車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 愛媛県旧川之江市(四国中央市)

2021年01月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

旧川之江市(かわのえし)は愛媛県最東端、東予地方に位置した市です。伊予三島市、宇摩郡新宮村に。さらに県を跨いで香川県三豊郡豊浜町・大野原町。徳島県三好郡池田町に隣接。四国山地の支脈法皇山脈の東端にその源を発し、瀬戸内海の燧灘にそそぐ金生川。その吐出する土砂によって形成された沖積平野に農漁民が住居を構えて定着し、川に沿って幾つかの点在する集落を形成した事が始まりとされます。大化の頃、大和より伊予の国府に通じる太政官道の大岡駅が設けられ、さらに、ここを分岐点として、それぞれの国府に至る土佐街道、阿波路が設けられ、既に開けた内海の船運と相まって海陸交通の要衝となり、今日の発展へと繋がりました。鷲尾山山頂に再建された川之江城からは瀬戸内の島々の眺望が素晴らしく、桜の名所としても知られています。「市の花:菊」を制定。

旧キャッチフレーズは「四国かわのえ 紙のまち」

明治22年(1889)、町村制の施行により、宇摩郡川之江町・上分村・金生村・二名村・妻鳥村・金田村・川滝村が発足。

1923年、上分村が町制を施行、宇摩郡上分町が発足。

1948年、金生村が町制を施行、宇摩郡金生町が発足

1954年、宇摩郡川之江町が、二名村を編入。

1954年、宇摩郡川之江町、金生町、上分町、妻鳥村、金田村、川滝村が合併、川之江市が発足。

2004年、伊予三島市、宇摩郡土居町、新宮村と合併、四国中央市となりました。

マンホールには「市章」と「紙のまち」の文字、一面に折鶴がデザインされています。

ワンサイズ小さいマンホールには、「市章」と「紙のまち」の文字、それに「折鶴」が一羽デザインされています。

昭和32年(1957)7月1日制定の市章は「川を丸くして鶴の形とし、その川鶴が頭に丸い玉をいただいているので縁起がよく、また川之江市は円満の玉をいただいていて、将来円満で大いに発展する。」旧公式HPより

路上のタイルには「市の花:菊」。

紙の町資料館内を訪問した際に、偶然見学させて頂いた「石川景水・漉き絵展」

筆を使わず紙漉きで色と形を漉きこみ、望む景色を生み出す「漉き絵」。さらっと書きましたが、正直言ってどのような技術を駆使すれば、否、どのような才能が有ればこれほどの作品を生み出せるのでしょう。

一点一点、熱心に見て回るご亭主殿の隣りで、色々と素人質問にも嫌な顔一つなさらず丁寧に説明して下さるのは・・

おりよく会場に居合わせておられた石川景水先生ご本人。作品の素晴らしさに感動したその上に、その作品を生み出されたご本人にお目にかかれるなど、一体私たちはどんな徳を積んだというのか🙏。

貴重なお時間を割いて私たちの素朴な疑問にも丁寧にお答えいただき、思いもかけない素晴らしい時間を過ごさせて頂きました。作品をブログに掲載する許可まで頂き、本当に有難うございました。心から感謝申し上げます。

撮影日:2011年6月15日

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北宇和郡松野町(まつのちょう)は愛媛県南予、四万十川の支流の一つである広見川の中流域に位置し、森林が全面積の84%を占める町です。

キャッチフレーズは「浪漫ちっくシアター 森の国まつの」

1889年、町村制の施行により、北宇和郡明治村、吉野生村が発足。

1940年、明治村が町制を施行、改称して松丸町が発足。

1955年、北宇和郡松丸町、吉野生村が合併し、北宇和郡松野町が発足しました。

昭和40年12月24日制定の町章は「「マツノ」を図案化したもので、「マ」の字を中心に「ツ」と「ノ」を円で周囲に配しています。円は、円満を表わし、町民の幸福と町勢の発展を意味し「マ」の字の三方は教育、福祉、産業の振興を示しています。」HPより

(※)北宇和郡松丸町では、ご当地マンホールの類は見つけられませんでした。

撮影日:2013年3月25日

これにて愛媛県車中泊の旅の思い出はひとまず終了です。上浮穴郡久万高原町・越智郡上島町に関しては、この先訪れる機会は無いでしょう。愛媛県のご当地マンホールは「四国中央市」で終了。明日からは香川県のマンホール・神社仏閣・名所に旧跡&迷所の紹介です。

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ご当地マンホール in 愛媛県四国中央市&旧伊予三島市

2021年01月21日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

四国中央市(しこくちゅうおうし)は愛媛県の東端に位置する市です。2004年4月、川之江市、伊予三島市、宇摩郡土居町、新宮村が合併し発足しました。新居浜市、県を跨いで香川県観音寺市、徳島県三好市、高知県土佐郡大川村・土佐町、長岡郡大豊町・本山町と四国三県に隣接。南に法皇山脈、北は瀬戸内海燧灘に面し、四国地方を代表する工業都市の一つで、日本一の紙の町を標榜、日本有数の製紙産業地帯となっています。

