車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

掛塚貴船(かけつかきぶね)神社 in 静岡県磐田市竜洋町

2019年03月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

磐田市掛塚に鎮座される「貴船(きぶね)神社」

御祭神は『高龗神(たかおかみのかみ)』 上に雨、真ん中に□□□、下に龍と書く「龗(おかみ)」は、龍の古語と云われます。
「古事記」には『淤加美』と表され、水や雨を司る『水神・竜神』として信仰されてきました。

由緒【本社の鎮座の年代は詳らかではありませんが、室町時代以前の創立と伝えられます。往古は多く「貴布祢明神」、または「貴布祢神社」と記し、又「木船、黄船」等の文字が諸書に見えます。天正4年(1576)に社殿の再建を行いましたが、この社殿は明治16年(1883)9月6日の火災に罹り境内樹木と共にすべて焼失してしまいました。 其の後、本殿は明治20年(1887)、拝殿及び幣殿は明治30年(1897)に再建されました。更に昭和10年(1935)には幣殿の増築を行い、昭和62年(1987)に御本殿鞘堂を創建され現在に至って居ります。】

拝殿の両脇より神域を守護されるのは、花崗岩制で大正6年9月生まれの狛犬さん一対。 折からの西日を受けて、阿形さんの全身は炎のように赤く染まり、さらに迫力が増しました。

お目当ての狛犬さんと対面出来て満足のご亭主殿(〃∇〃)

拝殿内に奉納された能面額。特に何らかの謂れは無さそうですが、もう少し正面から見たかったけれど、それが出来なかった理由が思い出せない。

貴船神社の境内には十一社の末社が祀られており、こちらはその一つで「末社:厳島神社」。 御祭神は『市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)・田心姫命(たごりひめのみこと))・湍津姫命(たぎつひめのみこと))』

本殿の裏手にはいくつもの摂社・末社が祀られていますが、迫る宵の気配に急かされました。 銅板葺の手水舎(水屋)の画像があるのは、側に防火用の井戸があったから。

「水」の文字に、自治体名も自治体章も無い「防火井戸」。明治年間、数度の火災に遭った歴史を思うと、神域にある井戸の存在はとても重要だったのではないでしょうか。

その昔、江戸~大坂の中間の湊として栄え「遠州の小江戸」とまで呼ばれた「掛塚湊」。当時の繁栄を今に伝える「掛塚貴船神社の祭礼」では、古くから伝わる山車が繰り出されます。
諏訪の立川一門、遠州の宮大工、尾張・三河地方の堂宮彫刻の技が施された豪華絢爛な屋台。 人ごみも、人並みの頭越しに爪先立ちするお祭見物も苦手ですが、豪華絢爛な屋台はこの目で直に拝見したい。

参拝日:2011年11月16日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 静岡県旧竜洋町(磐田市)

2019年03月30日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

旧磐田郡竜洋町(りゅうようちょう)は静岡県西部、遠州中部に位置した町です。浜松市、磐田市、豊田町に隣接。天竜川が太平洋に注ぐ河口東岸の駒場地区には、広大な敷地を有する竜洋海洋公園があり、展望台、プール、室内テニスコートなどのスポーツ施設、コテージやトレーラーハウスもあるオートキャンプ場、ラジューム温泉施設のあるレストハウスもあり、滞在型レジャーも楽しめる事から、一年を通して多くの人で賑わっています。「町の木:松」「町の花:サルビア」を制定。

竜洋支所内の壁一面には、遠州灘を照らす「掛塚灯台」の陶板壁画が来庁者を出迎えてくれます。

旧キャッチフレーズは「水と光と緑の町」

明治22年(1889)、町村制の施行により、長上郡掛塚村、豊田郡袖浦村・十束村が発足。

1896年、郡制の施行により、長上郡・豊田郡が磐田郡へ編入。

1896年、掛塚村が町制施行し磐田郡掛塚町が発足。

1955年、掛塚町と袖浦村・十束村が新設合併し、磐田郡竜洋町が発足。

2005年、磐田市、豊田町、福田町、豊岡村と合併、磐田市となりました。

磐田市福田支所内の展示蓋には「町の木・松」と「遠州灘を照らす掛塚灯台」が描かれています。 「掛塚灯台」が初めて設置されたのは明治13年、現在は2代目で2002年に現在地に設置されました。

