車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

峨嵋山:普賢寺 in 山口県光市室積

2024年06月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

光市室積、峨嵋(がび)山の北麓に門を構える、臨済宗:妙心寺派寺院「峨嵋山普賢寺」。海の守護神とされる『普賢菩薩』を本尊とします。

縁起「播州書写山円教寺の住職である性空上人は、長年、普賢菩薩を拝したいと願っておられた。ある夜夢のお告げにより、周防室積の地に錫を留めるに至り、当時の古老に種々の昔の話を聞かれた。そして漁師の手によって沖合の海中より出現の霊像を拝され、此れを普賢山上大多和羅山に庵を結び安置された。後年現在の場所に普賢寺御堂が建立され、本尊として安置されている。創建当時は天台宗であったが、後に臨済宗となり現在に至る。江戸時代全期及び明治初年の版籍奉還までは毛利公の祈願所とされ、お手普請寺として寺格は高かった。」

寛政十年(1798)の建立とされる入母屋造、三間一戸の仁王門。その左右より普賢菩薩を守護されるのは、身の丈3m程の吽形:那羅延金剛、阿形:密迹金剛像。お顔立ちが見知っている誰かに似ていて、思わず誰だったか?と、一思案😅。

仁王門から真っ直ぐ正面に「普賢菩薩堂」

参道緒中に建立された、撫で牛ならぬ「撫で象」は・・初見です😲 天神様には「牛」が定番。普賢菩薩様は像の背に乗られているので、これまで見た事が無かったことが不思議だったかも😊

後姿が何ともプリティーで、思わず撫でてしまった・・撫で象様のお尻 😅

参道途中に架かる石橋は、寛政元年(1789)8月、徳山の『石工・浜田屋平左衛門』による建造。

主要伽藍を取り囲むように作られた環濠は、木々の影を写し、しっとりと落ち着いた風情を見せる。

色鮮やかな鯉に混じって黒く蠢くのは・・以外に大きな亀の軍団😅

参道正面に「香炉」があり、後方に普賢菩薩像を安置する「普賢堂」。現在の普賢堂は天明8年(1788)に建て替えられ、大正6年(1917)と1992年に改修されたものです。

「普賢堂」唐破風向拝の天井には、干支が描かれた羅針盤。海運で栄えた室積らしい意匠ですが、何時の時代の奉納でしょうか?

「普賢堂」と、『性空上人・薬師如来像』が安置される「開山堂」とをつなぐ朱塗りの橋。

普賢寺「本堂」

本堂右手の玉垣の内。左に芭蕉句碑【庭 掃(はき)て 雪をわするゝ 箒(ほうき)かな】。二基目に「平判官康頼の碑」「宝篋印塔」「五重石塔」、右端には萩藩主毛利吉就が性空上人の事跡を偲んで貞享三年に建立した「室積性空上人の碑」。

治水年間、京都の鹿ケ谷事件に連座した平康頼は、僧俊寛と共に鹿児島の鬼ヶ島に流罪となり、途中瀬戸内海で時化に会い室積の浦に立ち寄った。その折に受戒し、名を性照と改め一首の歌をとどめた。(境内案内より
【 ついにかく そむきはてけむ 世の中を とくすてざりし ことぞくやしき 】

普賢寺方丈の南庭に、雪舟の築造と伝えられる「普賢寺庭園:雪舟庭園」

「峨嵋山を背景に前面を池に見立てて、東南部に枯滝(三尊石)を中心に両側に組み込んだ豪華・雄大な石組は、枯山水庭園の初期の特徴を表している」とのこと。時間に余裕があれば・・は、「今回はパス」の合言葉😅

参拝日:2013年4月18日

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tibineko一口メモ

「三間一戸」とは、正面からみて柱間が3間あり、そのうち1間分が通路になった型式。寺の山門に多く見られる。

 

