが、私の身長では無理😩!

  

参拝日:2011年6月11日

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御神名一口メモ

『飽速玉命(あきはやたまのみこと)』、邇芸速日命の天降りに随伴した天湯津彦命の五世孫。安藝國造等の祖。初代安藝国造。

若弥尾命(わかみおのみこと)』、野間国(今治市)を開拓した神。

野間姫命(のまひめのみこと)』、若弥尾命の妻。

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吹揚(ふきあげ)神社 in 愛媛県今治市

2020年10月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

今治市通町・今治城内に鎮座される「吹揚(ふきあげ)神社」。主祭神は『天照大神、八幡大神、事代主大神、大己貴大神、藤堂高虎公』。

由緒「吹揚神社は、往古より今治市内各所に御奉祀されていた神明宮、座王八幡宮、蛭子宮、厳島明神の四社を廃藩の際、城地が旧社地の故をもって、明治5年11月19日城内本丸に合祀鎮座されたものです。吹揚城の城名をとり「吹揚神社」とした。」愛媛県神社庁より

鳥居の奥、復元された城門石段の上より神域を守護されるのは、安政6年(1859)建立の狛犬さん一対。口の端がぽっかりと穴があいているようで、こういうのを見るとつい指を突っ込んでみたくなるのですが、まれに蜂の隠れ家になっている事も有るので要注意!

現在の社殿は、昭和55年の放火によって全焼した社殿に代わって昭和58年に落成したものだそうです。戦火や自然災害は仕方ないとして、放火とは😣 基本的に優しくない私は、犯人に神罰が当たっている事を心から願います!。

神門前より神域を守護されるのは、明治7年(1874)1月建立のとてもスマートな狛犬さん一対。頭の天辺がお皿をかぶせたみたいで、折角の怖い顔も台無し。

神門から入ってすぐ、左に鎮座されるのは「境内社:住吉神社」「猿田彦神社」。御祭神は『厳島大神』『猿田彦大神』

鳥居左右より神域を守護されるのは、天保6年(1835)6月吉祥日建立の狛犬さん一対。しかめっ面の吽形さんと、にこやか笑顔の阿形さんの対比が絶妙。

拝殿向って右手に鎮座されるのは「境内社:土居神社」、御祭神は定かではありません。

拝殿前より神域を守護されるのは文化12年(1815)8月吉日建立の狛犬さん一対。やんちゃそうな顔ですが200歳近いお年なんですよ

本殿の右手に鎮座されるのは「境内社:鹿香神社」。御祭神は『藤堂高虎公・久松定房公』

神域を守護されるのは、文政11年(1828)建立の狛犬さん一対。目も鼻も口も、とにかく造作が大きく、見て楽しい顔立ち。吽形さんの頭の小さな角が・・・鍋蓋のつまみ♯▽xxxx何でもありません!!

同じく「鹿香神社」の拝殿近くで神域を守護されていた、寛政9年(1797)2月吉日建立の狛犬さん。どのような事情があったのか分かりませんが相方の阿形さんが居なくてポツンと寂しげ。

鮮やかな朱塗りの鳥居は「境内社:吹揚稲荷神社」、御祭神は『宇迦之御魂神』

鳥居の前より神域を守護されるのは、寛政8年(1796)9月建立の狛犬さん一対。美しい稲荷神が自慢なのかとっても楽しそうに手を仰いで笑っています。

稲荷の神狐に守護される社殿は華麗で、施された彫刻も非常に華やかなものばかり。

懸魚の鶴も、鍵を咥えて翔ける白狐も、その鮮やかさに吸い込まれるようで、いや~眼福😄😄


朱の拝殿を守護される神狐さん。奉納は近年のものと思われますが、これまでにお目にかかった事のない顔立ち、作者の独創性が感じられる一対です。

参拝日:2011年6月11日

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今治城 in 愛媛県今治市通町

2020年10月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

関ヶ原の戦いでの戦功により伊予半国20万石を領した『藤堂高虎』が瀬戸内海に面した海岸に築いた大規模な平城「今治城」。別名「吹揚城(ふきあげじょう)」ともいいます。