上記と同じデザインですが、こちらは磐南浄化センターの展示蓋で、若干の色落ちが見られます。

「ドラゴンサミット」に参加している竜洋町。マンホールには「タツノオトシゴ」と遠州灘の波。 ドラゴンサミットは、自治体名に「龍」「竜」の字を含む市町村による、交流事業の名称です。

昭和38年11月1日制定の町章は「「りゅうよう」の頭文字「り」を象ったものです。」

上水道関連の蓋は各種の消火栓と制水弁。仕切弁が一枚も見つからなかったのが不思議。

よくデザインマンホールと混同される規格蓋、なぜか「農水省の空気弁」に多く使用されています。

撮影日:2011年11月16日&2016年12月15日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 静岡県旧豊田町(磐田市)

2019年03月29日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

旧磐田郡豊田町(とよだちょう)は静岡県の西部、天竜川左岸に位置した町です。北および東は磐田市、西は天竜川を境にして浜松市、南は竜洋町に隣接。町東部は標高70m前後の磐田原洪積台地で、台地西縁は旧河川の浸食を受け、この急斜面に原生照葉樹林帯が形成。台地と現天竜川の間に発達した扇状沖積地が町域の大半を占めています。古代から交通の難所であった天竜川の渡河地点として適地であった池田村は徳川家康から天竜川渡船の特権を与えられ、天領のほか多くの旗本知行所による分割支配が幕末まで続き、近代まで繁栄してきました。天正18年(1590)平野重定が寺谷用水を完成させ、今ではさまざまな農作物が収穫されています。「町の木:金木犀」「町の花:藤」を制定。

豊田支所内の壁一面を彩るのは、天然記念物に指定された「熊野(ゆや)の長藤」。花房の長さは1m以上に達するものもあるといわれ、花の季節には多くの観光客が訪れます。

明治22年(1889)、町村制の施行により豊田郡富岡村・井通村・池田村が発足。

1896年、郡制の施行により磐田郡、山名郡、豊田郡の大部分が併合され改めて磐田郡が発足。

1955年、富岡村と井通村が合併、磐田郡豊田村が発足。

1955年、豊田村が磐田郡竜洋町の一部と、池田村を編入。

1973年、豊田村が町制を施行、磐田郡豊田町となります。

2005年、磐田市、竜洋町、福田町、豊岡村と合併、磐田市となりました。

磐南浄化センターの展示蓋には、町の花であった「藤」が鮮やかに描かれています。

藤の花が描かれたカラーマンホールは、豊田町駅前のタイル歩道上に設置されています。

遊歩道には、「町の花:藤」と「町の木:キンモクセイ」のタイルもあります。

昭和32年9月29日制定の町章は、豊田村章として制定され、町制施行後に継承。「町の頭文字「ト」を図案化して4つを周りに外向けに配して「トヨ」とし、その円の中央の「十」によって「田」とし、これらの円を翼形に作図して融和団結と飛躍発展を表させ、端的に融和発見の豊田町を象徴しています。」旧公式HPより

豊田町駅前には、『熊野(ゆや)御前』の像と「熊野の長藤」の由来が記された案内があります。『熊野御前』は能楽「熊野」の主人公で、平安時代末期、平清盛の三男・宗盛の寵愛を受けたとされる女性。

その『熊野(ゆや)御前』が池田の「行興寺」に手植えした藤が「熊野の長藤」。「行興寺」には『熊野御前』のお墓もあるとか、是非一度訪ねてみたいものです。
このデザインがそのまま使われたマンホールが、藤と香りの道の遊歩道に有ったと知ったのは・・つい最近の事(-"-)。

