町内の自治会会員の葬儀には自治会役員として出席する。
しかし、最近は出席を断る家もある。
家族葬をするからと。
コロナの世の中になって、その傾向が増しているようだ。
確かに、コロナ下にあって密は嫌われる。
葬儀の意味は何だろうか。
亡くなられた方にとっては最後のお別れの時だ。
とは言え、本人はもうこの世には居ない。
本人の意思を生前に述べておくべきなのだろう。
果たして、本人は友人や知り合いに対し葬儀に出席を望むかだ。
私の気持ちは、見送って貰いたいと現時点で思う。
しかし、それは無駄を強要しているようにも思う。
意思を示さなかった場合、家族はどうすべきだろう。
私は過去の葬儀で本当に泣いた事は一度しか無い。
あれは小学校1年生の時で、友達の葬儀の席だった。
先生が作文してくれたお別れの言葉を読みながら、泣いてしまったのだ。
それ以来、数多くの葬儀に出席した。
親属の葬儀。
親戚の葬儀。
恩師の葬儀。
友人の葬儀。
近隣の葬儀。
しかし、あの時ほど泣いた葬儀は無い。
死というものを客観的に捉えるようになったことが一番の理由だろう。
人は、死ぬ。
子供の時『象の葬式』の記事を読んだ。
象が大好きな私は象も悲しむのだろうと理解した。
悲しむために葬儀はあるのだろうか。
他の動物において死は食物連鎖の一過程でしか無い。
その頂点に立つ動物でさえ食物連鎖の一部になるのだ。
この連鎖を完全に絶ったのが人間。
火葬という方法を編み出して、食物ではなくしてしまった。
しかし、人間の中にも鳥葬をする民族がいる。
敢えて食物連鎖の中に投入するのだ。
土葬もほぼ食物連鎖の中にある。
ヒンズー教は火葬をする。
私はかつてのボンベイでその様子を観察した。
太い薪を積んでの火葬だった。
その薪の中央で死体は蠢く。
そして、煙となって天上に昇るのだ。
僅かに残った白い骨はガンジス川に流し込む。
葬儀は儀式。
この世とあの世を繋ぐ。
アフリカで亡くなった日本の友人も火葬した。
そのころ、遺体を日本に運ぶという考えは無かった。
現地で火葬し、遺骨や遺髪を日本に持ち帰った。
あれは葬儀だったろうか。
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