慶長7年(1602)に築城を始め、建造物も含めて完成したのは慶長13年頃と推測されます。海を最大限に活用するため三重の堀に海水を引き入れ、城内の港として国内最大級の船入を備えた日本屈指の海城。高虎が伊勢に移封となり寛永12年(1635)に松平定房が入城して以降、明治維新まで美しい姿を見せてきた「今治城」。

明治維新後の廃城令により、優美な姿を誇っていた今治城は内堀と主郭部の石垣を残すのみとなりました。その後、昭和28年(1953)に県指定史跡となり、昭和55年(1980)からは、主郭部跡に天守をはじめとする櫓、門などの再建が進み、現在みられる雄大な城郭の姿が完成。

綺麗に整備された土橋は真っ直ぐに「鉄御門(くろがねごもん)に向かいます。お侍たちがお城勤めで歩いたのもこの土橋だったのかな。いや、当時は木橋だった筈だよ。じゃぁ、脇には船とかも停泊していたんだよね・・うす曇の鬱陶しさを物ともせず、いつも通り賑やかな二人😄 😃

鉄御門を潜った正面の石垣。場違いに大きな石は「鏡石」と呼ばれるもので、城主の力を誇示する為と言われています。今治築城の総奉行を務めた『渡辺勘兵衛』にちなんで「勘兵衛石」とも呼ばれており、今治城で一番大きな石だそうです。

目に付いてしまうと気になる石垣。「おお!」と思うものには丁寧に説明が添えられていたのですが、画像に残していなかったので、ほぼ不明😓

馬上から天守閣を仰ぎ見るのは『藤堂高虎:騎馬像』。高虎と言えば築城の名手としても知られていますが、何度も主君を変えたことでも有名な武将。何しろ関ヶ原の戦いでは家康に組し、三成さんを敗北に追いやった立役者の一人。ちなみに私、三成さん贔屓なんです😅

主君を選び間違えれば、その時点で一族郎党が滅びてしまう戦国時代。浅井家の家臣から、信長、秀長、秀吉そして最終的には家康に組し、徳川家の重臣として仕えた『藤堂高虎』。「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」・・ 立ち位置を変えてみれば、主君として仕えるには実に頼もしい人物だったのです。

望楼型5重6階模擬の天守閣・・模擬であろうが紛いであろうが😅、日本の城郭と言うのは本当に綺麗だと思います。天守閣を見上げていると、まるでその部分だけがうす曇の空を跳ね返すようにまばゆく見えます。

広大な城址には2007年に復元された二の丸の表門「鉄御門」や、天守閣と一緒に再建された多聞櫓等々と・・それなりに見所はあるのですが、いかんせん、ちょっと座りたくても地面は濡れた状態。 流石に見て歩くだけなので疲れてきました。

冷えも手伝って痛み出した足をさすりながら屈みこんだ時、何とも絶妙なタイミングで足元に擦り寄ってきた「元気の素」😍 思いがけない可愛いお見舞いにすっかり元気倍増。首輪もあるしちゃんとお家がある子だね。雨になる前に早くお家に帰るんだよ。

今治城は、高松城(香川県)中津城(大分県)と共に、日本三大水城の一つに数えられています。

訪問日:2011年6月11日

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ご当地マンホールとマンホールカード in 愛媛県今治市

2020年10月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

今治市(いまばりし)は愛媛県の北東部、瀬戸内海沿岸に位置する市です。2005年1月16日、今治市、菊間町、大西町、波方町、玉川町、朝倉村、宮窪町、伯方町、上浦町、大三島町、関前村が合併、新たに今治市となりました。この合併によって愛媛県から村が消滅。松山市、東温市、西条市、越智郡上島町に。さらに県を跨ぎ、西瀬戸自動車道・安芸灘諸島連絡架橋によって、広島県尾道市、呉市、竹原市、三原市、豊田郡大崎上島町に隣接。愛媛県北部の高縄半島の北東部を占める陸地部と、瀬戸内海特有の多島海が見られる島しょ部をも含めた多様な市域を有し、古くから瀬戸内海の海上交通の要所として発展してきました。「市の木:クスノキ」「市の花:ツツジ」を制定。