「藤と香りの道」の洒落たタイル、この遊歩道・・歩いた筈なんですけどね・・・(;_;)歩き足りなかったと思うしかない。

撮影日:2016年12月15日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 静岡県旧福田町(磐田市)

2019年03月28日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

旧磐田郡福田町(ふくでちょう)は静岡県の西部、磐田郡の南端に位置し、北および西は磐田市に、東は浅羽町に接し、南は白砂青松の遠州灘に面していた町です。町のほぼ中央を太田川、彷僧川、今之浦川の2級河川が縦横に流れ、河口付近で合流し遠州灘(太平洋)へと至ります。主な産業は、全国シェア90%以上を誇るコーデュロイなどの織物、温室栽培の発祥の地として知られる温室メロン栽培、福田漁港を拠点としたシラス漁とその加工が有名です。さらに毎日定時に防災行政無線を流していることでも知られ、合併後の現在でも変わらず継続されています。「町の木:松」「町の花:菊」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により福島村・豊浜村・於保村が発足

1896年、郡制の施行により、山名郡・豊田郡が磐田郡に編入。

1926年、福島村が町制を施行し、磐田郡福田町となります。

1955年、南御厨村が分割され、福田町と磐田市へ編入。福田町が磐田郡豊浜村と新設合併し改めて磐田郡福田町が発足。

1957年、於保村が分割され、福田町と磐田市へ編入。

2005年、磐田市、豊田町、竜洋町、豊岡村と合併し、磐田市となりました。

磐田市福田支所内の展示蓋には、遠州灘を背景に、一面に「ハマボウ」が描かれています。

これも同じく福田支所内の展示蓋で、「福田海岸」の手前に「ハマボウ」の花です。

磐南浄化センターの展示蓋にも同じものがあり、路上にもこちらのデザインが多く見られました。

昭和43年11月9日制定の町章は、「フ」を用いて、遠州灘に面した町を端的に表しています。

上水道関連の蓋は仕切弁・制水弁・消火栓とありましたが、何故か制水弁だけが圧倒的多数。

支所の敷地内にあった「国土調査の図根点」と側溝蓋、いずれにも町章が記されています。

「日之出水道機器株式会社」の耐スリップマンホールは、下に小さく汚水を表す「お」の文字だけです。

磐田市、掛川市、袋井市、御前崎市、菊川市、森町に展開する「中遠水道」のマンホール。

撮影日:2011年11月16日&2016年12月15日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風祭山 福王寺(ふくおうじ) in 静岡県磐田市

2019年03月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

磐田市城之崎に境内を構える曹洞宗寺院「 風祭山:福王寺(ふくおうじ)」。遠州三十三観音霊場18番札所。御本尊は行基菩薩作と伝えられる重要文化財『聖観世音菩薩』

朱塗りの総門は3間1戸の薬医門で、寛文年間(1661~1673)に建立されたと伝えられます。 総門の両側には別に柵が立てられており、阿吽のお姿で仁王像が建立されています。

こちらの総門、大正3年に修理が行われたそうですが、もしかしてこの瓦はその時の物? 最初は単純に「鳥」程度の認識だったのですが、よく見ると阿吽を現す「松に鷹」の構図。 阿に相当する鷹は大きく羽を広げて飛翔しようとする形、吽の鷹は枝の間で羽を休めています。

総門をくぐり参道を進んだ先に、慶応4年(1868)に建立された「鐘楼門」

寺紋は「丸に竜胆(りんどう)車」。竜胆を用いた紋は、源氏にゆかりの深い紋としてよく知られています。

縁起に【福王寺は今から1000有余年前に真言宗高野山の末寺として建立。その後、500有余年前の文安元年(1444)に『天翁義一禅師』を迎え曹洞宗に改宗。爾来法灯連綿として現在に至っている古刹である。】

