車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

須部神社:恵比寿神社 in 福井県若狭町(旧三方町)

2016年07月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

若狭町末野字神ヶ谷に鎮座される「須部神社:恵比寿神社」。御祭神は『蛭子大神(恵比須大神)・ 大国主大神(大己貴命)・陶津耳之命(すえつみみのみこと)』

町指定重要文化財の朱塗りの鳥居は、正保2年、若狭藩主『酒井忠勝公』の寄進。生憎の逆光で、朱塗りと分からないのが辛いところ(^^;)

「当式内:須部神社は御祭神により 恵比須神社(えびすさん) また  西の神さん と称されております。須部神社の創祀は、養老2年(718)9月28日 恵比須大神が末野の地に顕れ、翌養老3年(719)3月23日 社殿を建て祀ったと伝えられております。陶津耳之命はこの郷土末野(陶恵又は須恵)の産土の神として祀られています。往古(約千三百年前)よりこの地には祝部(はふりべ)土器、須恵器が産出され、陶業を司る祖神、文化発展の神として崇敬されています。」公式HPより

朱塗りの鳥居を潜り割拝殿を奥に進むと、非常に開放的で明るい拝殿へと至ります。

その拝殿横より神域を守護されるのは、何タイプに分類すればよいのか迷ってしまう、安政6年(1859)己未3月建立の狛犬さん一対。耳元から顎にかけての毛並み、体に刻まれた獅子紋等々、いずれも個性的で記憶に残る狛犬です。

台座の足元には、越前かむろ型狛犬さん。なぜか画像はこの二枚とアップが一枚のみ・・・右の画像が相方の後ろ姿であれば良いなと心底思います(^^;)

さらに足元にはもっと小型のかむろ型狛犬さん一対。かむろという言葉からこれほどかけ離れた顔立ちと言うのも、ある意味面白すぎます。

境内の一画に奉納されていた「鯛」は、昭和25年(1950)10月大祭日建立。御祭神の恵比須大神は、漁業の守護神とされます。

御祭神の蛭子大神は、幼にして親に離れご努力の末、生業の道を拓かれた生い立ちと御実蹟により「子共之守り神」として特殊信仰がなされています。

鐘楼

参拝日:2012年7月10日

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御神名一口メモ

『陶津耳之命(すえつみみのみこと)』、「大物主神」の妻となった「活玉依毘売」の父。

 

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宇波西(うわせ)神社 in 福井県若狭町(旧三方町)

2016年07月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

若狭町気山字寺谷に鎮座される「宇波西(うわせ)神社」。御祭神は『彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)』延喜式神名帳では名神大社に列し、北陸道の352座の神社の中で唯一、月次・新嘗の幣帛に預る神社とされます。

由緒「社伝によれば、御祭神鵜草葺不合尊と伝えられ御母豊玉姫が海辺で鵜の羽などを葺草にまぜて産殿の屋根を葺かれ、それができあがらないうちに御安産されたので右のような御名を奉られたという。 古来漁猟又安産の守護神として崇敬されている。古伝によると文武天皇の大宝元年(701)日向浦に垂跡あって、同年3月8日に上野谷に遷られ、大同元年(806)3月8日更に現在の地に御鎮座されたという。 建武・元亀年間再度兵火の為に炎上。現在殿は嘉永4年(1851)に造営された。」福井神社庁HPより

神橋を渡った先はさらなる神域。

清めの水を吐くのは「鵜」。はるかな昔、『鸕鶿草葺不合尊』の所在を漁師の六郎右衛門に伝えたことから、此処では「鵜」が神使いとされています。

手水鉢は三百二十余年前、浦見川開削を成し遂げた『行方久兵衛』が寄進したもので「寛文三年癸卯(みずのとう)暦 五月吉日施主敬白」と刻まれています。

手水舎の傍らに奉納された石灯籠、よく見ると宝珠の部分に小さな狛犬が乗っかています。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、出雲丹後系の狛犬さん一対。阿形さんは左に子狛を連れ、吽形さんは毬らしきものに右手をかけています。