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浅江(あさなえ)神社 in 山口県光市浅江

2024年06月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

光市浅江に鎮座される「浅江(あさなえ)神社」。御祭神は『別雷公命(わけいかづちこうのみこと)・玉依姫命(たまよりひめのみこと)・神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)・應神天皇・神功皇后・宗像三女神・大山咋命(おおやまくいのみこと) 』

「加茂大明神は中世からの古社で山城の国より勧請。山王八幡宮は大宝三年豊後の国宇佐宮より勧請。二社に山王原の一社(祭神、大山咋命)を併せ、山王八幡宮と賀茂社を合祀した為、明治4年(1871)、浅江神社とした。」公式HPより

石段参道の上、石灯籠の前より神域を守護されるのは、天明八年(1788)戊申建立の狛犬さん一対。大きく耳まで裂けた口に大きな鼻。首の下に丸まった毛が口元の危険さを上手に隠しています。吽形さんには立派な角が。

参道正面には、まだ木の香も清しい拝殿。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、昭和40年(1965)10月建立の出雲型狛犬さん一対。日本海側から瀬戸内海側へ・・きちんと前足をそろえた狛犬さん。瀬戸内の海の匂いは如何ですか?

御朱印を頂いた後に宮司さんから「この神社は平成3年(1991)の台風17号により大きな被害を受けました。表参道の階段を駆け上がる強風は境内の裏まで走り抜け、社殿や鎮守の杜に大きな被害をもたらしました。その被害のために、社殿を立替えることになりました。」と、辛い記憶を話していただきました。強風が走り抜ける・・2018年に近畿を襲った台風21号で同じ体験をした今なら、その風の恐ろしさが身にしみてわかります。

被害を受けた鎮守の杜は、新しいしゃくなげ苑として翌年に整備した事もその時にお聞きしました。

境内の一画に祀られていた「石祠」

「京方」と読んでよいのか?、この碑に関する文言が何処にもなく、仔細は不明。

裏参道、初夏の頃にはこの石段の左右は薄紅色のシャクナゲの花に彩られるのでしょう。

参拝日:2015年11月16日

 

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笠戸島~あちこちウォッチ in 山口県下松市

2024年06月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

マンホールのデザインにも使われた「笠戸(かさど)大橋」。昭和45年に完成した真紅のランガートラス橋で、その鮮やかで美しい橋姿は下松市のランドマーク的存在としても知られています。

海上の橋は総じて「怖い」私ですが、橋長476.2 mという距離の短さが味方して、足がひきつる事もなく無事に笠戸島に降り立ちました😊

最初の立ち寄り地は「夕日岬」。西日本有数の美しい夕日が望める絶景スポットとして知られていますが、現在時間は午前九時少々。

夕日も魅力的ですが、絶対に安全な場所から見る瀬戸内海の朝の眺めは最高に素晴らしい💕 右手に見えるのは、海水の浸食により穴の開いた「はなぐり岩」。

「はなぐり」は牛の鼻輪の「鼻ぐり」。時間帯によっては岩の側まで行けるそうですが、海に沈む場所と言うのは・・ちょっと😓

続いて訊ねたのは「はなぐり海岸 海上プロムナード」。これだけしっかりと柵に守られていたら、いくら根性無しの私でも大丈夫。余裕でデジカメの操作も出来ます。

緑の切れ目から差し込む朝のひかりを背中に浴びて、ちょっと不思議なプロムナードのご亭主殿。

等と遊んでいたら、いつの間にか素敵なお客様が😊

漂着ごみの無い海は本当に綺麗で美しい。でももしかしたら、この綺麗さも誰かの働きによって保たれているのかもしれない。

忘れてはいけません。ここでのお目当ては「笠戸ヒラメ発祥の地」碑。碑文には「特産品となっている「笠戸ひらめ」の原点であることを示す記念碑であり供養碑でもある。2005年9月/下松市観光協会/ひらめ供養奉賛会」と刻まれています。