寺はまた、「遠江四十九薬師霊場客番」の霊場であり、「遠州七福神・福禄寿」の札所としても有名。

本堂の右手には「安倍晴明堂」。扁額には「清明大権現」。堂内には、陰陽師『安倍晴明』像が風神として祀られています。

古文書によると【寺の寺号「風祭山」と称する云われは、開創当時の永観2年(984)に遠州一帯に暴風が来襲した時、たまたま京都から諸国行脚の途次に来遠していた陰陽師『安倍清明』のご祈祷によって、暴風を鎮められ多くの人々の災難を救われたとある。このことによって福王寺の山号を「風祭山」と称し、それ以来、毎年3月8日に風祭りの行事が行われている】

ちょうど逆光でお堂の映りはいま一つですが、桟に施された「晴明桔梗印」はクッキリ! 一般的には「五芒星」の名で知られる「晴明桔梗印」、陰陽道の祈祷呪符としても有名です。

【 来る人も また来る人も 福の神 】睦まじい同祖神の姿に心惹かれて写した一枚。右の地蔵様もその得も言えぬ優しさに思わず手を合わせた一枚。

御詠歌 【かすみはれ みどりのそらも のどけくて はなやきのさき じひのはるかぜ】

参拝日:2016年12月15日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淡海国玉(おうみくにたま)神社 in 静岡県磐田市

2019年03月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

2010年4月・2016年12月の二度に渡る「淡海国玉(おうみくにたま)神社」参拝。

磐田市見付に鎮座される「淡海国玉神社」。先日紹介した「見付天神」とは縁の深い神社で、主祭神は『大國主命』

由緒に【創立年代不詳なれども 延喜式神名帳所載式内社で あり、国史現在社で古来 当国鎮座国府総社と称す。朝廷並に武門武将の崇敬 厚く一條天皇正暦二年 依勅舞車の神事執行す】

「三間社流造」の本殿脇内陣には、遠江国磐田郡の式内社「御子神社(瓊々杵命・木花開耶姫命)」「御祖神社(鴨御祖神)」「須波若御子神社(須波若神)」の三社を合祀。
その他にも「熊野神社(速玉之男命・事解之男命・伊邪那岐命)」「浅間神社(木花開耶姫命)」「御霊神社(御間城入彦五十瓊殖天皇)」「山神社(大山咋神)」「智満稲荷神社(宇迦之御魂命)」「神明神社(天照大神・豊受大神)」「赤髭神社(赤鬚神)」「三神社(須佐之男命・豊受大神・迦具土命)」「本宮神社(大己貴命)」の九社を合祀。
また、明治期に存在していた境内社「春日神社」「八幡神社」「稲荷神社」も、現在は本殿に合祀されているそうです。

石段参道の途中、手水舎の隣にあるのはかっての「神の井」と思われますが、重石代わりにしているのは、どう見ても灯篭の台座・・・

反対側の柵の中には大切に保存されていると思われる石灯籠。丁寧に作られた囲いから想像できるのは、よほど古い年代の奉納か、もしくは名のある人物の奉納か。

御神門の向こうには気持ちよい空間が広がり、市文化財に指定された社殿が見えています。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、「因幡の白兎」と『大國主命』の神話にちなんだ狛兎一対。それぞれに仔兎と鞠をもっています。ちょっと可愛いと思ったのは、仔兎にも紅白の紙垂(しで)が掛けられていた事(^-^)

文久3年(1863年)の造営になる拝殿は立川流の棟梁「昌敬」の遺作として有名で、特に向拝の「子持ち龍」・貫の「獅子」などの彫刻が有名なのですが・・、文化財保護のためにネットが掛けられており、画像では今一つ。

そんなため息が聞こえたのか(笑)、貫の獅子だけネットからはみ出しており、精悍な表情までも読み取る事ができました。

本殿(附 棟札5枚)は、明暦3年(1656年)頃の造営で、2015年12月8日に静岡県指定有形文化財。幣殿・拝殿は文久3年(1863年)の造営で、2016年3月28日に磐田市指定有形文化財に指定。広い境内の中にゆったりと座す神の社、見える景色の全てに神の息吹が感じられる美しい場所です。

