司馬遷『史記』の伯夷・叔斉列伝における、超意味深な、問いかけ。
昨日の『論語と経営・コンプライアンス』セミナーで暗唱したけど、ちょっとトチっちゃった。私もまだまだだな、、、
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近世に至り、操行不軌、専ら忌諱を犯すも、終身逸楽、富厚世を累(かさ)ねて絶えず。
或いは地を択びてこれを蹈み、時ありて然る後に言を出し、行くに径(こみち)に由らず、公正に非ずんば憤を発せざるも、禍災に遇ふが若き者、あげて数ふべからず。
余甚だ惑ふ。儻(もし)くは所謂天道、是か非か。
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5年10年単位では、天道は「非」であろう。神はときに沈黙する。The mills of God grind slowly. God works in mysterious ways.
しかし、50年100年または1000年単位では、天道は「是」である。そして、そう言えるために努力するのが、人間の務め、または人生の目的ではなかろうか。
森信三の言う「絶対必然即絶対最善」。なんでもプラスに考える「こじつけ力」。これらは、天道を「是」だと言うための理屈ですね。
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コーチングネタとして、「天道は是ですか? それとも非ですか?」なんて問いかけをしてみるのがいいかもしれない。
みなさんの周りの人は、天道を「是」としている人が多いですか、それとも「非」としている人が多いですか。
天道を「是」としている人、または天道を「是」としようと思っている人に囲まれると、人生は明るくなるでしょう。
フランクル的に言えば、人生の意味は、天道を「是」にすることにある。
天道を「是」にしようとするその営みと努力と痩せ我慢。そこに人間の美しさがあるのかもしれない。