キャッチフレーズは「ゆとり彩りものづくり みんなで奏でる海響都市いまばり」

マンホールは旧玉川町のデザインで、今治市の市章を中心に「町の花:桜」がデザインされています。

旧上浦町のデザインマンホールで、「町の花:ツツジ」と「多々羅大橋」、右下に今治市の市章がデザインされています。

2005年1月16日制定の市章は「右下のグリーンが瀬戸内海の自然を、その横を流れるブルーが来島海峡とその上を走っているしまなみ海道を表し、包まれているオレンジ色の丸が今治市のイニシャル「i」の雰囲気と、自然の中で力強く光っているイメージを表しています。」公式HPより

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今治市(いまばりし)は愛媛県の北東部に位置した市です。西条市、越智郡吉海町・宮窪町・朝倉村・玉川町・波方町・大西町に隣接。慶長9年(1604)に、藤堂高虎によって築城された今治城の城下町として発展してきました。町村制の施行に際し、室屋町・米屋町・本町・北新町・風早町・新町・中浜町・片原町・今治村が合併し、今治町が誕生。明治27年(1894)には阿部平助』によって。今治最初のタオル作りが4台の織機をもって開始。今日の今治タオルの基礎が築かれました。

明治22年(1889)、町村制の施行により、越智郡今治町・日吉村・近見村・立花村・桜井村・清水村・富田村・乃万村・日高村、野間郡波止浜(はとま)村が発足。

1897年、郡制の施行により、野間郡が越智郡に統合される。

1908年、波止浜(はとま)村が町制を施行、越智郡波止浜町となる。

1917年、桜井村が町制を施行、越智郡桜井町となる。

1920年、越智郡と合併、市制を施行し今治市が発足。

1933年、越智郡近見村を編入。

1940年、越智郡立花村を編入。

1955年、越智郡桜井町・波止浜町・清水村・富田村・乃万村・日高村を編入。境界変更により、吉海町から馬島を編入

1960年、境界変更により、波方町から大浦の一部を編入。

マンホールには、激しい潮流で知られる来島海峡を進む「村上水軍船」がデザインされています。帆には村上水軍「越智氏」の家紋「折敷に揺れ三文字」。

「折敷に揺れ三文字」の瓦

大正10年(1921)9月25日制定の市章は「今治の「今」と日吉村の「日」
を同時にかたちどっている。」

今治市のPRマスコットキャラクター『バリィさん』は、焼き鳥のまち今治生まれ今治育ちのトリ。来島海峡大橋の王冠をかぶり、お腹には今治タオルのハラマキ、手には特注の船の形の財布を持っています。ゆるキャラ界の王者決定戦「ゆるキャラグランプリ2012」で王者に輝いた実力の持ち主です。

撮影日:2011年6月11日

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マンホールカード・頂きました。

2019年8月7日、第10弾として全国61自治体で61種類(累計539自治体455種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「今治市」のマンホールカードは、「道の駅:よしうみいきいき館」でいただけます。

1998年に設置開始されたマンホールには「瀬戸内しまなみ海道」と「つつじ」と「急流」がデザインされています。

「市の花「ツツジ」と日本三大急流の一つである来島海峡の「急流」、サイクリングの聖地と言われる「瀬戸内しまなみ海道」をデザインしました。 この地には、急流が渦巻く地の利を活かして「日本最大の海賊」と称された村上海賊が活躍した来島があります。 また、しまなみ海道には自転車歩行者専用道路が整備され、美しい瀬戸内海の景色を見ながら、安心して解放感に満ちたサイクリングを堪能できます。 さらに、市制50周年を記念して開園した「市民の森・フラワーパーク」では、約3万本のツツジが咲き誇り来園者の目を楽しませてくれます。」

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ご当地マンホール in 愛媛県

2020年10月26日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

愛媛県(えひめけん)は四国の北西、瀬戸内海に面した県です。徳島県、香川県・高知県・広島県に。また海上を隔てて山口県・大分県に隣接。北側には平野が広がり、南側には西日本で最も高い石鎚山(1,982m)がそびえ、瀬戸内海・宇和海には200余りの島々があり、海・山両方の美しい自然に恵まれています。四国地方では最も人口が多く、県庁所在地は中核市指定の松山市。都市規模は、計量特定市指定の今治市・新居浜市が続き、令制国の伊予国に当たります。