参拝日:2010年4月18日&2016年12月15日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

矢奈比賣(やなひめ)神社(見付天神)~其の二 in 静岡県磐田市

2019年03月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

「霊犬神社」への参拝も済ませる事が出来ました。それでは再び「矢奈比賣神社」の境内へと戻ります。 別名「見付天神」の天神様と言えば学問の神様、学問の必需品「筆記具」が収められた「筆塚」は天神社の必須アイテム。

「印塚」というのはあまり見かけませんが、使わなくなった「印鑑」が収められているのでしょうか?。

「遠江国風土記伝」に【天神山の中に雷塚あり】の記述がありますが、この地がそうでしょうか? 天神様は自在に雷を操ったとされています。草に覆われた「雷塚跡地」は、もしかしたらその伝説の地かもしれません。

「大神宮遥拝所」と書かれた建物。「大神宮」とは「伊勢神宮の宮号(きゅうごう)」の一つ。一般的には碑を建立して玉垣などで囲む形式が多く、こうした建物があるのはちょっと珍しいです。

毎年8月13日に行われる「梅之湯祭」は、一年間おなかの病気にかからないようにと祈るお祭。 「梅之湯御霊水之井戸」の水を釜で沸かし、鉄分豊富な「梅の湯」を頂いてお参りします。

拝殿近く、天空に向かって両手を広げるように聳える御神木は、樹齢およそ400年の「桧」の巨木。 思わず見上げてしまうのは、桧の持つ清清しい力がそうさせるのか・・青い空に良く似合います。

御神木の側には沢山の絵馬が奉納されており、ヤマハ・ジュビロの選手たちの大絵馬も。必勝祈願の文字を中心に書き込まれた選手たちの名前を見ていると、変なイデオロギーは無いようで何となく笑顔になる自分がいます。

板塀と注連縄の結界で守られた「御池」は、例祭の折に神事に使用される重要な場所。 池の中央に「神籬(ひもろぎ)」を立て、「天神地祇(てんしんちぎ)」を御招きするのです。
「高天原の天つ神」「豊葦原の国つ神」すべての神々を指し示す「天神地祇」。 理由は不明ですが、このような「御池」を用いた神事があるのは、他に「伊勢神宮」のみだそうです。

『少彦名命』『言代主命』『闘鶏稲置大山主命(つげいなきおおやまぬしのみこと)』を御祭神とする「氷室神社」
「闘鶏稲置大山主命」は古墳時代の豪族とされ、奈良の「氷室神社」の御祭神にも名があります。 「日本書紀・巻第十一」に「応神天皇」の皇子である『額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのおうじ)』に氷室とその用途を教えた人物として登場します。

境内の御神木ほど目立ってはいませんが、いわゆる「夫婦杉」と呼ばれる二股の杉。 このように根元部分から二つに分かれた杉というのは、全国各地の寺社でかなり頻繁に目にし、ほぼ98%の確率で「夫婦杉」と呼ばれます(^^;)

朱塗りの鳥居が見えてきたところで、最期は「住吉神社」の参拝でおしまい。 御祭神は住吉三神:水の神である『表筒男神(うわつつのおのかみ)・中筒男神(なかつつのおのかみ)・底筒男神(そこつつのおのかみ)』

参拝日:2016年12月15日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霊犬(れいけん)神社 in 静岡県磐田市

