車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

桑名宗社(春日神社) in 三重県桑名市

2018年02月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

三重県桑名市本町に鎮座される「桑名宗社」。「春日さん」の通称でしられ、桑名の総鎮守社として篤く崇敬されています。 「桑名神社」「中臣神社」の両社から成り、ともに延喜式神名帳の伊勢国桑名郡に記載される式内社。

境内入り口、片町通に面して立つ日本随一の「青銅鳥居」は、寛文7年(1667)に桑名城主『松平定重』が寄進。 慶長金250両(168.75 万円)を費し、鋳物師『辻内種次』に命じて建立させたもので、県有形文化財の指定。

「桑名神社」御祭神は『天津彦根命(あまつひこねのみこと)・天久々斯比乃命(あめのくぐしびのみこと)=桑名首の祖神』「中臣神社」御祭神は、伊勢国造の祖神『天日別命(あめのひわけのみこと)』。相殿に『建御雷神、斎主命、天兒屋根命、比賣神』の「春日四柱神」を祀ります。

社伝に【当初は旧桑部村に「桑名神社」があり、景行天皇40年から45年にかけて宮町、宝殿町と遷座し、現在の本町に鎮まったという。また、「中臣神社」は神護景雲3年(769)、旧上野村の「山上」に創祀。その後、正応2年(1289)に「桑名神社」の境内に遷座。永仁4年(1296)に『春日神四柱』を勧請し、「春日大明神」と呼ばれるようになった。】

天保4年(1833)、『松平定永』によって寄進された三間一戸・重層入母屋造りの楼門。 正面に左大臣・右大臣、裏側に金剛力士像が安置され、その美しさは日本一と謳われていましたが、昭和20年の空襲により焼失。1995年の七百年祭記念事業において、半世紀ぶりに再建されました。

楼門内より神域を守護される「左大臣」。

「右大臣」。桑名の彫り師『森西鶴』氏・作

境内側から見た楼門の垂れ幕は、「桑名石取祭の祭車行事」のユネスコ登録を祝したもの。「石取御神事」は「山・鉾・屋台行事」を構成する祭りの一つで、天下の奇祭としても有名です。

楼門から真っ直ぐ、石灯籠に護られるように拝殿へと至る参道。

向かって「左中臣神社」、御神紋は「上り藤に大」。右に「桑名神社」、御神紋は「上り藤に三」。両社の御神紋は「上り藤に大三」が使われます。

参道左右より神域を守護されるのは、天保三年(1832)壬辰初夏建立の浪花型と呼ばれる狛犬さん一対。吽形さんは頭に角を。阿形さんの大口をあけたお顔は何とも人懐こい。

境内社「皇大神宮御分霊社」。明治40年に「泡州崎八幡神社」「北市場八幡神社・及境内社」を合祀。

明治九年に神宮司庁より、特別に御分霊を受ける許可を頂いた全国で唯一の神社です。

摂社「桑名東照宮」。御祭神は『東照大権現(徳川家康)』

元和3年(1617)に千姫により東照宮を勧請。「徳川家康座像(市指定文化財)」が祀られます。

境内社「住吉神社」。明治40年に無格社(公の資格をもたない神社)一社、境内社二社を合祀し祀られました。

境内社「伊奈利社(稲荷社)」、御祭神は「正一位春日稲荷大明神」。文政8年(1825)に伏見稲荷大社から勧請。明治40年に無格社一社、境内社一社を合祀して祀られました。

境内社「母山(もやま)神社」。御祭神は『火之迦具土神』、火伏せの神として知られます。

岐阜県揖斐川町春日より、1990年8月奉納された「さざれ石」

「拝殿に向かって右側の玉垣内に1.8mの岩石あり。これを陽石または一説に夜泣石とも伝えている。終戦前まではこの陽石を前にして高さ約3m、周囲約3.5m程の空洞になった楠の枯木があって、その前面は大きく割れて、性器崇拝の神木として参詣する者が多かった。玉垣内の栗石を拾って楠の上部に投げ、石がうまく乗ると吉、外れると凶とした。」公式HPより