キャッチフレーズは「手をつなぎ 明日をひらく元気都市」

「四国中央市 紙のまち資料館」の玄関脇には紙業発展の礎を築き、今日のめざましい繁栄の素因を作ったとされる『篠原朔太郎翁立像』

販路開拓で紙の町を創った三傑の一人とされる『住 治平坐像』

2004年4月1日制定の市章は「四国初の高速道路開通を実現し、縦貫、横断自動車道の結節点に位置することとなった四国中央市が、その地理的メリットを生かし人、物、情報等の交流拠点都市を築こうとする躍動感、そして迎え入れる人の優しさ、ふれあう心の温もりを表したものである。左右の2本のラインは、高速道路と四国中央市の頭文字の「S」を意味し、左のライン(ブルー)は「うみ」を、右のライン(グリーン)は「やま」を、そして中央の球(オレンジ)は「まち」をそれぞれイメージさせ、自然と都市との調和を象徴している。」公式HPより

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旧伊予三島市(いよみしまし)は愛媛県の東予地方、宇摩地域に位置した市です。川之江市、宇摩郡別子山村・土居町・新宮村に、また県を跨いで高知県長岡郡大豊町・本山町、土佐郡土佐町・大川村に隣接。四国の瀬戸内海側のほぼ中央、四国四県の県境に近接した位置にあり、北には波静かな燧灘、南には四国山脈の峰々を望み、四国山地と法皇山脈の間には吉野川支流銅山川の清流が横たわります。銅山川沿いには、四国の自然100選に選ばれた「翠波高原・富郷渓谷」などの景勝地があり、また、金砂湖は県立自然公園にも指定。これら豊かな自然に育まれた豊富な水により全国屈指の「紙のまち」として製紙産業が発展し今や四国を代表する工業都市となっています。「市の木:クスノキ」「市の花:ツツジ、コスモス」を制定。

1889年、町村制施行により、宇摩郡三島村・松柏村・寒川村・豊岡村・富郷村・金砂村が発足。

1898年、三島村が町制を施行、宇摩郡三島町(第一次)が発足。

1944年、中曾根村、中之庄村、三島町、松柏村が合併、三島町(第二次)が発足。

1952年、寒川村が町制を施行、宇摩郡寒川町が発足。

1954年、宇摩郡三島町、松柏村、寒川町、豊岡村、富郷村、金砂村が合併し、伊予三島市が発足。

マンホールには市章と、翠波(すいは)高原の「コスモス」がデザインされています。

昭和30年5月1日の市章は「「ミシマ」を図案化したもので、マの点は発展浪頭にかたどり海外雄飛をも印象づけ更に合併6ケ町村を円く円に抱擁、繁栄と融和のシンボルとして意味づけた」旧公式HPより

撮影日:2011年6月15日

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旧宇摩郡土居町(どいちょう)は愛媛県の東予地方に位置した町です。新居浜市、伊予三島市、宇摩郡別子山村に隣接。南に中央構造線により切り立った赤石山系の山々が連なり、北は燧灘に面し、その間に平地が東西に広がり、農村地帯を形成。五葉松やサトイモの産地としても知られ、昭和60年(1985)に四国で初めて高速道路(四国縦貫自動車道 土居インターチェンジ・三島川之江インターチェンジ間)が開通。「町の木:五葉松」「町の花:ツツジ」「町の鳥:メジロ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、宇摩郡土居村・長津村・小富士村・天満村・蕪崎村・関川村が発足。
1954年、土居村・長津村・小富士村・天満村・蕪崎村・関川村が合併、宇摩郡土居町が発足。

昭和49年11月1日制定の町章は「「どい」を図案化したものです。」

土居町入野PAにあった路上のタイル絵には上記「五葉松」の他に「町の鳥・メジロ」、特産品の「ミカン」が描かれています。

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旧宇摩郡新宮村(しんぐうむら)は四国のほぼ中央、愛媛県の東端に位置した村です。北は法皇山脈を境に川之江市と、西は伊予三島市に。さらに県を跨いで、東は徳島県三好郡池田町・山城町に、南は高知県長岡郡大豊町に1000メートル級の山々で隣接。村の大部分は急傾斜の山林で、耕作地は少なく、集落は谷あい及び比較的傾斜のゆるやかな中腹に分散。土佐街道が村を南北に縦貫しており、歴史的遺産や言い伝えも数多く残されています。「村の木:山桜」「村の花:菜の花」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、宇摩郡新立(しんりつ)村、上山村が発足。
1954年、新立村と上山村が合併、宇摩郡新宮村が発足。