阿形さんの足元からこっそりと振り返る仔狛さん。大切な尾が欠けてしまったのがとても痛々しい・・・

拝殿の向背には「波間に戯れる鵜」。ふつうであれば「龍」が使われる場所の大半が「鵜」にとって変わられ、いかに「鵜」が重要な役目を果たしたかが、随所に示されています。

祈願絵馬に描かれているのは、毎年4月8日に宇波西まつりで「王の舞」を演じる舞人がつける鼻高の朱面。豊作や豊漁、そして国の平安を祈って演じられる「王の舞」は中世頃より始まったと言い伝えられており、他の二つの舞と共に国の選択無形民俗文化財に指定されています。

社殿左側 の境内に、樹高:約 28m、幹回り:5.07m、樹齢800年以上といわれる、町指定天然記念物の御神木の大杉。幹の先端は、明治にあった大火の延焼で枯れ、また平成になってからの落雷を幹に受け、樹皮がはがれることもあったそうです。多くの人の手によって守られてきた御神木は、大きく枝を広げ空に向かって聳え立っています。

参拝日:2012年7月10日

 

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三宅区火の見櫓 in 福井県若狭町上中町

2016年07月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

鯖街道の南、農家が点在する若狭町三宅地区のほぼ中央に、当地区のシンボルとされる「三宅区火の見櫓」があります。

実はこれを探すのに大層手間取り、通りかかった人に尋ねてやっとたどり着く事が出来ました。江戸時代後期に建てられたと推定され、国の登録有形文化財になっている建造物・・それがここまで分かり難いなんて。

何といっても驚愕だったのは、櫓に上がる為の垂直に伸びた梯子段。慎重に足を運ばないと一気にまっ逆さま!!筋金入りの高所恐怖症の私・・見上げるだけですでにガクブルです(^^;)

建物の中には手押し式の消防ポンプが置かれていましたが、他にはこれと言ったものがある様子もなく・・もう少し詳細に見えればもっと何かあったのかもしれませんが、これもやむを得ないのでしょう。

それにしても・・・やっぱりせっかくの文化財、もう少し何とかならなかったのでしょうか。

消化不足の感が否めない「三宅区火の見櫓」の見学。これでも本来は充分な筈なのに、つい他に何かないかと探してしまうのは、持って生まれた貧乏性故(笑)でも結局何かを見つけても、それが何であるかもわからないままと言うのがオチなのです(笑)

訪問日:2012年7月10日

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若狭町熊川にある「道の駅:若狭熊川宿」。三宅区火の見櫓の見学後に、こちらで車泊させて頂きました。施設も設備もとても綺麗で気持ちよく、本当に素敵な道の駅です。車で旅をする者にとってこのような施設は本当に有難く大切な存在です。

改めて、その折は有難うございました m(__)m

 

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熊川宿(くまがわじゅく) in 福井県若狭町上中町

2016年07月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

若狭町にある 若狭と京都を結ぶ旧鯖街道「熊川宿(くまがわじゅく)」。1996年7月9日、若狭町熊川宿伝統的建造物群保存地区の名称で国の重要伝建地区に選定。また2015年には「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 - 御食国(みけつくに)若狭と鯖街道 - 」の構成文化財として日本遺産に認定されています。

若狭では古くより小浜を中心に「京は遠ても十八里」と言われ、若狭から京都へ至る多数の街道や峠道が作られていました。街道で運ばれた物資の中でも特に「鯖」が有名になった事から、これらの道を総称して「鯖街道」と呼ぶようになりました。

宿場の入口には、元の位置に現存する唯一の番所「熊川番所」が設けられてており、どこかで見たような顔のお役人が宿場を通過する人たちをしっかり吟味しています。

熊川宿が置かれた地は近江との国境近く、小浜と今津のほぼ中間点に位置しており、天正17年(1589)に小浜城主:浅野長政が近江と若狭を結ぶ鯖街道(若狭街道)の宿場町として整備。江戸時代を通して鯖街道随一の宿場町として繁栄してきました。

旧街道に沿って流れる水量豊かな前川。往来と家屋とを結ぶ石橋や、水流を利用した水路の芋洗い水車など、往時の佇まいを色濃く残す約1kmの町並みが、私たちの目の前に展開されています。