県域は東予、中予、南予と大別され、11市7郡9町があり、町はすべて「ちょう」。「えひめ」の地名は、『古事記』上巻のイザナギとイザナミによる国生みの段に「伊豫國謂愛比賣(伊予国は愛比売と謂ひ)」とあり、のちに「愛比売」が「愛媛」へと転化。「うるわしい女神」を意味する神名であり、全国で唯一の神名をつけた県となります。「県の木:松」「県の花:みかんの花」「県の鳥:コマドリ」「県の魚:マダイ」「県の獣:ニッポンカワウソ」「県民の日:2月20日(県政発足記念日)」を制定。

キャッチフレーズは「愛顔あふれる愛媛県」

明治4年(1871)7月、廃藩置県により松山藩、西条藩、小松藩、今治藩、大洲藩、新谷藩、宇和島藩、吉田藩の「伊予八藩」がそのまま県となり、旧幕府領は倉敷県に分属。

同年11月、旧幕府領が丸亀県に移管。丸亀県の一部と西条・小松・今治・松山の各県が合併して松山県に、大洲・新谷・吉田・宇和島の各県が合併して宇和島県となる。

1872年、 松山県は石鉄(いしづち)県、宇和島県は神山県となる。

1873年、石鉄県、神山県が合併、愛媛県となる。

1876年、香川県と合併、「愛媛県」となる。

1888年、香川県が分離、今日の愛媛県となる。

マンホールは、県章のみの規格蓋で「雑水弁」の用途名があります。

1989年に制定された県章は三代目で「赤が太陽と県花・ミカン、緑が石鎚山に代表される自然の恵み、青が瀬戸内海の恩恵を表し「県民の健康で明るい未来」をイメージしている」Wikipediaより

昭和27年(1952)5月5日制定の愛媛県旗は「県の花であるミカンの花を中央やや左寄りに配し、花びらの白は「質素」「純潔」を、緑は「平和」「希望」を、黄色は「幸福」を表す」Wikipediaより

愛媛県イメージアップキャラクターみきゃん。2017年に開催された「愛顔つなぐえひめ国体」・「愛顔つなぐえひめ大会」のマスコットキャラクターにもなりました。みきゃんの耳はミカンの葉、尻尾はミカンの花です。

愛媛県警マスコットキャラクター『伊予まもる:愛称「まもるくん」』。特産品の「みかん」をモチーフに、明るく、親しみやすく、信頼される愛媛の警察官を表現しています。考案者は警察職員の家族だそうです。

えひめこどもの城 マスコットキャラクターの『コシロちゃん』。おっきなピンクの鼻がチャームポイントで、お城のまっ赤な帽子が自慢です。

撮影日:2011年6月11日&2015年2月25日

(※)上浮穴郡久万高原町・北宇和郡松野町・越智郡上島町は未訪問です。

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大歩危~小歩危あちこちウォッチ in 徳島県三好市

2020年10月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・徳島県

「大股で歩いても、小股で歩いても危険」といわれていたことからその地名がついた「大歩危(おおぼけ)・小歩危(こぼけ)」。 2億年の時を経て四国山地を横切る吉野川の激流によって創られた約8kmにわたる渓谷は、まさに見るものを圧倒させる質感と共に、見事な景観を生み出しています。

「大歩危」とは、吉野川西岸の旧山城町西宇地区から高知県大豊町大久保地区の一部までと、その対岸となる旧西祖谷山村の一部を指す総称。剣山国定公園の一画を成しており、2014年には「小歩危」と共に国の天然記念物に指定されました。

西宇地区の一画、「レストラン大歩危峡まんなか」敷地内に建立されているのは、時の逓信(ていしん)大臣『後藤新平』が、明治42年(1909)秋にこの地を訪れた折に詠んだ【岩に題す  天下第一  歩危の秋】。大歩危を代表するとも言われるこの句によって、それまで秘境とされていた「大歩危・小歩危の」景勝が広く国内に認知されるようになったと言われています。 

句碑の右前に展示されているのは「県指定天然記念物」の「三名含礫片岩」。ちなみに大歩危の「礫質片岩(れきしつへんがん)」は、含礫片岩として、国の天然記念物に指定されているのですよ。・・あれ?県じゃなくて国??と思われた方、何と!😲!私たちがこれを見る一週間前に国指定に変更されたのです。

いやもうね、どんだけ天然記念物が好きやねん!とついつい突込みがはいるのですが。だってね、日本国が認めるほどの記念物ですよ、やっぱり興味は惹かれるじゃないですか。 で、往々にして「なんちゃ~?ようわからん?」となるのですが、今回はモノが見えて触れる分、分りやすかったし😅