2007年3月に「桑名石取祭の祭車行事」として「国指定重要無形民俗文化財」に指定された「桑名石取祭」。江戸時代初期に始まったものといわれ、桑名城下の町人や藩士が楽しみにしていた初夏の祭りです。祭車総数43台。全国的に見ても単一の神社、一神事でこれほどの山車が一堂に会する祭りは非常に珍しく、また、試楽日午前零時に一斉に「叩き出し」が行われるその瞬間の音はまさに轟音で、「日本一やかましい祭り」と言われる所以です。43台の祭車の内、堤原町の祭車には『神功皇后』が飾られているそうで、それを詠んだ句碑が奉納されています。

【 山車統(す)べて 鎧皇后 立ち給う 】山口誓子

【 山車の灯に 夜は紅顔の 皇后よ 】 二川のぼる

「桑名間遠社」を宰した美濃派の俳人『千葉兎月』の句碑。句碑の内容は読み取れず・・

参拝日:2017年3月26日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

六華苑(旧諸戸清六邸)~Ⅱ~ in 三重県桑名市

2018年02月27日 08時10分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

昨日に続いての「六華園」、今日は諸戸家お抱え大工であった工匠『伊藤末次郎』が棟梁を務めた「和館」の紹介。まずは旧諸戸邸の表門にあたる長屋門から。建物は木造平屋建、入母屋、桟瓦葺。外壁は当時では格式が高いとされた黒漆喰で仕上げられています。

長屋門を潜った先にある内玄関。和館は大正元年(1912)に建てられたもので、木造平屋:一部2階建。入母屋、桟瓦葺で、庭園側と奥庭側に廊下が配されています。

一階は、西側に客座敷、東側に内向きの座敷があり、洋館と繋がる2階に隠居部屋。綺麗に刈り込まれた庭木の向こうには様々な木々が配置され、ちょっとした森林公園の様相を見せています。

庭園の中央には揖斐川の流れを取り込んだ池が配されており、川の満ち引きで水位が変わる為「汐入り庭園」とも呼ばれています。六華苑庭園は「旧諸戸氏庭園」として2001年に国指定名勝に指定されました。

庭園が作庭された当初は、バラの洋式円形花壇があったそうですが、大正末期から昭和初期に和風の池泉回遊式大幅に改修されたとか。洋館には似合うと思いますが、日本人の感性では、最終的には和風庭園がしっくりと落ち着くのかもしれません。

庭から見る洋館、塔屋と煙り出しの煙突がセピア色にかすんで、まるで古い絵画のよう・・

この時代、洋館と和館を併設する場合はそれぞれを別棟として建てるのが一般的とされていましたが、諸戸邸では洋館より広い和館が壁を接して直に接続されており、普段の生活は和館が中心。周囲を巡るように板廊下が配置され、板廊下と各部屋の間には畳廊下が設けられていました。Jさんのデジカメは不思議な鮮やかさ・・メーカーでこんなにも違うんだね。

真っ直ぐに続く廊下の長さに、単純に感動(笑)

窓越しに見えるお庭の景色の素晴らしさに、素直に感動(笑)

贅を尽くした室内のしつらえの美しさにウットリ(笑)。Jさん曰く・・「自分ちに帰るのが嫌になりそう(-"-)」「うん、わかる v( ^-^(ё_ёゝ」

「離れ屋」は二部屋からなり、西側に上段の間を設けて仏間とし、さらに内部には水屋を設け、茶匠『松尾宗吾』好みの意匠でまとめられています。昭和13年7月の上棟で、桑名市の有形文化財に指定されています。

また敷地内には岐阜県海津町から移築された「旧高須御殿」があり、内部の見学もできるとの事。伝承では高須藩の陣屋にあった御殿の一部とも云われ、旧高須藩陣屋の遺構の1つとして、三重県指定文化財に指定されています。生憎とこの日はウエディング撮影中、待つには時間が足りません。