2019年03月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

矢奈比賣神社の社務所から裏手に回り、裏参道の鳥居から境内を出た先に広がる「つつじ公園」。

その突き当たりに近い、磐田市見付に鎮座される「霊犬神社」。御祭神は『霊犬・悉平太郎』

社殿はこじんまりとしていますが清掃が行き届き、地元の方々に大切に守られている事が伺えます。

【昔、見付村では田畑を荒らされないように毎年祭の日に白羽の矢が立てられた家の娘を生贄(人身御供)として怪物に捧げていた。旅の僧が怪物の正体を暴こうと、祭の夜に様子を窺うと、「信州の悉平太郎(早太郎)はおるまいな?」と悉平太郎という人物を恐れている様子。さっそく、信州の悉平太郎を探したところ、光前寺に飼われている犬であった。
次の祭の日、悉平太郎を借り受けて娘の身代わりとすると悉平太郎は怪物:大狒狒(ひひ)と一晩中戦い続け、ついにこれを退治。悉平太郎は傷つきながらも光前寺までたどり着き、一声吠えて息絶えたとも、当社境内で死んだとも言われている。】
霊験伝説より

霊犬伝説に関してはいくつかの伝説を読みましたが、実はどれを読んでも非常に気持ちに棘が残る箇所があります。
【魔物を退治した悉平太郎、その傷ついた体で信州の光前寺までたどり着き、一声吠えて息絶えた・・】
死闘を繰り広げたんですよ、この見付の村人のために!。信州までどれだけの距離が有るか分かっているんですか!!何故手厚く手当てしなかったんでしょう。 魔物が退治されて喜ぶ前に、傷の手当をしてから丁重に送り届けるのが、恩人(犬)への最低限の礼儀じゃないですか(>_< )!!

と・・伝説に噛み付いても仕方ないですが(^^;)、光前寺の境内には「悉平太郎」のお墓があります。 偶然ですが、この物語を知る二年半前に、長野の光前寺で「早太郎(悉平太郎)」の事を知りました。
そこは、息をするだけで浄化されそうな深い緑の境内・・その涼やかさを思い出すとき「きっと早太郎はこの地で逝きたかったんだ・・ 自分の命運が尽きる前に、懐かしい故郷で、大好きな和尚さんに最期の別れを告げたかったんだ・・」と思い至るのです。

完全「猫派」の私ですが、決して犬が嫌いなわけではなく、単に苦手というだけの事。 たんなる伝説かもしれない「悉平太郎」の物語に、ついつい感情移入してしまいました(^^;)
磐田市のマンホールカードにもなった『しっぺい』は、『悉平太郎』をモデルに生まれたキャラ。 境内には凛々しい「悉平太郎像」と共に、心眼成就の提灯を掲げる『しっぺい』の絵馬もあります。

さらに「裸祭」の顔出しにも登場した『しっぺい』の提灯は、「祭組」を表す大事なアイテム。 祭の正装は「晒布の腹巻と褌(ふんどし)」「腰蓑」、頭には祭組の「印手拭の鉢巻」。さっそうと繰り出す男衆の中に白い耳が見えたなら、それはきっと『しっぺい』君。

参拝日:2016年12月15日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

矢奈比賣(やなひめ)神社(見付天神)~其の一 in 静岡県磐田市

2019年03月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

磐田市見附に鎮座される「式内社・矢奈比賣(やなひめ)神社」

御祭神は、安産・子宝・子育て・縁結びの御神徳持つとされる『矢奈比賣大神』。相殿に『菅原大神』を祀り、通称「見付天神」とも称されます。
「あと押し坂」と名づけられた些か勾配のきつい坂道には一の鳥居、その先に朱塗りの第二鳥居。

参道脇の境内社「山神社」には、『大山祇神・高龗神(たかおかみのかみ)・軻遇突知神(かぐつちのかみ)』。 ここは裸祭りの神輿が町を練り歩いた後、祭りをお開きにする為の禊を受ける大切な場所。

濃い影を落とす緑の参道の向こうには鮮やかな朱の鳥居と、「見付天神」の鳥居額。

由緒に【矢奈比売天神社の創立年月は、詳(つまび)らかではありませんが、延喜式内社に列しており、古くは市内元天神の地に祀られておりました。いつの時代にか現在地に奉遷されましたが、その年月は詳らかではありません。~中略~相殿菅原大神は一条天皇正暦四年(993)に勧請奉祀されております。】