句碑のある「レストラン大歩危峡まんなか」から見る大歩危峡は、紅葉の赤が無くとも十二分に美しく、特に岩肌の白とエメラルドの水とのコントラストは、言葉にし難いほど。ですが・・瑠璃より深い川面を真下に泳ぐ鯉のぼりの爽やかさ、これは子供よりも大人の方が感激します。

自然の姿をあるがままにと言うのは勿論ですが、こうした人の匂いが感じられる装いもまた格段に美しいと思えます。ここから遊覧船に乗って大歩危峡観光ができると言う事で、下には何艘かの船も見えています。

ちなみに、この美しい景観を写真に収める為にはある程度の高さが必要となりますが、大丈夫、こんな展望台まで用意されて、まさに至れり尽くせり。

対岸の緑を縫うように電車が通り過ぎていきます。あんな狭い場所に線路があったことも驚きですが、運よく電車に遭遇できたことも驚き😲

電車も見たからという訳では有りませんが「大歩危駅」まで行ってみる事に。ところが駅のロータリーは予想外の狭さ、車を置くスペースもままなりません。とりあえず電車はまだみたいだし、ロータリーの隅に停車し、駆け足で構内に。

改札口の向こうでは藁沓を履き、蓑を着けた『児啼爺(こなきじじい)』の駅長さんが笑顔で出迎えてくれます。秒を惜しんでの記念写真😄、実に思い出に残るよい記念になりました。

国道から駅に入る為の高架橋にマイクロバスが見えたので速攻で車を出し、次に向ったのは妖怪屋敷と石の博物館が併設された「道の駅・大歩危」

昨夜はここで車泊させていただきました事、本当にありがたく感謝しています🙏🙏

この「大歩危」ですが、さすがは「児啼爺伝説:発祥地(水木先生・談)」だけあって、妖怪の姿も見覚えのあるものばかり。でもご亭主殿に頼んで参加してもらった顔出しは、誰もその存在に気がついて貰えませんでした😅

岩石・鉱物が展示された石の博物館「ラピス大歩危 」。マスコットキャラクターはラテン語で『石』『宝石』を意味する名前の『ラピスちゃん』

「大歩危駅」に寄ったのだから「小歩危駅」もと言うことで、急遽の寄り道。道路の隅に作られた結構な数の急な石段を登った先が「小歩危駅」です。

駅からだと、さっき走ってきた道がこんな風に見えます😲。 毎日の足となる最寄の駅がこんな高い位置にあるなんて、ただ、驚きでした。

訪問日:2014年3月24日~25日

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「大歩危駅」の所在地、旧三好郡西祖谷山村(にしいややまそん)は、徳島県の北西部、吉野川の中流域東岸に位置した村です。北は三好郡三加茂町・井川町・池田町、西は三好郡山城町、東は三好郡東祖谷山村、南は長岡郡大豊町に隣接。屋島の戦いに敗れた平家の落人伝説や阿波山岳武士の伝説が残り、切り立った岩肌が広がる吉野川流域「大歩危」や祖谷川の渓谷に架かる「かずら橋で知られています。

明治22年(1889)、町村制の施行により、美馬郡東祖谷山村、美馬郡西祖谷山村が発足。

1950年、東祖谷山村、西祖谷山村が三好郡に編入。

昭和43年(1968)12月28日制定の村章は「「にい」を図案化したものです。」

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「小歩危駅」の所在地、旧三好郡山城町(やましろちょう)は、徳島県の北部最西端、吉野川の中流域西岸に位置した町です。北は三好郡池田町、南には三好郡西祖谷山村、西は愛媛県四国中央市、南は高知県長岡郡大豊町に隣接。高知県いの町を水源とする吉野川が町東端を南北に貫き、愛媛県新居浜市を水源とする銅山川が町北部を東西に貫いて、吉野川に合流。三傍示山が町南西部と愛媛県四国中央市と高知県長岡郡大豊町に跨り、山間へき地で平坦な個所が極めて少なく、総面積に占める森林面積の割合は 85% にものぼります。「町の木:杉」「町の花:アンズ」「町の鳥:メジロ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、三好郡山城谷村・三名村が発足。

1956年、山城谷村と三名村が合併、町制を施行し改称して、三好郡山城町が発足。

昭和41年(1966)10月1日制定の町章は「頭文字の「山」を図案化したものです。」

訪問日:2014年3月25日

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比較的快適に走れていた県道32号線から、国道319号線に入り、高知自動車道新宮ICに向かったのですが・・・まさかこんな酷道とは😱。
見通しは悪いわ、一車線だわ、たまにハイスピードで地元車らしい対向車は来るわ😭 国道だからと油断した!次回は絶対に遠回りする!!