熊川宿の観光案内やポスターでは必ずと言ってよいほど目にする、この橋のある風景。上ノ町と中ノ町を結ぶ「中条橋」を渡ったその先に、「旧逸見勘兵衛家住宅」があります。

旧逸見家は、伊藤忠商事2代目社長『伊藤竹之助』の生家で、主屋・土蔵・庭が町指定の文化財となっています。

伊藤忠商事二代目社長となった『伊藤竹之助翁(旧姓逸見』)が、昭和15年に熊川村役場として建てた「若狭鯖街道熊川宿資料館宿場館」。トスカーナ風の柱頭をもつ円柱が建ち、寄棟瓦葺の2階屋根の中央には越屋根が付いています。

館内には往時を物語る様々な諸道具が展示され、特に古い看板が大好きな私を喜ばせるものも一杯。

当時の学校の表札でしょうか?尋常小学校は聞き覚えがありますが、実業補習学校」と言うのは初見。おそらく技術学校、もしくは専門学校的なものと思われます。

再現された帳場

近代において、鯖街道越えをする人でしょうか?手前の仁丹の箱は大きさからみて看板?人力車も見えますが、多分ここは未整理区画なのかもしれません。

資料館を出て再び宿場のそぞろ歩き。熊川宿のほぼ中央、前川に面して建つのは「菱屋(勢馬清兵衛家)」。熊川宿の中でも最大級の家屋で間口が28間、切妻、桟瓦葺、平入、木造2階建、本屋の大屋根にはむくりが付けられ、2階外壁両側には袖卯建が設けられています。「勢馬家は屋号を「ひしや」といい10数軒の問屋、脇問屋とともに街道の繁栄を支えた旧家。広い家屋敷にそのおもかげを残す。最盛期には年間20万駄の荷揚の荷継ぎ場としてその問屋場に馬借、背負人が群がったという。また宿場町役人として藩の御用や町の自治にも貢献した。」案内板より

塗込の壁や袖壁卯建がある屋敷は、同じく旧問屋で屋号は「倉見屋(萩野八左衛門家)」。主屋、土蔵など問屋の形式を残している最も古い町家で、表には2ケ所の駒繋ぎが見られます。

古い町並みで古い看板を見つける事も楽しみの一つ。粋な紳士がふかしているのは「タバコ」。昔は煙草の専売もされていたお店だったようです。ローソクの看板は、物好きな私の為にお店のおばあちゃまが、こんな古い看板もあるよといってわざわざ見せてくださったものです(*^^*)

熊川地区の中ほどに鎮座される「白石神社」。御祭神は『彦火々出見尊・白鬚(しらひげ)明神・酒井忠勝・および山の神』。この地区の氏神様と言う事で、鳥居前からの参拝です。

この神社の鳥居脇に、昭和2年11月に建立されたという「時計とうろう」があります。残念な事に、これに関する文献類は一切無いそうです。

同じく熊川宿に鎮座される「松木神社」。御祭神は『義民:松木庄左衛門の御霊』。時間的な事もあり、こちらも参道石段からの参拝となりました。

江戸時代のはじめ、厳しい年貢の取り立てに苦しむ若狭の農民たちを救おうと、新道村の若き庄屋「松木庄左衛門」たち20名は、税の軽減を十数年に渡り訴え続け、ついに酒井忠勝により税の軽減を許されました。しかし当時の法では直訴は死罪と決まっており、代表者であった「松木庄左衛門」は捕えられ、日笠川原で磔の刑になり28歳の生涯を閉じたのです。

暗い話になりましたが、日本の各地には民を顧みないお殿様がどこにもいたようで、私の数少ない旅の中でもこうした義民の碑や神社を目にします。特に飢饉に見舞われた地域では、行く先々に義民の碑が残されており、そのたびごとに胸が痛みます。ではここで少しほのぼのとした話題を。

上ノ町の街道沿いにある「大岩」は、子供たちの格好の遊び場なのですが、不思議な事にここで遊んでも誰一人、怪我をする子が居ないことから別名「子守り岩」とも呼ばれています。