和館北廊下と接続する土蔵漆喰の建物は「一番蔵」。接客用調度品などが収納されていました。また二番蔵には、膳碗・汁器類が収納されていたそうです。

一番蔵・二番蔵ともに、切妻、桟瓦葺。また画像にはありませんが現在ギャラリーとして使われている「番三蔵」いずれも、大正時代初頭に建てられたもので1996年に三重県指定文化財に指定されています。

最後の紹介は、大正時代初頭に建てられた旧諸戸邸の鎮守社「玉舟稲荷社」。玉垣の変わりに石を塗りこんだ土塀が巡らされています。

2間社、切妻造、平入、桟瓦葺、1間向拝付。「旧諸戸家稲荷社」は1996年に三重県指定文化財に指定されています。

留蓋の上から参拝者を見下ろす飾り瓦の獅子さん。表情と言い、ピンと横にはねた両足と言い、良い出会いをさせて頂けました。

さぁ、これで「六華苑」内は あらかた廻りつくしました・・・名残惜しくとも出口に向かわねば

ワイワイと感想を言い合いながら、長屋門が近づいた瞬間、思わず振り返ってしまい・・もう一度回れ右をしたいような、ここから先に進みたくないような・・何ともやるせない気持ちの自称乙女二人 ('◇')ゞ ('◇')ゞ。呆れつつシャッターを押すご亭主殿 (~_~;)

訪問日:2011年4月9日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

六華苑(旧諸戸清六邸)~Ⅰ~ in 三重県桑名市

2018年02月27日 08時05分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

揖斐・長良川を望む5500坪余の広大な敷地に建てられた、薄水色の搭屋を持つ西洋館。初めてこの美しい建物を目にしたのは、桑名の観光名所が並んだパンフレットの中。

三重県桑名市桑名にある「国重要文化財:六華苑」。山林王として知られた実業家二代『諸戸清六』の新居として明治44年に着工し、大正2年に竣工。洋館の設計は鹿鳴館を設計した『ジョサイア・コンドル』

「18,000 ㎡の広大な敷地に、洋館と和館、蔵などの建造物群と「池泉回遊式」庭園で構成されたこの邸宅は、一部の改修と戦災を受けたものの、創建時の姿をほぼそのままにとどめています。桑名市は1991年に土地を取得し、建物は諸戸家からの寄贈を受け、整備工事の後、1993年に「六華苑」という名称で一般公開しました。そのうち、洋館および和館は1997年に国の重要文化財に指定され、他の6 棟が三重県の有形文化財に指定されています。また庭園は、2001年に国の名勝に指定されました。」公式HPより

長屋門風の入り口を入り、ロビーで入苑手続き(一般¥460)を済ませたら、さぁ、腐女子(笑)憧れの夢の世界へ

車寄せの玄関ポーチは・・締め切りで入り口は矢印の向こう。

格天井の美しさは、洋の中に和の凛々しさを取り入れた簡素で気品高い造り。

ポーチの前から見上げる塔屋の窓に思わずときめく乙女心(そこ、笑うとこではありません!)(笑)

玄関ポーチの真上には白い鎧戸付きの窓。室内には、柔らかなシャンデリアのオレンジの灯り。

窓の上には明り取りのドーマ。後ろに聳えているのは、多分暖炉の煙出し。

そのまま目線を横に移動させれば、お伽噺の王女様がふいっと顔を覗かせてくれそうな小窓が並ぶ塔屋・・・。あ、いきなり現実的な説明になりますが(笑)、元々は本館と合わせた高さの設計だったのですが、「揖斐川を見渡せるように」との清六の意向で4階建てに変更されたとか。最上階の窓から見る揖斐川はどんな風だったんだろう・・

庭に回って見上げる瀟洒な建物は、そのままお伽噺の舞台のようで、いくつになっても夢みる乙女心(そこ、以下略)を呼び覚ましてくれます(〃∇〃)

庭園に面して多角形に張り出した1階のベランダ。長いドレスの裾を翻して駆けてくるのは、長い黒髪を夜会巻にしたレディ諸戸。それとも小さなお姫様たち?