合併した旧自治体は別にして、「上勝町」「那賀町」「神山町」「石井町」「佐那河内村」が未訪問。これらの地を再度訪れる事が出来るかどうかは神のみぞ知るですが・・多分無理だろうな。

徳島県のご当地マンホールは、2014年3月25日の三好市をもって終了。明日からは愛媛県のマンホール・神社仏閣・名所に旧跡&迷所の紹介です。

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ご当地マンホール in 徳島県旧三野町(三好市)

2020年10月24日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

旧三好郡三野町(みのちょう)は徳島県の北西部、吉野川の中流域北岸に位置した町です。美馬市、美馬郡つるぎ町、三好郡三好町・三加茂町に。さらに県を跨いで香川県多度郡琴南町・仲南町に隣接。16世紀後半、室町幕府を支配した三好氏の出身地であり、全国各地の三好姓の発祥と考えられています。大平の湧水や龍頭の滝・金剛の滝 等の名勝を擁し、また三野町太刀野にある道の駅「三野」の側には「太刀野中央構造線露出地点」があり、間近に見ることが出来ます。「町の木:紅葉」「町の花:桜」「町の鳥:ウグイス」を制定。

県の天然記念物と言うことで、早速、期待感一杯で!見てきました「中央構造線・断層破砕帯の粘土」・・・なんですが、「なぁなぁ・・・何が凄いのか・・ようわからん」😥「うん・・ようわからん」😓

明治22年(1889)、町村制の施行により、三好郡三野村が発足。

1924年、三野村が町制を施行、三好郡三野町が発足。

2006年、 三好郡池田町、山城町、井川町、東祖谷山村、西祖谷山村と合併し、三好市三野町となりました。

昭和9年(1934)4月制定の町章は「形象化した「の」を三つ組み合わせ、「みの」としました。」

(※)旧三好郡三野町では独自のマンホールも上水道関連の蓋も見つけられませんでした。

訪問日:2013年3月29日&2014年3月24日

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旧三好郡井川町(いかわちょう)はかつて徳島県北西部に位置していた町です。三好郡三加茂町、三好町、池田町、西祖谷山村に隣接。吉野川中流の南岸に町域が開け、中心地区である辻は井内谷川が吉野川に合流する谷口に発達した集落です。「町の木:ウメ」「町の花:ナデシコ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、三好郡辻町・井内谷村が発足。

1959年、郡辻町、井内谷村が合併、三好郡井川町が発足。

昭和44年(1969)3月制定の町章は「頭文字の「い」を図案化したものです。」

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旧三好郡東祖谷山村(ひがしいややまそん)は、徳島県の北西に位置していた村です。東に美馬市、北に美馬郡つるぎ町・三好郡三加茂町、西に三好郡西祖谷山村、南に県を跨いで高知県長岡郡大豊町・香美郡物部村、徳島県那賀郡那賀町と隣接。村域は山間過疎地域で、剣山(つるぎさん)等の西日本や四国を代表する山河が揃い、豊かな自然に恵まれている。また西祖谷山村と同じく、平家の落人伝説や阿波山岳武士の伝説が残されています。

明治22年(1889)、町村制の施行により、美馬郡東祖谷山村が発足。

1950年、美馬郡東祖谷山村が三好郡に編入。三好郡東祖谷山村となる。

昭和47年(1972)11月2日制定の村章は「「ヒイヤ」を組み合わせたものです。」

(※)旧三好郡井川町・旧東祖谷山村は未訪問のため、マンホールの所在は不明です。

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池田うだつの町並み in 徳島県三好市池田

2020年10月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・徳島県

三好市池田町の観光メインは、100年以上前のたばこ業者の住まいを利用した「池田うだつの家・たばこ資料館」。ところが「資料館」は工事中、入館は可能だったのですが、目当ては建物だったので諦めて退散😔。

貞光・脇町と続いての「池田うだつの町並み」。期待していた分、少々アテが外れてしまった感は否めません。それでも折角来たのだからと旧街道に残る古いたたずまいの家を探しながら町歩き🚶🚶

何だろう・・・この無理やり感一杯のそぞろ歩き😔❓ なんか違う!絶対に間違ってる!