昭和50年11月17日制定の村章は「「シン」を回転したものです。」

(※)旧宇摩郡土居町・旧宇摩郡新宮村では、マンホールに類する物は何も見つけられませんでした。

撮影日:2014年3月25日

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ご当地マンホール in 愛媛県旧津島町(宇和島市)

2021年01月19日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

旧北宇和郡津島町(つしまちょう)は愛媛県の南西部、南予地方に位置した町です。宇和島市、南宇和郡愛南町に。また県を跨いで、高知県宿毛市、四万十市に隣接。宇和海に長く突き出した由良半島の概ね北側半分が町域で、東半分は標高が500メートル以上の山間地。西半分はリアス式の海岸で、海岸線は95キロメートルに達し、その一部は足摺宇和海国立公園を形成。平地は岩松川とその支流に沿ってわずかに開け、真珠・魚類の養殖が盛ん。また獅子文六の小説「てんやわんや」のモデルとなった事でも知られます。「町の木:ヤマモモ」「町の花:ショウブ」「町の鳥:シラサギ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、北宇和郡津島村・清満村・北灘村・畑地村・下灘村が発足。

1895年、北宇和郡津島村が、岩松村と高近村に分裂。

1899年、北宇和郡清満村から、御槙村が分立。

1919年、岩松村が町制を施行、北宇和郡岩松町が発足。

1938年、岩松町と高近村が合併、北宇和郡岩松町(第二次)が発足。

1955年、岩松町、清満村、御槙村、北灘村、畑地村、下灘村が合併、北宇和郡津島町が発足。

2005年、旧宇和島市、北宇和郡吉田町、三間町と合併し、宇和島市津島町となりました。

マンホールには町章を中心に「町の鳥:シラサギ」「町の木:山桃」「町の花:しょうぶ」がデザインされています。

昭和44年(1969)1月1日制定の町章は「満願寺の境内にある「二重柿」を図案化し、「ツシマ」を表したものです。」合併協議会資料より

撮影日:2013年3月25日

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旧北宇和郡吉田町(よしだちょう)は愛媛県南西部に位置した町です。西予市、宇和島市、北宇和郡三間町に隣接。宇和海に突き出した半島と付け根の部分にあり、急傾斜地が多く、平地はわずかに10%程度。正面の宇和海では真珠・ハマチ養殖が盛んで筏が並び、背後の山々には山頂近くまで果樹園が切り開かれ、日本一のみかん産地として有名。かって旧吉田藩の陣屋として栄えた歴史があり、それが町名の由来とされます。「町の花:ミカン」「町の鳥:メジロ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、北宇和郡吉田町・立間尻村・奥南村・立間村・喜佐方村・高光村・東宇和郡玉津村が発足。
1938年、北宇和郡立間尻村を編入。
1955年、北宇和郡奥南村、立間村、喜佐方村、高光村知永、東宇和郡玉津村と合併、北宇和郡吉田町(第二次)が発足。
2005年、旧宇和島市、北宇和郡津島町、三間町と合併し、宇和島市となりました。

昭和32年(1957)9月25日制定の町章は「中央に頭文字のYをおき、市の特産品である蜜柑の花を表しています合併協議会資料より

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旧北宇和郡三間町(みまちょう)は愛媛県の南予地方に位置した町です。西予市、宇和島市、北宇和郡吉田町・鬼北町に隣接。三間盆地を形成する流域は水田地帯で、かつては吉田藩の穀倉地帯であり、今日でも三間米の産地として知られています。「町の木:クスノキ」「町の花:コスモス」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、北宇和郡三間村・成妙(なるたえ)村・二名村が発足。
1954年、北宇和郡三間村、成妙村、二名村が合併、北宇和郡三間町が発足。
2005年、旧宇和島市、北宇和郡津島町、吉田町と合併し、宇和島市となりました。

昭和43年(1968)11月1日制定の町章は「「三間」を図案化したものです。」

(※)旧北宇和郡吉田町・旧北宇和郡三間町は未訪問のため、ご当地マンホールの有無は未確認です。

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ご当地マンホール~3 in 愛媛県宇和島市

2021年01月15日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

宇和島市ではリアス式海岸を生かして養殖水産業(真珠、ハマチ、マダイなどの魚類)が発達し、稚魚・餌料供給、資材供給などの関連産業も発達してきました。かつては愛媛県の真珠養殖日本一の中心的存在となったほか、鯛類養殖では周辺地域も含めると日本一の産地となりました。平成の中頃、魚価の低迷や真珠貝(アコヤ貝)の大量死などにより、廃業が相次ぐなど苦境の時期もありましたが、平成後期以降は、漁価の安定等で経営環境は良くなってきました。