ラストは「孝子与七の碑」「享保6年(1721)貧しい暮らしの与七とその妻は、自分たちは貧しいものを食べても父母にはご馳走を食べさせて孝行のかぎりを尽くしました。時の小浜藩主は与七の行いを聞くに及んで、米数俵を与えその志を褒めたことが『若狭良民伝』にも出ています。」現地案内より

訪問日:2008年6月1日

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御神名一口メモ

『白鬚明神』、全国に約190社あると言われる白鬚神社の祭神の総称で、一般的には「猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)」とする。他に「武内宿禰命(たけしうちのすくねのみこと)」とする神社が30社。又少数だが「少彦名命」、「天御中主神」、「太玉命」、「金山彦命」、「大己貴命」、「天鈿女命」、「大田命」、「久延毘古命」等の名で祀られる神社もある。

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”銀河鉄道999・宇宙戦艦ヤマト”シンボルロード in 福井県敦賀市

2016年07月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

敦賀市鉄輪町、日本海側の港町として栄えた敦賀市の中心駅「敦賀駅」。駅前の緑地帯の一画で、かって夢中になって見ていたテレビ画面の懐かしい一コマに出迎えられます。

銀河鉄道999~vol.1「星野鉄郎とメーテル」【銀河系のかなた、宇宙列車・銀河鉄道999に乗って、鉄郎とメーテルの壮大な宇宙の旅が今、ここから始まろうとしている。】

銀河鉄道999~vol.2~vol.5は見つけ損ねました(^^;)

駅前商店街はvol.6「旅立ち」、ここでの主役は意外と人気者だった『車掌さん』【人はみな、星の海を見ながら思い描いた希望を追い求めて、果てしなく長い旅に出る。終わることない永遠の流れの中で、果てしなく続くレールの上を、夢と希望と野心、そして若さを乗せて列車は走る。いま、汽笛が新しい若者の旅立ちの訪れを告げる。】

vol.7は「永遠の星の海へ」【メーテルはドリームセンサーを使って気を失っている鉄郎の過去を調べる。彼は母を殺した機械伯爵への復讐のために、機械の体になる必要があったのである。】

vol.8は「迷いの星」【冥王星には、大氷河が広がり氷の下には無数の死体が並ぶ。氷の墓の管理人で機械の体を持つシャドウは鉄郎をずっとそばにおきたくて、凍らせるが、あわやというところでメーテルに助けられる。】

vol.9は「ガラスのクレア」【ある日,食堂車に乗った二人は、クリスタルガラスの体のクレアというウエイトレスと知り合う。彼女は元の体に戻りたくて働いてお金を貯めているのだ。彼女の元の体は冥王星にあり、ときどき立ち寄り会いに行くという。】

vol.10からは本町2丁目商店街で「エメラルダス」【999号の針路をクイーンエメラルダス号が横切り鉄郎は時間城のある星が知りたい一心で、それに発砲した。乗り込んできたエメラルダスは鉄郎の銃を見て驚く。彼女はその銃の持ち主を捜していたのだ。そして時間城の場所をおしえる。】

vol.11は、酒場で歌う機械伯爵の愛人レリューズと「時間城」【機械伯爵がやって来るというトレーダー分岐点。鉄郎は同じ志を持つ男、トチローに出会う。宇宙病で亡くなる彼の遺志を胸に、鉄郎はついに時間城に乗り込み機械伯爵をたおした。】

vol.12は、アルカディア号とトチローの墓、それを見下ろすハ-ロックの像で「友の眠る星」【トチローは息を引取ったが、彼の心はアルカディア号の心となった。その船とは鉄郎の憧れのキャプテンハーロックのものだった。トチローの墓のお礼にハーロックは鉄郎の危機を救う。】

vol.13は「プロメシューム」【終着駅:メーテルは機械帝国であり、あらゆるものが生きた人間から作られていて、鉄郎もネジにされそうになる。そこで初めてメーテルがプロメシュームの娘であると知る。】

vol.15は本町1丁目商店街で、999のドアの向こうのメーテルと、ホームの哲郎の像で「別離」【地球へと戻った鉄郎。そしてメーテルとも別れる時が来た。メーテルは昔の体に戻るために冥王星に旅立ち、少年とメーテルとの旅は終わった。】

本町1丁目商店街から始まるのは「宇宙戦艦ヤマト」

vol.18は、英雄の丘に立つ二人の乗組員の像で、タイトルは「英雄の丘」【西暦2202年、暗黒星団帝国による地球侵略に対し、旧ヤマトの乗組員は英雄の丘に集結した。】

vol.21からは本町2丁目商店街で「サーシャ」【一行は小惑星イカルスで新旧乗組員達と合流。古代はその中の一人の女性の名がサーシャだと知る。】

vol.22は「サーシャの最期」【雪は爆弾の起爆装置解体に成功する。だが、弱点究明に浸入したサーシャが居るため、母星に波動砲を撃てない古代。しかし彼女は聖総統に撃たれてしまう。古代は波動砲の引き金を引いた。】

vol.24からは駅前商店街で「惑星デザリアム」【スカルダードの罠に気づき、反撃に出るヤマト。波動砲によって敵母星は炎に包まれ、その中から、超金属の惑星デザリアムが姿を現した。】

vol.25は「雪とアルフォン」【パルチザンに加わった雪は、戦場でアルフォンと再会する。しかし彼は銃弾に倒れてしまう。彼は爆弾の起爆装置解体法と、地球侵略の目的を告げ息を引取った。】

vol.26は母に抱かれるサーシャの像で、タイトルは「帰還」【波動エネルギーは敵母星のエネルギーと融合反応し、大爆発をおこした。敵母星を粉砕したヤマトは地球へ帰還していく。そしてサーシャは、母スターシャのもとへ・・・】

この後に続く、古代・雪カップルの像、それに佐渡先生の像も見つけ損ねました。これらの像は敦賀港開港100周年を記念して、市のイメージである「科学都市」「港」「駅」と敦賀市の将来像を重ね合わせたものとして『松本零士』監修の元で設置されたそうです。

訪問日:2009年6月5日

 

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敦賀市内あちこちウォッチ in 敦賀市

2016年07月11日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

2009年に初めて金ケ崎緑地を訪問したとき見かけた2棟の赤レンガ倉庫、何となく古そうに見えるけれど、今も現役なのだろうか?  帰宅後に、2009年1月に北棟・南棟・煉瓦塀が国有形文化財に登録されていた事を知って、ああ、それならもっとちゃんと見ておけば良かったと思いつつ・・・日が流れ

そうして三年後の2012年に再訪、「敦賀赤レンガ倉庫」は、こんなに開放的になっていました (⌒∇⌒)

明治から昭和初期、ロシアを経由し大陸ヨーロッパへと繋がる国際都市として繁栄した敦賀市。敦賀赤レンガ倉庫は、外国人技師の設計によって明治38年(1905)に紐育スタンダード石油会社の石油貯蔵用倉庫として建設。途中、軍の備品倉庫や昆布貯蔵庫としても使用され、福井県内でも有数のレンガ建築物。

煉瓦建築と言えば敦賀港駅には明治15年(1882)頃に建てられた「旧敦賀港駅ランプ小屋」があります。ランプ小屋は、列車の灯火に使用されるカンテラの燃料を保管する油庫として、かつては主要な駅に一般的に存在したものです。

かって「金ヶ崎駅」と呼ばれていた時代、明治末期から昭和初期にかけて欧亜国際列車が運行され、ここからウラジオストク航路に乗り継ぎ、遥か欧州を目指す人や荷物で賑わっていた時代・・想像は羽を持って膨らみ、気持ちを浮き立たせます。

昭和初期のモダンを感じさせる建物は、国重要文化財(建造物)の「旧大和田銀行本店」

敦賀の実業家、二代目『大和田荘七』が、大和田銀行を設立したのは明治25年(1892)のこと。

建物は大正14(1925)に起工し、昭和2年(1927)に竣工。鉄骨レンガ造一部鉄筋コンクリート造、地上3階、地下1階建で、当時の北陸地方では非常に珍しかったエレベーターを備えており、かつて敦賀の政治経済の中心地であった場所に位置しています。

その後吸収合併により三和銀行敦賀支店、福井銀行敦賀港支店として利用、昭和52年(1977)に敦賀市に寄贈され、翌年には敦賀市立歴史民俗資料館としてオープンしました。

私たちが訪問した2009年当時は福井県有形文化財でしたが、2012年から修復工事が開始され、2015年にリニューアルオープン。その後2017年に国の重要文化財(建造物)に指定されました。建物前の道路巾が少ないため、建物全体を正面から写せないのが残念です。

博物館の斜め前の路地を入ると、こじんまりとした「清明神社」が鎮座されています。案内に『安倍晴明』は10世紀末の頃にこの地で過ごし、陰陽道の研究を重ねたとか。バイクの駐車スペースが確保できず、参拝は鳥居の前から。

「敦賀市民文化センター」の建物横に建てられた碑は、明治19年(1886)から昭和20年(1945)まで、迎賓館兼会議場として使われた「萬象閣跡」。昭和20年(1945)、本土空襲の激化に対応するために断行された「建物疎開政策」で、市庁舎を守るために萬象閣が取り壊された経緯が傍らの説明に記されています。

「市民文化センター」が建っている場所には、旧敦賀市庁舎が建てられていましたが、その庁舎を寄贈した人物が先ほど登場した『大和田荘七翁』

もう一つ、『大和田荘七』にゆかりのある建物が、「金ヶ崎緑地」に復元されています。それが、旧大和田別荘洋館を復元した「人道の港敦賀ムゼウム・ 杉原千畝の資料館」。昭和15年(1940)に『杉原千畝』がユダヤ人難民に発給した日本通過ビザの話、何故か日本の歴史教育であまり語られないのが不思議です。

訪問日:2009年6月5日&2012年7月10日

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金ヶ崎緑地・敦賀鉄道資料館 in 敦賀市金ケ崎町

2016年07月10日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

敦賀港開港100周年を記念し「憩いと賑わいの空間」をテーマとして整備された海浜公園「金ヶ崎緑地」。出迎えてくれるのは旧笙ノ川の河口の左岸にある「洲崎の高灯籠」を模した時計台。

敦賀湾を望む港には海上保安庁の巡視船が係留されており、結構間近に見ることが出来ます。海上自衛隊の護衛艦を見たときも思ったのですが、保安庁の巡視船も「カッコいい~~~!」(〃∇〃)

日本の海上を脅かす不届きな某国や某国(笑)の不審船、片っ端から撃沈しちゃってください!!って言っても、理不尽な法に縛られてちゃ、何にもできないのですが・・

ついつい横道にそれてしまいましたが(^^;)、1999年7月、敦賀港開港100周年記念事業として開催された「つるが・きらめきみなと博21」。敦賀港ウォーターフロントとして整備された一帯には、北前船の帆をモチーフにした「南シンボルモニュメント」を始めとして、当時の名残の建物が幾つか残されています。

博覧会の中核施設として建設された複合文化施設「きらめきみなと館」、外観は船の煙突をイメージしているとかで、港を眺めながらコーヒーで一息できるくつろぎ空間もあるとか。

ちょっと楽しみにしていたんですが・・・私たちにはよくあるアクシデント・・「本日休館」(^^;)

良いんです、別に。コーヒーなんて緑地公園のベンチでだって飲めるし、たまたま休館でしたなんて、もう本当に!!慣れっこだし(笑) ここでの一番の目的は「旧敦賀港駅舎」だったんだし。

「みなと博21」のシンボルの一つとして、シベリア鉄道経由で欧州と繋がる「欧亜国際連絡列車」の「敦賀港駅・駅舎」を再現した瀟洒な洋風の建物。再現であろうが何であろうが、見ているだけでワクワクさせてくれます。

みなと博終了後、2009年に「敦賀鉄道資料館」として再整備され、館内には敦賀鉄道の歴史資料類が展示され、何と”無料”で見学ができます。

敦賀の鉄道の歴史を物語る様々な資料の展示は、鉄オタならずとも興味深いものばかり。

鉄道の歴史に興味のある人なら間違いなくパラダイス(笑)。他にも、汽車汽船旅行案内、欧亜連絡切符などの複製資料が展示されており、どれもこれも興味深いものばかり。

特に興味を引いたのがお弁当のラベル。いわゆる「駅弁」のパッケージラベルだと思うのですが、良く残っていたなと嬉しくなるやら関心するやら(笑) こういうの、実はすごく好きなんですよね。

振り返ってみれば、二度の敦賀行で同じ場所を訪ねたのは、狛犬さんの撮り直しのために参拝した「気比神社」と、この「敦賀鉄道資料館」だけ。気比の松原の史跡巡りは?! 銀河鉄道シンボルロードの撮り残しは??

訪問日:2009年6月5日&2012年7月10日

 

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気比(けひ)の松原 in 福井県敦賀市松島町

2016年07月09日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

敦賀と言えば、真っ先に思い浮かぶのが「万葉集」や「日本書紀」にも登場する「気比(けひ)の松原」。静岡県の三保の松原・佐賀県の虹ノ松原と共に日本三大松原の一つとされ、昭和9年(1934)には国の名勝に指定されています。

「日本の白砂青松100選」「日本の名松100選」「日本の自然100選」に選定、ついでに「レクリエーションの森」にも選定。それにしても三大とか100選とか・・日本人ってこう言うの好きですよね(笑)

古来より「氣比神宮」の神苑として神人が近隣住民の利用を管理していましたが、永禄13年/元亀元年(1570)の織田信長の越前攻略により氣比神宮の所領などが没収され、このときに松原も没収。江戸時代には小浜藩の御用木(藩有林)となり、近隣住民は藩への納税によって燃料となる松葉採集が許され、松原はこうした管理によって後世へと残されてきました。明治時代以降は官有林となり、明治32年(1899)の国有林野法制定とともに国有林となり現在に至っています。

綺麗に整備された遊歩道を歩いていると、打ち寄せる波の音がまるで子守歌のようにゆるく優しく聞こえてきます。

松林の切れ目から見る砂浜、置かれたベンチには人影は無く心なしか閑散とした雰囲気。それも無理からぬこと、空は次第に灰色に染められて、湿気を含んだ風が「そろそろ危ないよ」と教えてくれます。

上等とはお世辞にも言い難い空模様ですが・・・それでも砂浜にはそれなりの人の姿があり、打ち寄せる波を背景に記念写真などを撮っています。

古くから多くの貴人、歌人、文化人に愛で賞された「気比の松原」。ここには私の好きな(笑)記念碑や句碑などが建立されているのですが・・

何しろこの日はバイクタンデム。今にも崩れそうな空模様の中、決して近くない我が家に帰る為にはこれ以上の長居はできないと、ご亭主殿の鶴の一声。

消化不良この上ない初めての「気比の松原」。次回こそは!!と固く誓っていた筈なのに、結局、訪問はこの時の一回だけでした(^^;)

訪問日:2009年6月5日

 

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松尾芭蕉と奥の細道 in 福井県敦賀市

2016年07月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

【月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也】の序文で始まる「奥の細道」『芭蕉』が門人の『河合曾良』を伴って江戸を発ったのは、崇拝する『西行』の500回忌にあたる元禄2年(1689)3月27日の事。全行程約600里(2400k)。150日間をかけて東北・北陸を巡った『芭蕉』による紀行文は、日本の古典における紀行作品の代表的存在として、多くの人に知られています。

元禄2年8月14日~16日。芭蕉は弟子の等哉と共に「敦賀の気比」に滞在しています。「奥の細道 in 敦賀市」、スタートは「気比神宮」境内の『芭蕉』の銅像から。「十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。~あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。」

台石に刻まれた句【 月清し 遊行(ゆぎょう)のもてる 砂の上 】(遊行上人が持ち運んだという砂の上に差している月光は、ことさら清らかに思えることだ。)

気比神宮の参道にこれと良く似た句

  「気比のみや【 なみたしくや 遊行のもてる 砂の露 】

気比神宮の道路向いにある「お砂持ち神事」の像。

「往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、自ら草を刈り、土石を荷ひ、泥濘をかわかせて、参詣往来の煩ひなし。古例今に絶えず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持ちと申し侍る。」
芭蕉はこの話を聞き、気比の宮に詣でて上記の句を詠みました。

敦賀に滞在した芭蕉は、この時、月を題材に15句を詠んだと伝えられています。該当する句碑、続いては敦賀市民文化センターの一画。

【 国々の 八景更に 気比の月 】

(近江八景等のように景色を愛でる名所は山ほどもあるが、気比の月もこれに加えたいものだ)

続いて金崎宮参道下:金前寺の境内に建立された鐘塚の句碑

「金ヶ崎の海底に、足利軍に敗れた『新田義顕』が沈めた「陣鐘」のありと言う。後に国守、海士に探らせしが、「陣鐘」逆さに沈み、竜頭、海泥に埋もれ引き上げ叶わず」宿の主人からこの話を聞き

【 月いつく 鐘は沈る 海の底 】

(月の光もなく、海の底にあるという鐘の音もない。何ともわびしい十五夜であることよ)

北陸自動車道・杉津PA(上り

明日の名月を期待する芭蕉に、宿の亭主が「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかり難し」と答え「十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず、雨降る。」

【 名月や 北国日和 定なき 】

(敦賀の十五夜を期待してきたが、亭主の言ったとおり、北国の天気は変わりやすいものだ。)

「ライオンズクラブ記念大会」に建立された気比神宮境内の名月句碑。

【 ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月 】

(このように月の綺麗な夜は、古事記にも記された「角鹿(つぬが)」の古き名が恋しいものだ)

北陸自動車道・南条SA(下り線)

元禄2年8月15日、越前福井から敦賀に向かう途中、湯尾峠の茶屋の軒下に疱瘡よけの呪いを見て

【 月に名を 包みかねてや 痘瘡(いも)の神 】 

(日ごろは人目を忍ぶ痘瘡神も、この月明かりの下では、流石に隠れられないようだ。)

北陸自動車道・南条SA(上り線)

【 明日の月 雨占なはん 比那が嶽 】

(明日も今夜のような月が見えるのだろうか。天気の変わりやすい北国の事だから、比那が嶽の晴れ具合で占うとしようか)

敦賀での名月の晩。燧(ひうち)が城を見て

【 義仲の 寝覚めの山か 月悲し 】

(燧が城の主であった義仲殿も、この景色を見ていたと思うと何とも感慨ぶかいものであることよ)

訪問:2009年~2016年

松尾芭蕉と奥の細道・・・次は何処の地、掲載は何時になるか当人にも不明(笑)

 

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別宮(べつぐう)神社 in 福井県敦賀市原

2016年07月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

福井県敦賀市原に鎮座される「別宮神社」、福井神社庁HPでは御祭神は『仲哀天皇・大山津見神・神功皇后・素佐之男命・別宮大神』

由緒「もと「西福寺」の鎮守社。別宮大明神と尊称している別宮は本宮に対する呼称であり、本宮は氣比神宮と常宮神社(氣比神宮の奥宮)也との口碑である。聖武天皇天平二十年(748)蒙古襲来夜、敦賀の天地轟々震動し蒙古の軍悉く海中に覆没した伝える。この神瑞霊異を氣比宮の神官が朝廷に奏上した為、氣比宮の御造営の宣旨があった。其の折、松原と櫛川にも神社を創立したと云われている。」敦賀郡神社誌より

高く組まれた石垣の上、深い緑に抱かれるように覆い屋に護られて鎮座される社殿。

その社殿前より神域を守護されるのは明治39年(1906)3月建立の狛犬さん一対。このタイプの狛犬さん、加賀ではよく見かけますが敦賀の神社ではおそらく初見ではないかと・・

口中から僅かに見える舌先がキュートな阿形さん

閉じた口元がとても思慮深そうに見える吽形さん。

境内の入口付近で見かけた四角い石は、多分「宝篋印塔」の塔身ではないかと思われます。もと「西福寺」の鎮守社という事を考えれば、そういったものがあっても不思議ではありません。

塔身の三面には「仏像」や「地蔵」もしくは「僧」と思われる姿が彫られています。この塔の来し方、何かないかと探してみましたが手掛かりなしでした。

参拝日:2012年7月10日

 

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