外観も素晴らしいのですが、やっぱりここまで来て中を見ないなんて有り得ない!(⌒∇⌒) ねぇ、この玄関ポーチのステンドグラスの暖かな色彩。

柔らかな光を投げかけるシャンデリア

真鍮で造られた装飾的な腕木

天井部には精緻な鏝絵が施された漆喰の・・これは何と呼ぶんだろう?

この部屋は何に使われていたのだろう?きっと主の商談はこの部屋で行われていたに違いない。目を閉じれば大きな取引を成立させて握手を交わす主と客の姿が・・

壁のライトは、満足げに微笑む主を見守るように光を投げかける。

磨きこまれた手摺りを伝いながら二階へ

差し込む光は今日も暖かいね。

柔らかな曲線を描く廊下の大窓から見下ろす緑の庭園。

意匠を凝らした2階のサンルームに立てば、白い窓枠は、まるで額縁のように影を落としそこに写る何もかもを、綺麗なポートレートに変えてくれる。それはまるで魔法の様に!。そうしてレディ諸戸は、愛する人の帰宅をここで待ちわびる。

移動するその折々に浮かんでくる物語は、美しい佇まいの建物に色を添え、香りを添えて私に話しかけてきます。

扉の向こうに広がる世界は、私たちには無縁だった煌びやかな世界。それをこうして自由に見られる事に単純に感動できるって、幸せだね。

あぁ、そういえば面白いと言うか、とても素敵な物を見つけました。今なら部屋の入口に当たり前についている照明用のスイッチ。この洋館の入り口にもありました!!「入る」と「切る」がそれぞれに設置されているのは、この時代ならではの事でしょうか。

流石は大正初期に、既に洋式の水洗トイレを備えた邸宅。何もかもが想像の域を超えて(笑)こういう時はやっぱり「ワンダフル!」って言うのかな(^▽^)

そうそう、もう一部屋「資産家の邸宅とはかくあるものか」と感嘆させられたのが、洋館なのに押し入れがあるこの部屋・・・何と女中部屋。

見所一杯の「六華苑(旧諸戸清六邸)」。明日は粋を凝らした和館の紹介です。

訪問日:2011年4月9日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 三重県旧桑名市(桑名市)

2018年02月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・三重県

古くより「鋳物の街」として知られる桑名。江戸時代、桑名には朝廷より鋳物製造を許可された、三軒の「御鋳物師(おんいもじ)」が存在していたと伝わっています。「勢州桑名に過ぎたる者は 銅の鳥居に二朱女郎」と里謡に歌われたという、春日神社の青銅鋳物の鳥居。高さ約7m、幅約6mで、その堂々たる威容は、 旅人の目を驚かせたと伝えられています。

明治22年(1889)、町村制の施行により、桑名郡桑名町・赤須賀村・益生村・大山田村・桑部村・在良村・深谷村・城南村、員弁郡七和村・久米村が発足。

1923年、桑名郡桑名町が赤須賀村を編入。

1929年、大山田村が町制を施行・改称して桑名郡西桑名町となる。

1933年、桑名郡桑名町が益生村を編入。

1937年、桑名郡桑名町が西桑名町を編入。市制を施行し桑名市となる。

1951年、桑名郡桑部村・在良村・員弁郡七和村を編入。

1955年、桑名郡深谷村、員弁郡久米村大字坂井・赤尾・友村・島田・志知を編入。

1956年、桑名郡城南村を編入。

2004年、桑名郡多度町・長島町と合併、(新)桑名市となりました。

旧桑名市のマンホールには、市章を中心にキャラクター化された「はまぐりファミリー」がデザインされています。

その昔、大名貴族のお姫様が、お嫁入り道具の一つとした、蛤の殻を装飾した雅な「貝合」。さて・・桑名が蛤の特産品というのは大昔の話になってしまいました。現在日本で流通する蛤のうち、桑名産天然蛤はわずか2%・・よほどの老舗で供されるもの以外「中国産の冷凍蛤」だと、地元の知人から教えられがっかりした思い出が・・(^^;)