本体「ひらめ」サイズ 約120W×75H×20D。ド~~~~ンと立派に目立って美味しそう😆

そう言えばここに来るとき、どこかの道路の柵にもヒラメがいたよ。

夕日岬から見えた「はなぐり岩」、あれ?どっちがそうなんだろう?。

散歩を終えて駐車場に。休憩コーナーで可愛い猫さんに出迎えられた二人。猫好きには嬉しいけれど・・。人懐こくすり寄ってくれる猫さんを撫でながら、どうかきちんとお世話されている地域猫でありますように・・🙏

予定ではこの後「外史公園」まで走って『長岡外史像』を見る予定だったのですが、公園が工事中という事で道路は封鎖。仕方ないので案内看板の外史像を😓

帰路に見かけた「はなぐり海水浴場」。流石に11月のこの時期は静かなものです。

綺麗な赤い花・・何の花?」と珍しく尋ねるご亭主殿。「あれはねアメリカディゴ。花は食べられるんだよ。」「ふ~~~ん」

名残り惜しいのは、目にした一つ一つが素晴らしい物だったから。さりとてここに居座るわけにはいきません。私たちはまだ旅の途中なのだから。

訪問日:2015年11月16日

 

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花岡八幡宮 in 山口県下松市末武上戎町

2024年06月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

下松市末武上戎町に鎮座される「花岡八幡宮」。御祭神は『第一座:誉田別命、第二座:市杵嶋姫命、田心姫命、多岐都姫命、第三座:息長足姫命』。通称「花岡の八幡さま」と称されます。

「第四十三代元明天皇の和銅二年(709)豊前国宇佐より八幡宮の御分霊を勧請と伝わる。御鎮座の折、御神託により一夜にして全山花に覆われた為、花岡を称すると云う。鎮座以来、重源上人による社殿の再建をはじめ、大内、陶、毛利歴世の尊崇篤く、文化文政期に相次いで社殿の再建が成された」公式HPより抜粋

楼門形式の神門

神門には西の甚五郎といわれた江戸時代の宮大工『岩瀬長五郎』の彫刻。今にも飛び立たんとする一対の阿吽の鷹。

それぞれに、四十頭の馬が描かれた格天井。

神門前左右より神域を守護されるのは、大正12年(1923)癸亥9月吉日建立の徳山型狛犬さん一対。相変わらずの肩に流れる巻き毛がチャーミング。吽形さんには角があります。

裏から見る神門は、まるでお寺の門を想像させます。

神門入ってすぐに、神仏習合の名残を今に伝える「多宝塔:閼伽井坊塔婆(あかいぼうとうば)」。藤原鎌足が建立したと伝えられ日本十六塔の一つで、国重要文化財の指定です。

「多宝塔重脩碑(たほうとうじゅうしゅうひ)」。昭和三年に行われた多宝塔解体修理事業を記念して昭和四年六月に建立。

閼伽井坊塔婆の近くに見かけた「吉田松陰先生:座像」

更に石段参道を上り、正面に重層拝殿

拝殿前左右より神域を守護されるのは寛政九年(1797)丁巳暮穐建立の狛犬さん一対。阿吽ではなくどちらも「アー・ウー」だそうです。

御本殿背面

背面より神域を守護されるのは明治36年(1903)癸卯3月吉日建立の徳山型狛犬さん一対。中々の強面なのは、背面の守護を一手に引き受けている所為なのかも。

境内社:「大年社・住吉社・塩竈社・高良社」

「願掛けの御神馬」、金毘羅宮の御神馬とは兄弟だそうです。

「鐘楼」

境内から見る参道、あれこれと見逃してしまった境内社や、守護の狛犬さんたち。一の鳥居から参拝できなかった事は心残りではあるけれど、ここまで参拝できただけでも上々と感謝しなければ。

参拝日:2015年11月15日

 

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三丘徳修(みつおとくしゅう)公園 in 山口県周南市安田(旧熊毛町)