入母屋造の拝殿、その扁額にも、二の鳥居と同じく「見付天神」の書。

拝殿前には一対の「願掛け牛」、体に触れながら願いをするのですが・・この牛「雌」ですって。 と言うことは、もう一方は「雄」・・・阿吽はよく見聞きしますが「雄・雌」の神牛さんと言うのは初耳 (^^;)(^^;)

流造の本殿は、前からでは屋根だけですが、後ろからはその綺麗なお姿が良く見えます。

前後しますが、二の鳥居の脇には忠犬として有名な「悉平(しっぺい)太郎像」

『悉平太郎』の姿をもう少し鮮明に写したいのですが、逆光でどうしても黒くなってしまいます。 実際の色はこんな風に赤茶けたものではなく青銅色ですが、雰囲気はばっちり(笑)
伝説の内容は「悉平太郎伝説の紹介」に詳しく紹介されているので、そちらをご覧下さい。

「悉平太郎像」の前には、「国指定重要無形民俗文化財 見付天神裸祭」の碑。

祭りは毎年9月頃、当神社の御神霊が遠江国魂総社・淡海国玉神社へ渡御する際に行なわれます。 御神霊の渡御に先立ち、裸の群衆が見附地区内を練り歩き、神社拝殿で乱舞する事からこの名がつけられました。
一説には、魔物退治に喜んだ村人が裸で踊り出した事が、裸祭の始まりだとも云われています。

明日は順番を変えて、「矢奈比賣神社」の奥に祀られる「霊犬神社」の紹介です。

参拝日:2016年12月15日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧赤松家記念館 in 静岡県磐田市見付

2019年03月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

明治期、横須賀造船所長、海軍造船会議議長、明治22年(1889)に開庁した佐世保鎮守府の初代長官などの要職を歴任し、日本造船の父と呼ばれた「海軍中将男爵:赤松則良(のりよし)」

磐田市見付の県道44号線沿いには、煉瓦造りの門構えが目を引く「旧赤松家住宅」が「旧赤松家記念館」として一般公開されています。

切妻屋根門の右建物は供待(ともまち)用。同じく切妻屋根門の左建物は門衛(もんえい)所として使用。

記念館には『勝海舟、榎本武楊』らに関する幕末から明治期にかけての資料や、徳川宗家十五代・慶喜公や、十六代・家達公などに関する文化財が展示、保存されており、また有料ですが磐田茶の一服も楽しめるそうです。

こちらは旧赤松家の内蔵で、一階は個人や団体等の作品展示スペースとして利用されています。

台所の洗い場として使われていた水屋。壁全部がレンガ造りの為か、まるで異国の風景を思わせる佇まい・・

ここに小テーブルと椅子を置けば、格好のBBQスペースになりそう(^-^)

こちらの建物は、明治20年代に建てられた土蔵の一つで、米蔵として使用されていたもの。現在は企画展示室として一般公開されています。

半円の窓が設けられた煉瓦と漆喰の壁・・単に間仕切りの壁なのか、後ろに何かの建物があったのか不明(^^;)

庭園の一角に設けられていた貯蔵庫と思われるもの。折角傍らに説明があったのに・・・多分、HPで検索すれば分かるだろうと思ったのが失敗のもとでした(-_-;)。

この歴史的な旧跡は、たまたま別の場所に向っている時に見かけ、急遽車を停めて貰って見学。とにかく大急ぎで目に付いたものだけを画像に収めたという、私としては非常に不本意な訪問。本当なら資料館の中も、建物の細部も見たかったのに・・・駐車場もあり、声もかけたのに・・なぜ一緒に来てくれなかったのか、思い出すたびに後ろから蹴りを入れたくなる・・歴史的建築物の見学になりました(笑)

訪問日:2010年4月18日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする