昨日の夜は、安彦良和の漫画『蚤の王』を読んでいました。
4世紀。垂仁天皇の時代。
日向族と纏向出雲族が構成する大和の主流派は、大和に降伏して大和に仕え大和に移り住んだ出雲族の力を削ぐことに腐心していた。
出雲族・初瀬の野見宿禰は、大王の命で同じく出雲族で当麻に暮らす当麻蹶速と大王の前で相撲の御前試合に臨むことになった。
どちらかが死なないと試合が終わらない「片ヤ消シ」の試合。しかも負けたほうの一族は領地を奪われ追放される。
さらに初瀬・出雲族は野見宿禰が負ければ王の陵に代々人柱を出さなくてはならないと大王から命じられていた。
野見宿禰は初瀬・出雲族の為に当麻蹶速と闘うのだが、この御前試合には大王の思惑がひそんでいた。
古事記を安彦良和が再解釈して多くの仮説・創作を盛り込み物語化を試みた『ナムジ』と『神武』の続編で、相撲の始祖とされる野見宿禰を主人公としたお話です。
安彦良和の古事記を物語化した一連の作品は、考古学や歴史学を基に仮説を組み立てて物語化したもの。
『神武』の中の神武の東征の解釈は面白かった。正しいかどうかは分からないけど物語なので面白ければOKです。
この物語では、体術が否定され技術と心によって救われる展開となります。
心・技・体。でもこの物語では描かれていませんが、野見宿禰の一族は後に菅原氏となり菅原道真を生み出して心・技・体を高いレベルで成立させたはずなのに没落します。
心・技・体が揃ってもどうにも出来ないものがある。でもだからこそ人を殺せる技術を持つのなら心・技・体を揃えなければならないってことなのでしょうか? 何だか切ない。
これは私の勝手な考えなんだけど、お相撲さんで一番強い人を神様扱いするのは人柱要員だったころの名残だよなぁ。
日本では偉い人や立派な人は神様にしないもの。
生贄・人柱要員・責任を取らされる者・或いは禍々しきまつろわぬ者。神様にされるのはこんな人達ばっかだ。
神様扱いしてやるからその代りきちんとしろというのはある。しかし、偉い人は神様にしない。偉い人を讃える為に神様にしない。
でもこんなやり方は一神教の連中や共産主義から派生した無宗教の連中には理解できないだろうなぁ。
あの連中は自分達と違う文化や考えは徹底的に破壊しようとするから厄介っす。
話がずれちゃった。
恩讐を乗り越えるにはどうすればよいのか? そんなお話でありました。
面白かったですよ。