遊子地区の漁業集排マンホールには、海底に眠る「真珠」がデザインされています。

周辺地域も含めると、日本一の産地とされる宇和海の養殖鯛がデザインされています。

下の二つの碑は、水荷浦入口の「魚見の丘」にある「魚貝藻霊供養塔」の近くに建立されていたもの。

【海こそは 命とけふも 拝みて 漁りにいく 永遠にさきはへ】

【生命みな 尊きものよ 春の海】

撮影日:2013年3月25日

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ご当地マンホール~2~ in 愛媛県旧宇和島市(宇和島市)

2021年01月14日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

旧宇和島市(うわじまし)は愛媛県の南部(南予地方)に位置した町です。北宇和郡吉田町・三間町・津島町・鬼北町・松野町に隣接。 藤堂高虎により築城された宇和島城を中心に城下町として発展し、慶長20年(1615)より、宇和島伊達家が9代に渡って統治。幕末には、高野長英、村田蔵六(大村益次郎)といった人物が滞在し、宇和島の近代化に貢献しました。また大正末期から盛んになった「闘牛」でも知られています。
「宇和島(南予地方)の闘牛は、獅子文六が終戦直後に発表した小説『てんやわんや』の大ヒットや、西宮球場への宇和島闘牛の遠征興行をフィクション化した井上靖の『闘牛』(昭和25年芥川賞受賞)によって全国的に注目され、知名度を高めましたた。」HPより

明治22年(1889)、町村制の施行により、北宇和郡宇和島町・丸穂村・八幡村・九島村・三浦村・高光村・来村・宇和海村が発足。

1917年、宇和島町が北宇和郡丸穂村を編入。

1921年、北宇和郡宇和島町、八幡村が合併、市制を施行し宇和島市が発足。

1934年、北宇和郡九島村を編入。

1955年、北宇和郡三浦村・高光村を編入。

1957年、北宇和郡来村(くのむら)を編入。

1974年、北宇和郡宇和海村を編入。

マンホールには、ドーム型の闘牛場で戦う「闘牛」がデザインされています。

名古屋市下水道科学館の展示マンホール

大正9年(1921)9月1日制定の市章は「「八」を「宇」で囲んだものです。」

「宇和島市管工事協同組合」の文字と「蛇口から水が出ている水道」がデザインされています。

「うわじま闘牛定期大会は、年にたった5回の晴れ舞台です。制限時間なしで牛同士が戦い、逃げた方が敗けというシンプルなルールです。その歴史は深く、17世紀の後半頃、宇和海を漂流していたオランダ船を福浦の漁民が救助し、礼として贈られた2頭の牛がたまたま格闘したことから始まった、と伝えられます。うわじま闘牛では技は10種に分類されます。」HPより
闘牛大会が近づくと、こうした大会のポスターが至る所に貼られます。プロレスやボクシングでさえも苦手な私には、間違いなく一生、縁の無いものです😅

撮影日:2013年3月25日

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ご当地マンホール~1とマンホールカード第4弾 in 愛媛県宇和島市

2021年01月13日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

宇和島市(うわじまし)は愛媛県西南部に位置する市です。2005年8月1日 、旧宇和島市と北宇和郡吉田町・三間町・津島町が対等合併し、(新)宇和島市が発足しました。北は西予市、東は北宇和郡鬼北町・松野町、南は南宇和郡愛南町、海を隔てて西宇和郡伊方町、八幡浜市に。さらに県を跨いで高知県宿毛市、四万十市に隣接。西は宇和海に面し、入り江と半島が複雑に交錯した典型的なリアス式海岸が続き、4つの有人島と多くの無人島があります。東側の鬼ヶ城連峰は、海まで迫る急峻さを備え、起伏の多い複雑な地形をしています。海岸部の平野や内陸部の盆地に市街地や集落が点在し、河川の多くは宇和海へ注いでいますが、三間川は清流四万十川に合流して高知県へ流れています。「市の木:うばめがし」「市の花:ミカンの花」を制定。

キャッチフレーズは「人と交わり、緑と話し、海と語らう、きらめき空間都市」

カードデザインにも採用されたマンホールには、宇和島で200年の歴史を持つという「牛鬼」がデザインされています。

「和霊神社」の奉納:牛鬼面

「住吉トンネル」の牛鬼

2005年8月1日制定の市章は「Uwajima(うわじま)の「U」をデザイン。青色は「海と空」。緑色は「自然」。赤色は「きらめく太陽」。赤い円と緑のUで「人」を表現。『人と交わり、緑と話し、海と語らう、きらめき空間都市』にふさわしい発展性と躍動感のある市章。」公式HPより