2024年06月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

周南市安田、三丘徳修(みつおとくしゅう)公園の一画に建つ「徳修館(とくしゅうかん)」

徳修館(とくしゅうかん)は、三丘領主宍戸氏(毛利一門筆頭)第8代宍戸就年(ししど なりとし)が、士民教育振興のため文化6年(1809年)10月に郷校として創立したものです。その後、弘化3年(1846)4月、第10代宍戸元礼(もとよし)のとき、萩の明倫館に模して本堂(聖廟)が新築されました。この聖廟が現在残っている徳修館です。

2009年に山東省から贈られた「孔子像」

建物前の案内によれば「創立当初の徳修館は、中央に聖廟、左に講堂、右に習礼場(道場)など、その建物は大小10棟を数え、別に槍術場、乗馬調教練兵場などがあり、総敷地面積は1町5反歩(15,000㎡)におよんだといいます。また、維新前には、生徒数402名(内寄宿生48名)、教員数30名の記録があり、その盛況ぶりがうかがえます。しかし、維新の大改革により徳修館も閉鎖される運命となり、明治3年(1870)10月1日、領主、家臣、生徒一同が徳修館に集い、解散の式が挙げられ、その役目を終えました。」

「贈従四位宍戸親基(ししど ちかもと)公碑」市指定有形文化財

「禁門の変では藩内の鎮静に努め、馬関戦争の講和使節として活躍し俗論の鎮撫に奔走。四境戦争では芸州口の指揮官として幕府軍を撃破。その後徳修館で後進の育成に尽力。大正四年(1915年)に従四位の官位を贈られた事を記念して旧臣達が建立」と言った趣旨が案内に記されています。

公園内の一画に何やら小難しそうな😓「島田川中流域遺跡群と高地性集落研究」。ざっくり抜き出すと「高地からは比高差がある山や丘陵の上で、弥生時代を中心に営まれた集落を高地性集落と言います。昭和20年代に天王遺跡・岡山遺蹟を始めとする島田川中流域遺跡群の調査を~略~昭和60年代の山陽自動車道建設に伴って山口県教育委員会によりこれらの遺跡の発掘調査が行われました。それによって~弥生中期から後期にかけて営まれた集落跡~」

徳修館の裏手に「弁慶穴古墳」の案内があり「元は熊毛北高校にありましたが山陽自動車道建設に伴い昭和62年に発掘調査し、その後この公園内に移築復元しました。石室は片袖の横穴式、石材は付近の花崗岩を使用。排水溝は側室を立てた部分と、素掘りの部分からつくられています~略」

大型の横穴式石室で全長約7m。石室の玄室と外部を結ぶトンネル状の部分にあたる羨道(えんどう)は、ほぼ上部が失なわれており、羨道床面には排水溝が設けられています。

玄室部の様子。下部には大型石材、上部の石材は小型。移築の証拠に石材に番号がふられており、まるでプラモデルかジグソーパズルみたい😅 しかも間違えないように、左は四角 右は三角 奥は丸と分けてあるし。

敷地の一画に見かけた句碑【 ふるさとに おちつく日ざし 返り花 早々子】

紅葉に染まる三丘の山

ゆったりと流れてゆく時間、広い公園内には私たち以外に人の姿はなく、久しぶりにのんびりと寛いだ訪問でした。

訪問日:2015年11月16日

 

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周南市あちこちウォッチ in 山口県周南市

2024年05月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

周南市土井にある「国登録有形文化財:旧日下医院本館」。昭和3年(1928)に医院として建てられたもので、現在は複合ショップとして活用されています。

「西面して建つ木造2階建。L字型に落棟を設ける寄棟造瓦葺。正面は中央北寄りに車寄を設け、窓を南に3ヶ所、北に2ヶ所開け、柱型を表す。外壁はモルタル塗で、2階窓下などに幾何学的な装飾を施す。セセッション風意匠になる昭和初期の建築として親しまれる。」文化遺産オンラインより

