狐の日記帳

倉敷美観地区内の陶芸店の店員が店内の生け花の写真をUpしたりしなかったりするブログ

椿(ツバキ)その8。

2015年11月12日 21時53分56秒 | お花に関する日記


 本日11月12日は、パリ・コミューン初代市長のジャン=シルヴァン・バイイが処刑された日で、カシュガルで東トルキスタン・イスラーム共和国が独立の宣言を出した日で、ドイツの国会選挙で国家社会主義ドイツ労働者党・ナチスのみが出馬して全議席を占めた日で、イリで第二次東トルキスタン共和国が独立の宣言を出した日で、極東国際軍事裁判で25人の被告に対し7人の絞首刑を含む有罪判決が出た日で、西ドイツの再軍備がはじまった日で、佐藤栄作首相の訪米に反対する学生デモと警官隊が羽田空港で衝突した日で、アメリカの調査報道記者シーモア・ハーシュがソンミ村虐殺事件を暴露した日で、今上天皇の即位の礼が行われた日で、ガンバ大阪がAFCチャンピオンズリーグで初優勝した日です。

 本日の倉敷は晴れでありましたよ。
 最高気温は十八度。最低気温は八度でありました。
 明日は予報では倉敷は曇りのち雨となっております。お出かけの際はお気を付けくださいませ。



 上の写真に写っているお花は椿です。
 椿のお花に関しては、2014年11月20日の記事2013年11月29日の記事2013年1月17日の記事2011年11月26日の記事2011年4月9日の記事2009年12月6日の記事2008年12月22日の記事もよろしかったらご覧くださいませ。
 2014年と2013年と2011年と2009年と2008年の椿のお花の記事です。

 椿のお花の花言葉は、「素晴らしい魅力」です。

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『赤い糸の呻き』/西澤保彦

2015年11月12日 21時30分19秒 | 小説・本に関する日記




 昨日の夜は、西澤保彦の小説『赤い糸の呻き』を読んでいました。
 5編の短編推理小説集です。

 ユニークなキャラクター達。
 そしてどのお話も思ってもいなかった方向に物語が展開していきます。
 気持ち良い推理小説ですね。

 面白かったですよ。
 昨夜は夢中で読んでおりました。
 楽しめましたよ。

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芸は虚実の皮膜の間にあるものなり。虚にして虚にあらず実にして実にあらず。この間に慰みが有るものなり。

2015年11月12日 21時20分30秒 | サッカーに関する日記



 表現の自由とか言論の自由とかについて書いてみようか。と思ったのだけれども上手くまとまらない。
 のだけれどもまとまらないまま徒然と書いてみることにします。
 読者諸賢には嗤いながら読み飛ばしていただくと幸いにございます。
 多分、色々間違っています。



 言葉狩りという言葉は迂闊に使ってよい言葉ではないと思うのです。
 世に出ている表現の自由が云々かんぬんとか言論の自由が云々かんぬんとか言葉狩りだ云々かんぬんとかは、実際にはそんな事案ではないことが多いのです。全く問題が違う場合が多いのです。
 規制そのものは各業界で無数に存在しているのですが、それは表現の自由とか言論の自由とは全く違うところで動いているシステムであって、表現の自由とか言論の自由とかを束縛しているわけではないのです。
 表現者は自分で全ての責任を取るのならば業界内で規制があってもそこは突破できるのです。突破する道はいくらでもあるのです。
 しかし、業界内の規制を無視するのならばその業界は問題が起こってもその人を守ることができませんよ、だから業界とは関わりないところで表現してくださいよ。ってだけなのです。
 個人としてではなく何かの集団の力を借りて表現する場合、その集団は自衛手段としてトラブルとなりそうな表現の仕方について当然クレームをつけます。誰だって面倒は厭ですから。
 そのクレームに対して話し合いで撤回させることはできますし表現方法を変えてもよいしその集団の力を借りるのをやめて発表する場所を他の場所に求めてもよい。
 言葉狩りとか表現の自由とか言論の自由とかそんな言葉は、特定の言葉を公で使うと刑務所にぶち込まれてしまう、という案件で使う言葉だと思うのです。
 各業界に存在する自主規制に問題がある場合は、その問題点について語るべきであって、表現の自由とか言論の自由とかとは違う問題であると思うのです。
 そして各業界に存在する自主規制は悪いものではないのです。自主規制があるからこそ法による規制が緩やかになっているのです。
 さらに自主規制だからこそ話し合いの余地はあるのです。それに自主規制枠内なら問題が起こったとしても守ってもくれるのです。
 自主規制は、自分達のやりたいようにやらせろと言うのなら貴方方を守ることはできませんよ、やるなら個人で全責任を追って個人で勝手にやってくださいな、という話なだけなのです。
 公共の場で誰かが何かを表現しようとするなら、その場の責任者は問題が起こる可能性を排除しようとします。
 公共の場で問題が起こる表現の仕方を誰かがしようとするならば、クレームをつけるのは当たり前です。
 それは表現の自由とか言論の自由とかの束縛ではないのです。刑務所に問答無用でぶち込まれるという案件ではないのですから。話し合う余地は十分にある案件なのですから。
 何かができないというのは説得する能力がないってだけなのです。或いはアイディアがないってだけなのです。或いは大勢の人に受けない(←賛意を得ない)ってだけなのです。
 制限がある中で、手を品を変え表現の仕方を変えて自分達のもっとも伝えたいことを的確に伝える、というやり方を多くの表現者は行っているのです。
 全てが自由なんてありえないのです。あったとしたらそれは誰かのあるいは何かの力や名前を利用することなく個人で全ての責任を取っている人だけなのです。その場合は問題が起こったら個人で全て対処せねばならないのです。

 表現の方法は無限にあるのですよ。
 自主規制の在り方に問題があるのならばその問題点を論ずればよいのです。しかしクレームがついたなら別の表現で伝えたいことを表現してもよいのでは???
 その上で自主規制の在り方について論じていけばよいだけなのでは???
 そもそも多くの人に受けているならば(←賛意を受けているならば)クレームなんてつかないですよ。
 多くの人に賛意を受ける表現方法をとらないのが悪いってだけの話なのではないのですか?
 元々の「ぶちくらせ」の問題はただそれだけの話のような気がするのです。
 受けていないのならば表現方法を変えてみればよいのに、と私は僭越ながら思うのです。
 或いは多くの人に賛意が得られるよう説得して説得して説得してみればよいのにと思うのです。

 受ける受けない賛意を得る賛意を得ないというのは、何かを表現しようとしたならば、重要な事柄だと思うのです。
 受けないならば表現する場を与えられない、って事柄は表現者には当たり前の話だと思うのですよ。
 それは表現の自由とか言論の自由とかは関係なく、受けないのが悪いってだけだと思うのです。
 ならば受ける表現にすればよいじゃん、って僭越ながら思うのですよ。受ける努力をすればよいじゃん、って僭越ながら思うのですよ。
 様々な想いがあるにせよ。表現の仕方なんて無限にあるのですから。



 申し訳ありません。
 面白主義者の戯言であります。
 どうかお読み捨てくださいませ。

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