昭和12年(1937)4月1日制定の旧市章は「「桑」の略字体「桒」を図案化し、中央に「太陽」を配置したものです。」合併協議会資料より

バルブ

制水弁

バルブ・ガス

桑名市今中町に門を構える「専正寺」の一画に建立された、市指定文化財「蛤墳(こうふん)」碑。

「昔この辺りは漁村で、付近一帯にたくさんの貝殻が埋もれていたので、文政六年(1823)に今一色に住んでいた谷氏が蛤の供養のために、この碑を正念寺(現在専正寺)に建てた。碑文は。桑名の狂歌師黒沢行業(一雲山人)に依頼したものである。行業は国学者・歌人として有名だった桑名藩士黒沢翁満の父。今でも時雨蛤の業者が毎年、供養を行っている。

【あまおふね  のりのみ声に はまぐりの  貝の耳にも とめてしのばむ】」

公式HPには「もとは1m足らずのものであったのを、大正年間、時雨蛤の同業8人が現在のように改築したものである。」と紹介されています

撮影日:2011年4月9日&2017年3月26日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 三重県桑名市

2018年02月26日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・三重県

桑名市(くわなし)は三重県の北部、木曽三川河口に位置する市です。2004年12月6日、旧桑名市、桑名郡長島町、多度町が対等合併し新たに桑名市となりました。古来より伊勢国東の玄関口と位置づけされ、七里の渡には「伊勢神宮・一の鳥居」が立ち、東海道随一の宿場町・港町として栄えてきました。

歌川広重「東海道五十三次之内 桑名 七里渡口 」

また、桑名は古くから「鋳物の街」としても知られています。 伊勢国桑名藩十万石の初代藩主となった『本多忠勝公』から 鉄砲製造の命をうけて本格的に始まった「くわな鋳物」。道路に設置されたマンホールは、鋳物製品の代表格かもしれませんね。「市の木:カイヅカイブキ」「市の花:花しょうぶ」を制定。

キャッチフレーズは「水と緑と歴史が育む豊かな快適交流文化都市」

マンホールには、「県指定史跡:七里の渡」と、宮宿へと向かう「七里の渡舟」、長良川~揖斐川にかかる「伊勢大橋」が描かれています。

桑名  保勝會建立「七里のわたし」

消火栓にも同じデザインが採用されています。

路上のタイル絵

桑名市無形文化財に指定されている「桑名の千羽鶴」がデザインされたマンホール。

路上のタイル絵

一枚の紙から数羽の連続した鶴を折る独特の連鶴。その技法は、桑名の長円寺11世住職『魯縞庵義道(ろこうあんぎどう)』によって江戸時代に考案。その後18年の歳月を費やし、現在の折形を完成させました。

古い諺にも謳われる「その手は桑名の焼き蛤」。桑名は江戸の昔から「焼き蛤」が名物で、マンホールにはキャラクター化した「ハマグリ」たちが、市章を中心に輪になっています。

旧長島町デザインマンホール、自治体章が桑名市市章に変わりました。

2004年12月6日制定の市章は「水と緑が交流の輪を描く様子を表現し、その中央にハマグリの姿を描き市の文化や歴史をイメージしました。円満に発展し、快適で住み良い桑名市をシンボライズしています。公式HPより

仕切弁

空気弁

防火水槽

止水栓

水道メーター

方位表示マンホール

路上タイル「市の花:花しょうぶ」

桑名商工会議所所属・桑名市認定キャラクターの『ゆめ はまちゃん』。木曽三川河口からやって来ました。ゆるい容姿が何ともかわいい、夢見るハマグリの女の子です。

飛び出し注意のキャラクター『くわっぱ』。「わっぱ」は「童(わらべ)」の事で、さしずめ「桑名のわらべ=くわっぱ」かなと解釈しました。本当の所は???のまま(笑)

撮影日:2011年4月9日&2017年3月26日

------------------------00----------------------

新旧のマンホールが数多く混在する桑名市。明日は旧自治体章が有る「旧桑名市」のマンホール紹介です。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三重県桑名市A&Bのマンホールカード

2018年02月26日 07時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・三重県

2017年12月9日、第6弾として全国64自治体で66種類(計252自治体293種類)のマンホールカードが配布されました。桑名市のマンホールカードは桑名駅東口にある『桑名市物産観光案内所』で頂けます。記念スタンプは『夢見るハマグリの女の子:ゆめはまちゃん』。

2005年に設置されたマンホールには、市章を中心に可愛らしくデザインされた「ハマグリ」が並んでいます。

【桑名の蛤(はまぐり)は、古くは東海道中膝栗毛で紹介され、江戸時代には将軍家に献上されました。 当時から、焼き蛤と時雨(しぐれ)蛤は桑名の名産として全国に知られ、「その手はくわなの焼き蛤」というしゃれ言葉も生まれたほどです。 桑名の蛤は、木曽三川の淡水と海水が混ざり合う生息環境のおかげで、ふっくらと身が大きく、味わい深いのが特徴。 本マンホール蓋はその桑名産の蛤を可愛らしくデザインしたもので、中央には、旧桑名市・旧多度町・旧長島町の合併後の市章をあしらっています。 桑名市は鋳物の街としても知られていますが、マンホール蓋はその鋳物の代表格に挙げられます。】

カードに使われた座標軸のマンホールは、配布場所の斜め前に設置されています。カードにもマンホールにも興味があり、しかも遠方から来る方にとってはとても嬉しいい配慮。

雪の関が原を越えてきた甲斐あって、無事マンホールカードGETできました(⌒∇⌒)。

訪問日:2017年12月13日

------------------------00----------------------

桑名市Bのマンホールカード頂きました

2022年1月15日、第16弾として全国41自治体で42種類(累計621自治体822種類 )のマンホールカードの配布が 開始されました。「桑名市B」のマンホールカードは、「宿場の茶店一(ハジメ)」でいただけます。

2018年に設置開始されたマンホールには「七里の渡」と「伊勢大橋」がデザインされています。

「東海道42番目の宿場町として大変な賑わいを見せていた桑名宿と宮宿(名古屋市熱田区)の間は東海道唯一の海路で結ばれていました。「七里の渡」の名称は、宮宿から桑名宿までの海上距離が七里(約28km)であったことに由来しています。また、七里の渡し場は伊勢国の玄関ロにあたり、ここに立つ大烏居は、これより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称されています。マンホール蓋には七里の渡の風景と長良川、揖斐川にかかる伊勢大橋、その向こうに臨む伊勢湾が描かれ、新旧の交通路をあらわしています。」

「七里の渡(2011年4月9日)」

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三岐鉄道・駅めぐりPart 2 in 三重県いなべ市

2018年02月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

藤原町から大安町へ、次の駅はいなべ市大安町丹生川中にある「丹生川(にゅうがわ)駅」。側線には、昭和6年から製造された危険物専用の二軸タンク貨車(私有貨車)が展示されています。

「タム8000型」は昭和37年に製造された、純アルミ製の15トン積過酸化水素専用タンク車。純アルミ製は鉄製より高価で強度が劣りますが、過酸化水素が分解するのを抑制します。

「タム500型」は1959年日本車輛の製造で、積載重量15トンのガソリン専用の小型タンク車。タンク車には「日本石油輸送株式会社」の文字と、JOTを図案化した社章が鮮やか。

「タム200形」は新潟鐵工所で製造された、アルコール専用私有貨車(タンク車)。黒い車体に白く「日本アルコール株式会社」の文字と、Aを図案化した社章が鮮やか。

貨物鉄道博物館横の蒸気機関車は、明治31年に英・シャープ・スチュアート社に発注したものです。明治36年に国有化され、大正11年には東武鉄道B4形39号となって、貨物列車牽引に活躍しました。蒸気機関車の後ろには「ト1形」「ホサ1形」の無蓋車や、「ワ11形」の有蓋車が繋がっています。

この建物は「貨物鉄道博物館」の倉庫のようですが、シャッターは閉ざされて詳細は不明。

「丹生川駅」の線路沿いで見つけたのは、「三岐」の文字が刻まれた三岐鉄道の境界杭。こうした境界杭は色んな場所で目にした筈ですが、きちんと気が付いたのは初めてかもしれません。

続いて向かったのはいなべ市大安町大井田にある「大安駅」。縁起の良い駅名として有名。その縁起の良い駅名から、記念に切符を買ったり、駅名の前で写真を撮る人も多いそうです。いなべ市大安図書館を併設するイギリス積煉瓦の駅舎は、第1回中部の駅百選にも選出されています。

駅前広場には幾つかの碑や祠が点在しており、その中の一つがこの『二宮金次郎像』

かなりの時代を経たと思われる「民俗文化財・弁天祭 大安町」と刻まれた碑。

丁度電車が入ってくるとのアナウンスが聞こえてきたので、記念に一枚と小走りに(*^^*) 後で調べたところでは、この鮮やかな黄色い車体は「三岐線 101系」の電車。

三岐鉄道、最後の駅はいなべ市北勢町阿下喜にある「北勢線・阿下喜(あげき)駅」。西桑名駅 - 阿下喜駅を結ぶ 20.4kmの路線の終着駅で、昭和6年7月8日に開業しました。阿下喜駅の南側には、市民団体によって運営されている「軽便鉄道博物館」があります。

また、昭和6年製の軽便電車「モニ226号」も保存されており、外観を見ることも出来ます。

構内の一画にある転車台は、過去に当駅で実際に使われていたものを移設したそうです。

三岐鉄道の幾つかの駅に残された鉄道遺産は、幾つもの歴史を確実に刻んできたものたち。町が歩んできた繁栄や、一時期の苦しい時代の何もかもを、実際に見てきたものたちです。またいつか、こうした歴史を生き抜いてきたモノたちを訪ねて旅が出来たら、きっと素敵でしょう。

訪問日:2017年3月25日

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三岐鉄道・駅めぐりPart 1 in 三重県いなべ市

2018年02月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

「三岐鉄道(さんぎてつどう)」は三重県北部の北勢地域で、三岐線と北勢線の鉄道2路線を運営する鉄道会社。社名は、かつて三重県と岐阜県(関ケ原)を結ぶことを目的としていたことに由来。いわゆる鉄オタではありませんが、ローカルな駅巡り・・結構好きです(^^;)
いなべ市藤原町大貝戸にある「西藤原駅」は、三岐線「富田駅 - 西藤原駅」の 終着駅。 三重県内鉄道駅の最北端に位置する駅舎は、蒸気機関車が客車を連ねている様子を模しています。

2001年には開業70周年を記念して、蒸気機関車のテーマパーク「ウィステリア鉄道」がオープンし、2015年3月まで運行されていました。その後「ウィステリア鉄道」の線路を使い、桑名工業高等学校機械系・電気系の先生と生徒によって、2017年1月、庭園鉄道「桑工ゆめ鉄道」がオープンしました。

公園内には蒸気機関車やディーゼル機関車、電気機関車も展示されており、自由に見学できます。「E102号機」は、三岐鉄道開業時に大阪の汽車製造会社で新造された2両のうちの1両。総重量43.5トン、当時のお金で18,000円(1億8千万)だったと記録されています。

「ED222号機」は大正15年に信濃鉄道が米国ウエスチングハウス社に発注して製造されたもので、車体はボールドウィン社製。昭和初期に、国鉄大糸線(松本~信濃大町)で使用されていました。日本でも数少ない凸形機関車で、昭和31年に三岐鉄道へ譲渡。構内の入換用として活躍しました。

昭和46年から18年余り、八田駅構内でセメントの貨車を引っぱる為に使用されていた「DB25号機」。 現役を引退したあと、三岐通運㈱の藤原営業所に展示されていましたが、ここにお引越しです。