遠目から改めて眺めても異彩を放っています。

周南市晴海町にある「晴海親水公園」。今日のお昼はここで用意したお弁当を頂きます。広大な敷地に他に人影はなく、贅沢過ぎる休憩時間を過ごしました。

眼前に繰り広げられるのは、工場群やクレーンなどが立ち並ぶ周南コンビナート。その圧倒的な迫力に、しばし時を忘れて見入る二人・・・

「東浜崎の石灯台」は、明治26年(1893)、当時「共栄社」の代表であった『光永又之丞』によって建立されたもので、 ランプによって点灯していました。役目の終 わった灯台は、2002年3月に、船から一番よく 見える徳山湾頭の親水公園内に移転。徳山の明治を象徴する建造物とし て、その雄姿は今も人々から親しまれています。

「遠石神社」の近くで見かけた「吉田屋醤油(株) アサヒワシ醤油」の鏝絵看板。その迫力の凄さに思わず「この醤油、買いたい!!🌸」

同じく、近くで見つけた「基準点」

訪問日:2015年11月15日&2017年11月29日

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2015年・2017年の山口車泊旅では、「道の駅ソレーネ周南」にて車中泊をさせて頂きました。美味しい物が一杯の店内、ついついあれこれと買ってしまって・・さぁ、どうやって狭い車内に収納しよう😓

2015年の翌朝は、陸上自衛隊の「軽装甲機動車:96式装輪装甲車」の展示があるという事で、出発時間を大幅にずらして・・いや~何だろう?この頼もしさ。元々、応援していた自衛隊の活動ですが、阪神大震災を経験し、より一層有難さを感じるようになりました🙏

で・・・、自分では食べられないくせに、ご亭主殿御所望の「海軍カレー」二種、外色々・・買ってしまいました😆

2017年の車中泊ではこの「巨大な梨」他、色々お買い上げ。「大丈夫か??🍀」とご亭主殿。「食べきれるの??🐣」とJさん。大丈夫、ちゃんと二日で完食しました😆

車で旅をする者にとってこの様な道の駅は本当に有難く大切な場所です。

改めてその折には有難うございました🙏🙏🙏

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川崎観音堂 in 山口県周南市川崎(旧新南陽市)

2024年05月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

周南市川崎に門を構える「周防国三十三観音霊場:西国十八番」 「霊峰山:川崎観音堂」『十一面観世音菩薩』を本尊とします。

川崎観音(音羽観音)由来に「当寺の観世音菩薩は平安時代末期(1183~)平家の武将「平の景清」が兜の八幡座に頂き幾多の戦陣を駆け巡るも観音加護により身に寸傷も受けなかったという御身丈一寸八分の十一面観世音菩薩である ~略」

元は「曹洞宗寺院:萬福寺」というお寺でしたが、萬福寺が北方の須々万地区に移転し、観音堂だけが残されました。安産とお乳の観音様として知られ、お乳の奉納絵馬が有名である事から、別名「おっぱい観音」と呼び親しまれています。

個人的に感動してしまった「おっぱい」。柔らかなタオル地を使い、レース編みと真珠色のビーズで大切な部分を作っています。きっと生まれてくる赤ちゃんは、ママの手作りの玩具や産着に囲まれるんだろうな。

子安地蔵尊

「石祠(せきし)」と碑

勇猛な平景清が海岸から運び上げたと伝わる「景清の力石」。力石を撫で、自分の腰から下の患部を擦れば腰痛などの治癒に霊験ありと伝えられてい ます。

目を患った景清が、井戸の清水で目を洗ったと言われる「景清の目洗い井戸」

「目の悪い人は自分の定規箸で井戸から出る溝のゴミを取り除くと霊験あらたかといわれています。「金」等投入すると目病になると言われています」・・と書かれているにも拘らず小銭を投げ入れる人・・ここはトレビの泉じゃありません。ちゃんと賽銭箱がありますよ😠

「楠洞中村先生の墓」・・ごめんなさい😓 何方なのか存じ上げません。

御詠歌【 ちかいある 仏の御手のかずかずに 手間の糸を かけて頼まむ 】

参拝日:2015年11月15日

 

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山崎八幡宮 in 山口県周南市富田河内(旧新南陽市)

2024年05月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

周南市富田河内に鎮座される「山崎八幡宮」。御祭神は『応神天皇』『田心姫命(たごりひめのみこと)・湍津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・神功皇后』を配祀します。

由来書に「新南陽市富田河内の神室山に神が降臨され、これを祀った。また一説には、豊前国宇佐より御分霊を祀ったとも言われている。和銅二年(709)八月に、現地に鎮座され[江宮(えのみや)」と称した。大同元年(806)・宝暦七年(1757)火災により、社殿・宝物・古文書等はすべて焼失。神仏習合の時代には真言宗の荘宮寺と習合し「荘寺八幡宮」と呼ばれていた。明治維新の神仏分離により「山崎八幡宮」と改明。明治四年に郷社となり、明治九年(1871)に社殿を再建。昭和五年、県社に昇格。」

龍門(楼門)

龍門(楼門)前左右より神域を守護されるのは、安永六年(1777)建立の上宮型浪花狛犬さん一対。スラリと細身の体に小ぶりの尾団扇。口元も程々で狛犬界では紳士顔の一対😊。

楼門左右の水盤には清浄な榊が置かれており、これを用いて身を清め、神前に参拝します。

拝殿

奉納絵馬は「霊峰富士の鏝絵」

境内の一画に建立された亀趺「洞春公(元就)の安芸に起こるや、使を遣わして以て祈ることしばしなり、兵出でて勝たざるはなし、十州を奄(領)有す、以て冥裕(めいゆう、神仏のご加護)の使事する所となす」とあり、毛利氏も篤く崇敬し、江戸時代には徳山藩の御祈願所として、歴代藩主が度々社参した。文化四年(1807) 南部伯民 撰文

亀趺の近く、石灯籠を間に神域を守護されるのは「大正十五年(1926) 徳山町遠石 石匠 武田道助」の刻を持つ徳山型狛犬さん一対。阿形さんの四角い口が妙にツボ😅

拝殿前右手にはキリンビールの製壜工場に設置されていた「麒麟像」2013年の山﨑八幡宮御鎮座1300年に合わせ、富田で親しまれてきたキリンビールの製壜工場があった証として奉納されました。

本殿の右にしつらえられた「築山枯山水」

築山之碑詞略~南には黒髪島、竹島などしまじまならび南の海辺なる島々より ここらの石を運びてその狭間には様々の草木を植えたり巌の佇まい坏 いとめづらかになむ されば春は花のころ 秋は紅葉の時など 人の心をゆかしむべし掛巻もかしこけれど 折々は神のみ心を慰め給ふらん かかれば菊川の久しくしくまがだけの動きなく御社の栄む事を寿ぎつつ かしこみかしこみもしるす 長門国住吉神社宮司  明治二三年八月 ~略

境内の一画に鎮座されていた石。奥に見える輝石は・・もしや「黒髪島水晶」では😍

本山坂の石段参道の一角に『青木健作』句碑。

【 寒月や 干潟に光る いかの甲 】

「御神田記念碑」

境内から見下ろす鳥居、真っすぐに続く宮の前。亀趺の一文に「古くは社の前は海辺であった。虎の形をした洲があり、これを虎の洲といった。」

山崎八幡宮の境内下に門を構えるのは、かって神宮寺であった「真言宗寺院:荘宮寺(しょうぐうじ)」

石祠の中に座しておられる「弘法大師像」

参拝日:2015年11月15日

🌸明日はおっぱい観音の名で知られる「川崎観音」の紹介です。

 

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永源山公園 in 山口県周南市富田(旧新南陽市)

2024年05月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

永源山公園は、新南陽市が昭和45年(1970)11月の市制施行を記念して計画された公園で、市街地の中央に位置し、緑豊かな自然と山頂からの眺めもすばらしいことから、市民のレクリエーションやコミュニティ活動の場となるよう、また市民の「ふるさと」としての心のシンボルとなることを願って着手したものです。

山頂には、日本最大級のオランダ風車「永源山公園 夢風車」があり、周南市のランドマークとしてその存在感を知らしめています。

そんなこんなで😅 とにもかくにも山頂を目指します。

市の花:サルビアで彩られた花時計・・・一応、四季咲きのサルビアですが、冬の寒さには若干弱く・・寂しい姿に💦

なんだかんだで山頂に到着(笑)。お目当ての夢風車は目の前にドーンとそびえています。

高さ24m 羽の長さ12m

並んで立っている私の姿に気が付かない位、兎に角大きい😍

山頂から見る新南陽市の景色

中央付近に見えているのが「周防大橋」で・・、その向こうに見えるのが「大津島」。橋が無いから車では行けないね😥

山頂の景色を楽しんだら下山・・と言うほど大層なものではないのですが、一応山なので😅。 途中で何かのモニュメントらしきものを発見!と近寄ってみれば「永源山北3号古墳」

「墳丘の低い小型の円墳、内側には小型の箱式石棺。棺の中には頭蓋骨だけが残っていました~」。いや・・それって素直に怖い😱

この辺りは古墳山だったのね・・。古墳って言うと何でもなく聞こえるけど、要は古代人のお墓だからね。ホントの所はね、何時の時代のものでもお墓は苦手。

根性無しの我が足にはそれなりに大変だった永源山も、この石段を下りたら終了。

と言ってる目の前に「永源山北1号古墳の石棺」😅 要するに石の棺桶・・って、まだ言ってる(笑)

園内の案内看板で見かけた「ジョウビタキ(雄)」の写真。こんな姿を見る事が出来たら、古墳山だろうが何だろうが、きっと最高に嬉しいだろうね。

訪問日:2015年11月15日

🍀明日は富田河内に鎮座される「山崎八幡宮」の紹介です。

 

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遠石(といし)八幡宮~其の二 in 山口県周南市遠石(旧徳山市)

2024年05月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

二日目の「遠石(といし)八幡宮」紹介は、いつものように「一の鳥居」から。

一の鳥居左右より神域を守護されるのは「文政七年(1824)甲申7月吉祥日建立」の狛犬さん一対。角ばった四角い顎と首から背中に向かって瘤のような巻き毛、小さめの天狗の羽団扇のような尻尾もすっかりお馴染み。

二の鳥居

二の鳥居の奥、右手に御神馬。

さらに左手の奥にも先代の御神馬が奉納されています。

「三猿の像」

石段参道と三の鳥居

三の鳥居左右より神域を守護されるのは「安永六年丁酉(1777) 八月」建立の徳山狛犬さん一対。角張った顎や、真っ直ぐに伸ばした細身の脚。ピンと伸ばした背筋も頼もしく、このタイプも周防地区ではすっかりお馴染み😊

境内に見かけた句碑・・読めない😭 

「新宮速玉神社」の鳥居横の「句碑」・・やっぱり読めない😭

境内社近くに建造されていた「五重塔」

一の鳥居の外に「亀趺」。「側面に刻まれた天翔ける龍

久々に楽しいお顔だったので、正面から😊

「八幡宮龍鐙道」碑と「石灯籠」

「秩父宮殿下御登臨之地」碑

「凱旋記念」碑

御旅所の鳥居と参道石段

参拝日:2015年11月15日&2017年11月29日

🌸明日は旧新南陽市のご当地マンホール紹介です。

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