残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《師の影》第一回
左馬介には、気に掛かることが一つあった。恐らく、他の門弟達はその訳を知っているのだろう。しかし、そのことについては周知の事実なのか、誰一人として語ろうとはしない。或いは、禁句になっているのであろうか? その辺りのところが左馬介には分からない。一馬に訊けば、すぐにでも得心がいくに違いないが、新参者の左馬介としては、そうした場内の事情について、どうも切り出し辛かった。
この日の昼も師範代の蟹江は何食わぬ顔で、幻妙斎がおらず、しかも樋口が勝手に帰ったにもかかわらず、至極当然の成り行きのように他の門弟達の先頭に立って指導、監督をしている。道場の片隅に一人、座したまま稽古を見つめる左馬介である。蟹谷からは、未だ声は掛からない。
「おいっ! 秋月。前へ出て、竹刀を構えてみろ!」
遠くから蟹谷の声が掛かったのは、この日の稽古も終りに近づいた夕暮れの七ツ時であった。
遂に、道場主の堀川幻妙斎と、一風変わった樋口静山を除く中での左馬介の初稽古が始まろうとしていた。樋口は既に帰り、道場内にはいないが、幻妙斎に関しては、いるのか、いないのか、さえも分からない。