宇和島の牛鬼をモチーフに誕生したキャラクター『もーに君』。特技はハマチやじゃこ天などで遊ぶことだそうです。

ご当地公衆電話ボックスはもちろん「牛鬼」。

撮影日:2013年3月25日

「西日本に伝わる妖怪、牛鬼(うしおに・ぎゅうき)は、主に海岸に現れては人や家畜を頻繁に襲ったといいます。難渋した人々は、喜多郡河辺村の山伏に退治を依頼します。牛鬼と対決した山伏は、ホラガイを吹き真言を唱えたところ、その威徳に牛鬼がひるんだので、持っていた剣で牛鬼の眉間を貫き、体をバラバラに斬り裂きました。牛鬼の血は7日7晩流れ続け、淵となったそうです。この時の淵は、高知県土佐山、徳島県白木山、香川県根来寺に、それぞれ牛鬼淵の名で、今もその伝承を語り継いでいます。」

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マンホールカード、頂きました。

2017年4月3日、第4弾として全国42自治体で50種類(累計301自治体170種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「宇和島市」のマンホールカードは、「道の駅 みなとオアシスうわじま「きさいや広場」内観光センター」でいただけます。

1998年に設置開始されたマンホールには、「牛鬼」がデザインされています。

「宇和島市の祭りの花形「牛鬼」の顔を元にデザインしたマンホール蓋です。 牛鬼は、牛をかたどった大きな竹組の胴体に、長い首、鬼面の頭(かしら)、剣をかたどった尻尾を持ち、全身がヤシ科の植物シュロの毛や布で覆われています。 毎年7月22~24日に開催される「和霊大祭(われいたいさい)・うわじま牛鬼まつり」などの祭りで、数十人の若者に担がれ、長い首を打ち振りながら市内を練り歩きます。 本デザインのカラーマンホール蓋は、JR宇和島駅に近いアーケード商店街「きさいやロード」内とその周辺に設置されています。 中には色違いの蓋もありますので、じっくり散策してみてください。」

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ご当地マンホール in 愛媛県旧御荘町&旧城辺町(愛南町)

2021年01月11日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

旧南宇和郡御荘町(みしょうちょう)は愛媛県の最南端に位置した町です。南宇和郡城辺町・西海町・内海村に隣接。僧都川の流域及びそのデルタ地帯に平地が広がり、海岸部は足摺宇和海国立公園に指定され、豊後水道を臨む豊かな自然と景勝に恵まれた町です。町名は王朝時代に延暦寺の荘園がこの地にあり、あがめて「御」を附し「御荘」と呼ぶようになったのが始まりとされ、古い歴史を有します。「町の木:アコウ」「町の花:エビネ」「町の鳥:シラサギ」を制定。

旧キャッチフレーズは「感動の出逢いをあなたに・・・御荘町」

明治22年(1889)、町村制の施行により、南宇和郡御荘村が発足。

1923年、御荘村が町制を施行、南宇和郡御荘町(第一次)が発足。

1956年、南宇和郡南内海村と合併、南宇和郡御荘町(第二次)が発足。

2004年、城辺町、内海村、一本松町、西海町と合併し、南宇和郡愛南町となりました。

マンホールには町章と「町の鳥:シラサギ」、周囲に「町の花:エビネ」「町の木:アコウ」がデザインされています。

1991年4月制定の町章は「御荘町のイニシャル「M」をデザイン化したもの。 自然の中に生きる鳥や海の動物をかたどった形態とし、親子が愛情を交わす姿を表現。恵まれた自然の中で暮らす御荘町の人々を象徴しています。」旧公式HPより


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旧南宇和郡城辺町(じょうへんちょう)は愛媛県の最南端、南宇和郡の中央に位置した町です。南宇和郡御荘町・西海町・一本松町・北宇和郡津島町に。さらに県を跨いで高知県宿毛市に隣接。北に四国山地から分岐して東から西に走る篠山山脈、南は東西に長くひらけて太平洋に面しています。町名は、戦国時代、諏訪山に常盤城(亀城)が築かれ、これが「城辺」という地名の由来の一つとされます。「町の木:杉」「町の花:百合」「町の鳥:メジロ」を制定。

旧キャッチフレーズは「海・人・緑 さわやか城辺」

明治22年(1889)、町村制の施行により、南宇和郡城辺村・緑僧都村・東外海村が発足。

1923年、城辺村が町制を施行、南宇和郡城辺町が発足。

1952年、南宇和郡緑僧都村と合併、南宇和郡城辺町(第二次)が発足。東外海村が町制を施行、南宇和郡東外海町となる。

1956年、城辺町が東外海町と合併、南宇和郡城辺町(第三次)が発足。

2004年、御荘町、内海村、一本松町、西海町と合併、南宇和郡愛南町となりました。

昭和41年(1966)9月21日制定の町章は「3ヶ町村が合併し、ひとつの輪のうちで結束うえ、大いなる躍進を意味するもの。」旧公式HPより

(※)旧南宇和郡城辺町のご当地マンホールは見つけられませんでした。

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旧南宇和郡西海町(にしうみちょう)は愛媛県の南予地方に位置した町です。南宇和郡御荘町、城辺町に隣接。船越半島南部のほぼ中央にある権現山を中心とした地域で、海岸に沿った県道沿線のいくつかの入り江に漁業集落が形成。海岸はほとんどが磯で、その沖合いの多数の小島や碆は好漁場となっており、鹿島は観光地として知られ、小浦、船越、武者泊地域には平家落人伝説が残されています。「町の木:山桜」「町の花:ノジギク・ハマユウ」「町の鳥:ウグイス」「町の魚:イシダイ」を制定。

旧キャッチフレーズは「海・ふれあい・ホットにしうみ21」

明治22年(1889)、町村制の施行により、南宇和郡西外海村が発足。
1952年、西外海村が町制を施行、改称して南宇和郡西海町が発足。
2004年、御荘町、城辺町、一本松町、内海村と合併、南宇和郡愛南町となりました。

昭和47年(1972)11月制定の町章は「海を三つの「ウ」で表し、「和」で纏めたものです。」

旧南宇和郡西海町は未訪問のため、ご当地マンホールの有無は未確認です。

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2013年の車泊の旅では、「道の駅・みしょうMIC」にて車中泊をさせていただきました。産直市場内には牛鬼の頭が展示されていて、流石は宇和島圏域だと思ったのですが、実はこの牛鬼、愛南独自の形なのだそうで、いわれて見れば、表情も何処となくユーモラスです。美味しいお土産にお弁当、いずれも懐かしい思い出です。

車で旅をする私たちにとって、この様な施設は本当に有り難く大切な場所です。

改めて、その折には有難うございました🙏🙏

撮影日:2013年3月24日

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ご当地マンホールin愛媛県愛南町&旧一本松町&旧内海村

2021年01月10日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

南宇和郡愛南町(あいなんちょう)は愛媛県の最南端に位置する町です。2004年10月1日、南宇和郡御荘町・一本松町・城辺町・西海町・内海村が合併し発足しました。北は篠山から観音岳を経て由良半島に至る稜線で宇和島市に。さらに県を跨いで東は、松田川支流の篠川で高知県の宿毛市に隣接。西は内海湾、南は宿毛湾に面し、町域の大部分を占める山地がそのまま海に落ち込む形の複雑なリアス式の海岸線で、足摺宇和海国立公園の一部となっています。中央を大きく弧を描くように流れる僧都川の河口部に平地が小さく開けており、役場のある城辺地区もここにあります。「町の木:ウバメガシ」「町の花:アケボノツツジ」を制定。

キャッチフレーズは「ともにあゆみ育て創造するまち 豊かな自然につつまれた愛あふれるまち“愛南町”」

2004年10月1日制定の町章は「愛南町の愛(ai)の文字を組み合わせて図案化したものです。宇和海の波と新生・愛南町の未来に飛躍するエネルギーを表し、主役である町民の活力と和(輪)の広がりを表現しています。」HPより

えひめ南予PRキャラクター「にゃんよ君」。南予地域に良く出没する気ままなネコさんです。

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旧南宇和郡一本松町(いっぽんまつちょう)は愛媛県南予地方、高知県との県境に位置した町です。南宇和郡城辺町、北宇和郡津島町に。また県を跨いで北に篠山を境に高知県宿毛市に隣接。町域は東と西が山地にはさまれた小規模な盆地を形成。町域における河川はいずれも小規模で、農業用水利はため池に頼ってきたため、町内には多数のため池が存在します。「町の木:松」「町の花:ヤマザクラ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、南宇和郡一本松村が発足。

1962年、一本松村が町制を施行、南宇和郡一本松町が発足。

2004年、南宇和郡御荘町、城辺町、西海町、内海村が合併し、愛南町となりました

マンホールには町章を中心に「町の木:松」と「ツツジ」が交互にデザインされています。

昭和43年(1968)7月制定の町章は「「本」を中心にし、松葉で松を表し、「一」を円形に図案化したものです。」合併協議会資料より

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旧南宇和郡内海村(うちうみむら)は愛媛県の南部、南予地方に位置した村です。南宇和郡御荘町・城辺町、北宇和郡津島町に隣接。宇和海に突き出した由良半島のふところに抱かれた、彎曲の多い地形であり、傾斜地がほとんどで平地はわずか。主に水産業が盛んで、全就業者の7割が水産業に関係し、真珠母貝の養殖技術が導入されてからは、海域の条件が適合していたこともあり、主力産業に躍り出て大いに繁栄しました。「村の木:ウバメガシ」「村の花:山桜」「村の鳥:メジロ」を制定。

須の川の集落入り口に疫病除けの巨大草鞋が吊るされていました。集落へ入ろうとした疫病神は「こんなに大きな草鞋を履く者には適わない」と思って逃げ帰るのだそうです。

旧キャッチフレーズは「いきいきとした生活と活力のある内海村」

明治22年(1889)、町村制の施行により、南宇和郡内海村が発足。

1948年、中浦・猿鳴・高畑・赤水・防城成川及び平山の一部が「南内海村」として分立。(1956年、南内海村は御荘町と合併。)

2004年、御荘町、城辺町、一本松町、西海町と合併、南宇和郡愛南町となりました。

漁業集排のマンホールには「真珠貝のふる里」「うちうみ」の文字と「真珠を持った人魚」、 周囲に波と真珠がデザインされています。

昭和時代に制定された村章は「内海の「内」を図案化したものです。

撮影日:2013年3月24日

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ご当地マンホール in 愛媛県鬼北町&旧広見町&旧日吉村

2021年01月09日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

北宇和郡鬼北町(きほくちょう)は愛媛県南西部に位置する町です。四万十川の上流、広見川流域の中山間地帯に位置する町です。2005年1月1日 - 広見町と日吉村が合併して発足しました。西は宇和島市、北は西予市、南は北宇和郡松野町に。さらに県を跨いで東は高知県高岡郡檮原町、四万十町に隣接。1,000メートル級の山地に囲まれた典型的な中山間地域にあり、清流四万十川の最大級の支流である広見川や足摺宇和海国立公園に指定されている成川渓谷など、豊かな自然をベースとした観光資源に恵まれています。「町の木:ヒノキ」「町の花:ツツジ」を制定。

キャッチフレーズは「森がすくすく、川がいきいき、人が元気 ~自然満足都市 きほく~ 豊かな自然と人が響きあうまちづくり」

2005年1月1日制定の町章は「鬼北町の「き」「ほ」「く」の文字を基本モチーフとして、緑色部分で、人・自然・調和、青色部分で清らかな川・発展を表現し、自然豊かな、いきいきとしたまちであることを図案化した町章です。」公式HPより

鬼北町の頭文字「鬼」をモチーフに誕生した「きほくん」。好きな食べ物は「きじ肉」で・・・ちなみにお友達は雉の「きじの助」・・って😱

鬼北町の特産品である「きじ」をモチーフに誕生した「きじの助」。「きほくん」と一緒に、全国に鬼北町をPRしようと日々頑張っています。

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旧北宇和郡広見町(ひろみちょう)は愛媛県の南予地方に位置した町です。宇和島市、北宇和郡松野町・三間町・日吉村、東宇和郡野村町・城川町に隣接。町域は四万十川の上流の一つ、広美川ほかの流域で、わずかに盆地がひらけた中山間地であり、農林業が主産業の町です。「町の木:檜」「町の花:ツツジ」を制定。

旧キャッチフレーズは「”森林文化都市・広美” 山・川の恵み、自然がときをきざむ里」

明治22年(1889)、町村制の施行により、北宇和郡好藤(よしふじ)村・愛治(あいじ)村・旭村・泉村・三島村が発足。

1941年、旭村が町制を施行、改称して北宇和郡近永(ちかなが)町が発足。

1955年、好藤村、愛治村、近永町、泉村、三島村が合併、北宇和郡広見町が発足。

2005年、広見町が日吉村と合併、北宇和郡鬼北町となりました。

マンホールには町章を中心に、「川カニ:小」「町の花:つつじ」「川カニ:大」特産品の「栗」がデザインされています。

西部地区集排のマンホールには、広見川で飛び跳ねる「アユカケ」と「町の花:ツツジ」がデザインされています。(アユカケは、鰓蓋に鋭い棘があり、これを待ち伏せたアユ等に引っ掛けて捕らえるの事からつけられた名です)

昭和33年(1958)1月12日制定の町章は「「ヒ・ロ・ミ」の三文字を組み合わせて図案化したもので、全体の形が末広がりで生々発展を表し、中央のミは、太陽を象る意味も含まれ、太陽の面影を受け進歩発展する町でありたい念願を求めたものである。」合併協議会資料より

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旧北宇和郡日吉村(ひよしむら)は愛媛県の南部に位置した村です。北宇和郡松野町・広見町、東宇和郡城川町に、さらに県を跨いで高知県高岡郡檮原町、幡多郡大正町・十和村に隣接。村境付近は高研山をはじめとして1000m級の山がそそり立ち、地形は急峻。93%が林野で、耕地は僅か3%しかありません。村名の由来は村の中心地の祭神に「日吉権現」があり、村人は日吉様と呼んでいた事が地域の名に転化したと云われています。「村の木:ヒノキ」「村の花:サツキ」を制定。

旧キャッチフレーズは「しいたけとゆずの香り日吉村」「しまんとロマン日吉」

明治22年(1889)、町村制の施行により、父野川村・上大野村・下鍵山村・上鍵山村・日向谷村が合併、北宇和郡日吉村が発足。

2005年、広見町と合併、北宇和郡鬼北町となりました。

マンホールには、「しまんとロマン」「日吉夢産地」の文字と「広見川を飛び跳ねる鮎」「椎茸」「ユズ」がデザインされています。

昭和41年5月1日制定の村章は「中央の日は太陽の火で、周囲は日四つで日吉を意味し、山村の伸びゆく様子を実現。」合併協議会資料より

撮影日:2013年3月25日

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ご当地マンホール in 愛媛県伊予市&旧伊予市

2021年01月07日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

伊予市(いよし)は愛媛県のほぼ中央に位置する市です。2005年4月1日、旧伊予市、伊予郡中山町、双海町と合併、新たに伊予市が発足しました。大洲市、喜多郡内子町、伊予郡松前町・砥部町に隣接。道後平野の西南部から四国山地の一部にわたり、西北は風光明媚な瀬戸内海に面しており、県都松山市から約10km、南予の玄関口に市域が開けます。「市の木:メタセコイア」「市の花:菜の花」を制定。

キャッチフレーズは「ますます いよし」「ひと・まち・自然が出会う郷(くに)」

マンホールには「市章」と「旧伊予市の花・ツツジ」、周囲に「ミカン」と「ツツジ」が交互にデザインされています。

2005年制定の市章は「「い、よ」の文字をモチーフに豊かな緑や海などの自然や太陽、人々が未来へ躍動する姿を「無限大∞」のフォルムに重ね合わせて表現。「ひと・まち・自然が出会う郷」新伊予市がさらに発展、飛躍していく姿をシンボライズしました。」HPより

味の五勇士リーダー「ミカンまる」。今まで風邪をひいたことがないのが自慢で、伊予市の魅力を全国に広める為に頑張っています。残りの四勇士が気になる。

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旧伊予市(いよし)は愛媛県中予地方に位置した町です。伊予郡中山町・双海町・松前町・砥部町に隣接。灘町地区には、石造りの萬安港(ばんあんこう)旧灯台や、平家の姫が身を投じて五色の石になったという伝説が残る五色浜で知られる「五色浜公園」、恋人の聖地に認定された伊予灘SAの「ハートロックフェンス(2019年に撤去)」が有名。伊予灘SAには、応援キャラクター「にゃんだ」なども存在しています。「市の木:メタセコイア」「市の花:ツツジ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、、伊予郡郡中町・郡中村・南山崎村・北山崎村・南伊予村が発足。

1955年、 伊予郡郡中町、北山崎村、南伊予村、南山崎村が合併し、市制を施行、伊予市が発足。

1958年、 伊予郡中山町平岡地区の一部を編入。

市域には、旧市章のあるデザインマンホールは見つけられず、規格蓋のみ。

昭和30年(1955)9月30日制定の市章は「「イ」を図案化し、四つの「ヨ」を表しています。」

撮影日:2011年6月13日

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旧伊予郡中山町(なかやまちょう)は愛媛県の中予地方に位置した町です。伊予市・伊予郡双海町・砥部町・喜多郡内子町に隣接。町域は肱川の上流の一つでもある中山川流域に開け、農林業が主体。日本三大栗として知られる「中山栗 」の生産で知られるほか、梅、畜産等が営まれています。「町の木:栗」「町の花:梅」を制定。

1889年、町村制施行により、下浮穴郡出淵村、中山村が発足。
1897年、郡制の施行により、下浮穴郡が伊予郡に郡域変更。
1907年、伊予郡中山村・出淵村が合併、伊予郡中山村が発足。
1925年、中山村が町制を施行、伊予郡中山町が発足。
1955年 、伊予郡佐礼谷村と合併、新・中山町が発足。
2005年、旧伊予市、伊予郡双海町と合併し、伊予市中山町となりました。

昭和50年10月1日制定の町章は「「な」を円形に図案化したものです。」

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旧伊予郡双海町(ふたみちょう)は愛媛県中予地域の一番西に位置した町です。伊予市・大洲市・伊予郡中山町・喜多郡長浜町に隣接。中央構造線に沿って伊予灘に接する海岸線が北東から南西方向に伸びており、伊予灘になだれ込むような地形で山が迫り、平地はきわめて乏しい町です。傾斜地と海岸線を縫うように敷設された予讃線は車窓の間近に伊予灘を望み風光明媚なことで知られています。「町の花:ツツジ」を制定。

旧キャッチフレーズは「しずむ夕日が立ちどまる町

1896年、町村制の施行により、伊予郡上灘村・下灘村が発足。
1921年、上灘村が町制を施行、伊予郡上灘町が発足。
1955年、上灘町と下灘村が合併、伊予郡双海町が発足。
2005年、旧伊予市、伊予郡中山町と合併し、伊予市双海町となりました。

昭和49年(1974)8月29日制定の町章は「蜜柑と波頭を象ったものです。」

(※)旧伊予郡双海町、旧伊予郡中山町は未訪問のため、ご当地マンホールの有無は未確認です。

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