それでも転んでもタダではおきない関西人😅 来たからには何かしら面白い発見が無くては! という事で、とあるお屋敷の軒先の装飾瓦。さして珍しくも無いものと言われそうですが、この大黒様・・・👀がね・・ちゃんとあるんです。

屋根を見上げて「恵比寿様」にデジカメを向けていると、地元の方に「何がおるん?」と聞かれ、理由を話すと「地元に何十年も住んでいるけど、こんな瓦があったなんて始めて知ったわ!」と、感心しているのか、もしかしたら呆れられていたのかも😅

期待が大きかった分、外れた時はガッカリ感が半端無いのですが、それはこちらサイドの勝手な想い込み。

訪問日:2013年3月29日

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ご当地マンホール in 徳島県三好市&旧池田町(三好市)

2020年10月22日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

三好市(みよしし)は四国のほぼ中央、徳島県の最西端に位置する市です。2006年3月1日、三好郡池田町、三野町、山城町、井川町、東祖谷山村、西祖谷山村が合併し、三好市が誕生しました。美馬市、美馬郡つるぎ町、三好郡東みよし町、那賀郡那賀町に。さらに県を跨いで香川県観音寺市、三豊市、仲多度郡まんのう町。愛媛県四国中央市。高知県香美市、長岡郡大豊町に隣接。徳島県面積の1/6を占める県内最大面積の自治体ですが、剣山山系を南側にもち、市の90%近くが山地によって構成され、中央部を吉野川が横切っています。「市の木:モミジ」「市の花:サギソウ」「市の鳥:メジロ」を制定。

キャッチフレーズは「緑豊な潤いの郷 自然が生き活き、人が輝く交流の郷 三好市」

2006年3月1日制定の市章は「「m」の字を剣山・吉野川・祖谷渓谷などの地勢をモチーフに「自然が生き活き、人が輝く交流の郷」と未来を見つめ、協調し、飛躍発展する姿を表現しています。上部の円はその集中力をも表しています公式HPより

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旧三好郡池田町(いけだちょう)は徳島県の北西部に位置した町です。三好郡三好町・山城町・井川町・西祖谷山村に。また県を跨いで愛媛県四国中央市、香川県観音寺市、三豊市に隣接。西祖谷山村善徳にある祖谷渓にかかる葛で編まれた吊り橋「祖谷のかずら橋」は日本三奇橋の一つとして知られ、深い断崖に立つ小便小僧、祖谷温泉などと共に、とくしま88景に選定されています。また池田町イタノの吉野川:池田ダム湖に架かる世界一のランガー形式アーチ橋「池田へそっ湖大橋」は土木学会デザイン賞2002に選定。この辺りは四国のほぼ中心に位置している事で「へそ」なんですね。「町の木:サクラ」「町の花:サギソウ」「町の鳥:ウグイス」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、三好郡池田村・箸蔵村・佐馬地村・三縄村が誕生。

1905年、池田村が町制を施行、三好郡池田町(第一次)が発足。

1956年、池田町が三好郡箸蔵村を編入。

1959年、池田町、三縄村、佐馬地村が合併、三好郡池田町(第二次)が発足。

2006年、三好郡三野町、山城町、井川町、東祖谷山村、西祖谷山村と合併し三好市となりました。

マンホールには真ん中にボールと「IKEDA」の文字、それを取り巻いて野球に興じるカエルがデザインされています。

マンホールのあった「へそっ子公園」には、日本全国の「池田」のカエルが勢ぞろいしています。 私が知っているのはここと、大阪、岐阜、長野の池田だけですが、こんなにあるんですね。

昭和36年11月制定の町章は「“池田”の町名の起こりと伝えら れる古池の蓮の葉とさざ波をあし らって池の字をデフォルメし、本町 の飛躍発展を印象づけてマーク化している」旧公式HPより

撮影日:2013年3月29日

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