鉄道好きにはたまらない一等地、ご亭主殿も子供時代にタイムスリップした気分。 これで現役の電車でも来れば最高ですが、そうそう都合よくは行かないようです(笑)

次の三岐線立ち寄り駅は、いなべ市藤原町東禅寺にある「東藤原駅」。駅前には、セメント専用のホッパ車(私有貨車)「ホキ5700形貨車」が保存されています。 車体には「小野田セメント(現太平洋セメント)」の社名と社章が鮮やか。

藤原岳の周辺は石灰岩の埋蔵量が30億トンを超えると推定されており、昭和7年以来、小野田セメント(現、太平洋セメント)藤原工場が操業しています。

東藤原駅の北側には太平洋セメント藤原工場への専用線もあり、ED45形の電気機関車も待機中。 太平洋セメント専用線で入換作業中のED458という画像が駅舎にありましたが、何の入換なのか実は全然わかっていません(-"-)

訪問日:2017年3月25日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 三重県旧藤原町(いなべ市)

2018年02月23日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・三重県

旧員弁郡藤原町(ふじわらちょう)は三重県の最北端に位置し、岐阜県と滋賀県に境を接した町です。東近江市との境界にある標高1,144mの藤原岳は、鈴鹿山脈の北部に位置し、日本三百名山及び関西百名山、花の百名山に選定されています。古くは「志礼志の郷」と呼ばれ、その名の示すように藤原氏ゆかりの地として繁栄しました。

明治22年(1889)、町村制の施行により、員弁郡東藤原村・西藤原村・白瀬村・立田村・中里村が発足。

1955年、員弁郡東藤原村・西藤原村・白瀬村・立田村・中里村が合併、員弁郡藤原村が発足。

1967年、藤原村が町制を施行、員弁郡藤原町となる。

2003年、員弁郡北勢町・員弁町・大安町と合併、いなべ市が発足。いなべ市藤原町となりました。

マンホールには「藤原岳」を背景に、「町の花:藤」がデザインされています。

庁舎から望む「藤原岳」

昭和38年8月1日制定の町章は「頭文字の「ふ」の字を円形にマーク化したもの」合併協議会資料より

減圧弁

仕切弁

空気弁

防火水槽

農業用水仕切弁規格蓋

撮影日:2011年4月9日&2017年3月25日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧阿下喜小学校校舎 in 三重県いなべ市北勢町

2018年02月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

三重県いなべ市北勢町阿下喜に残された「登録有形文化財:旧阿下喜小学校校舎」

昭和12年3月、阿下喜(あげき)町立尋常小学校校舎として建設され、昭和56年に鳥坂野(とりさかの)に新校舎が完成するまで、多くの児童生徒たちの学び舎として活躍した「阿下喜小学校」。

学校移転に伴い取り壊される予定だった校舎は、住民たちの保存の要望を受け、正面校舎の一部規模を縮小し同校地の北側に移築保存。その後「文化資料保存施設:桐林館」として昭和59年2月に開館を迎えました。

切妻造の玄関ポーチと塔屋

屋根中央の塔屋

ドーマ(換気窓)

玄関ポーチから見る廊下側の窓

明かりも無く、人の気配が感じられない玄関。

生憎の雨模様でしたが美しい小学校校舎に出会えて気持ちはほっこり。名残を込めて振り返った視線の向こうにぽつんと佇む小学校校舎・・・やはり学校の建物には子供たちの姿が一番よく似合う・・・一抹の寂しさに何度も振り返ってしまう。

「旧校地の北奥に南面し、木造平屋建、寄棟造桟瓦葺である。南面中央に切妻造の玄関を構え、屋根の中央に塔屋を載せ、左右にドーマー窓を飾る。外壁の腰を下見板張とし、小屋はキングポストトラスを組む。外観や内部造作とも旧規をよくとどめる戦前の木造校舎。」文化遺産オンラインより

「また、校地と道路とを画する石造の門と石柵は、明治後期の尋常小学校開校時の面影を伝えており、2014.年国登録有形文化財に登録されました。」

訪問日:2011年4月9日

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする