12月に行った「ちひろdeアート」のステージで、日替わりゲストのゼラチンズの里村さんに朗読してもらった小説「ロケット」です。
このステージのために書き下ろしたものでしたが、「ちひろdeアート」も終わったし年も変わったしで、せっかくなのでブログにて公開します。
『ロケット』
「私達、もう会わないことにしましょう」
そう言い終わると彼女は、振り返って歩き出した。
「もう一度やり直そう」
そう言って彼は、彼女を追いかけたかった。
しかし、彼の口からその言葉が出ることはなく、遠ざかる彼女の後ろ姿を見つめたまま、彼は何も言えずにしばらくそこに立ち尽くしていた。
それも長くは続かず、彼女の後姿が見えなくなる前に、彼は振り返って反対方向に歩き出した。
別れを決意した彼が第一歩を踏み出したその時、一つの文明が滅んだ。
細菌類たちの文明である。
われわれ人類には想像の及ばない世界だが、地球の細菌類たちの中には高度な文明を築いている種が存在する。
太陽が沈んでは昇り、再び沈む、多くの生物たちが起きて活動をして眠りにつく、24時間という時間の中で、細菌類は何世代もの世代交代を繰り返す。
代わり映えしない休日の朝、一本の電話で目覚めた成人男性が、電話越しに彼女から一言「話がある」と告げられる。
電話を受けた彼が慌てて家を飛び出すまでの約15分間、その短い時間の中で、細菌類たちは公園の落ち葉に埋もれた腐葉土の上で新たな文明を築いていた。
とは言え、細菌類たちは最初からそこに定住していたわけではない。
細菌類たちがその湿度と有機物に富んだ地に安住を求めたのは、人間の時間で言うところの15分前、それはちょうど、一体の人類のメスが一体のオスに電話をかけた時刻とほぼ一致する。
そして、その人類のオスは、家を出てから公園まで歩いて15分の道のりを、驚異的な速度で走ったために5分で辿り着いた。
その5分間のうちに、細菌類たちの“人口”は爆発的に増加し、彼らは土中の無機物で都市を建造し、いくつかの政治的な権力争いの末に、一つの統一国家を築いていた。
一方その頃、人類のオスは公園まで全力疾走して体力を消費しながらも、脳内ではこれまで彼女との付き合って来た記憶を振り返っていた。
とは言え、それはつい一ヶ月前の出来事である。
一ヶ月前、生まれ育った田舎を離れて都会に出て来た彼は、アルバイト先で出会った彼女と瞬く間に恋に落ちた。
ちょうどその一ヶ月前、時を同じくして細菌類たちは住み慣れた故郷に別れを告げることとなった。
故郷の終わりは突然やってきた。
かつて経験したことのない災害に見舞われ、細菌類たちの半数以上が住居を破壊され、命を落とした。
なんとか生き延びた数少ない細菌類たちは、広い大陸を渡り、大河を超え、幾多の仲間たちの死と誕生を目にしながら、何世代にもわたっての移住生活を送らざるを得なかった。
細菌類たちが捨てることを余儀なくされた故郷、そこは偶然にも、その人類のオスが一ヶ月前に旅立った生まれ故郷の村の位置と完全に一致する。
彼が旅立ってほどなくして、その村はダムの底に沈んだのであった。
彼が都会で新しい生活を始め、恋人と出会い過ごしてきた一ヶ月間という時間をかけて、細菌類たちは長い旅路の果てにこの公園の腐葉土を発見したのだった。
電話から20分後、細菌類たちの運命など知る由もない人類のオスが、その公園へとたどり着いた。
予定時刻よりも40分も早く到着したにもかかわらず、彼女はすでに到着していた。
二人の間に気まずい沈黙が流れた。
時間にして数分間の出来事であったが、二人にとっては永遠のように長い時間であった。
その数分間のうちに、細菌類たちの世界に天才と呼ぶべき存在が生まれた。
その天才は生まれて間もなくして自分達が住んでいる大地は、彼らの想像の及ばないほど巨大な球体の上に存在していることを悟った。
彼は異端者として非難されながら一生を終えたが、その意思は弟子へと受け継がれた。
その弟子は、その球体の上には自分達の想像も及ばぬような巨大な生物が存在しているのではないかと仮説を立てた。
彼の説もまた、多くの細菌類たちから相手にされなかったが、それでもその意思は、彼のさらに弟子へと受け継がれた。
こうして、天才の意思は弟子から弟子へと代々受け継がれ、多くの知恵と知識が伝承され、蓄積された。
その知恵と知識は、長い歴史の中で次第に細菌類たち全体に広く受け入れられ、彼らの文明は急速に進み、多くの科学者たちが生まれた。
一方その頃、彼らの遥か上空では、一体の人類のメスが長い沈黙の果てに、一ヶ月間連れ添ってきた人類のオスに別れの言葉を告げていた。
「私達、もう会わないことにしましょう」
その時、細菌類の気象学者は、長きにわたり平静を保っていた彼らの住む都市の上空で、突如として出現した不穏な空気の流れを観測した。
彼が、それは災害の前兆ではないかとの仮説を立てると、多くの細菌類たちは彼を予言者だと騒ぎ立てた。
彼の仮説は過大解釈され、やがてそれは「風が止むとき大いなる不幸の右足が訪れる」という予言へと姿を変えた。
この世界の終わりを告げる予言に、多くの細菌類たちは恐怖した。
しかし彼らは騒ぎ立てるばかりで、具体的にこの世界を救おうとはしなかった。
それどころか、この世界を救う方法を模索している科学者たちを、狂信者と非難した。
ある航空学者は、全ての細菌類たちを乗せて上空へと避難する巨大ロケットの開発を急いでいたが、彼もまた非難の対象となり、研究は頓挫した。
事態は何も好転しなかった。
一方その頃、一体の人類のオスは恋人との仲がまったく好転しないまま、何も言えずに立ち尽くしていた。
その人間にしたらわずかな時間のうちに、細菌類の科学者たちは、彼らの文明を救う方法を必死に模索した。
が、それには時間が足りなかった。
別れを決意した人類のオスが、振り返って反対方向に歩き出す。
その時、「大いなる不幸の右足」が、上空から細菌類たちの文明を襲った。
それは彼らの力も及ばない、巨大で容赦ない力だった。
彼らの暮らす都市は瞬く間に破壊され、全ての細菌類たちは死に絶えた、かに見えた。
しかし、彼らは完全に死に絶えたわけではなかった。
生き残ったわずかな細菌類たちの中に、物理学者がいた。
その物理学者が研究していたのは時間であり、研究が進めば時間を遡行する方法さえも発見できると信じていた。
誰もが彼の言葉を信じようとはしなかった。
しかし、「大いなる不幸の右足」が訪れる直前に、その装置はついに発明されていたのである。
彼の研究所はかなり町はずれにあったため、「大いなる不幸の右足」の被害を受けずにすんでいた。
最後の望みを託し、彼はその装置を起動した。
気付くと物理学者は、住み慣れた研究所の中にいた。
実験は成功したのだろうか。彼は町へと急いだ。
そこには、破壊される前の見慣れた町の姿があった。
彼は町の住人たちの会話に耳を傾けた。
住人たちは口々に、「大いなる不幸の右足」の噂話をしていた。
実験は成功していた。しかし時間がない。
物理学者は、友人の航空学者に会うことにした。
彼なら、この世界を救ってくれるかもしれない。
航空学者は、巨大ロケットの開発を諦め、施設をたたむところであった。
そこを訪れた物理学者は、彼に全ての望みを託すことにした。
全ての財を投げ打って、彼の進めてきた巨大ロケットを共同開発することを決めた。
しかし、やはり開発には時間が足りなかった。
彼らに出来たことは、試作ロケットの飛行実験に至るまでであった。
それでも、いつかこのロケットが世界を救うことに繋がるかもしれないと希望を託して、彼らは試作ロケットを飛ばした。
ロケットは彼らの頭上を、遥か彼方へ上昇し、やがて見えなくなった。
その時、風が止んだ。
「私達、もう会わないことにしましょう」
そう言い終わると彼女は、振り返って歩き出そうとした。
しかしその時、彼女は左目に違和感を覚えた。
「痛っ」
それを見た彼は言った。
「泣いてるの?」
彼女の目からは、涙が流れていた。
「違うわ、目にゴミが入っただけよ」
そう言いながら涙を流す彼女を見て、彼は何故かとても美しいと感じた。
数秒の沈黙の後、彼は言った。
「もう一度やり直そう」
このステージのために書き下ろしたものでしたが、「ちひろdeアート」も終わったし年も変わったしで、せっかくなのでブログにて公開します。
『ロケット』
「私達、もう会わないことにしましょう」
そう言い終わると彼女は、振り返って歩き出した。
「もう一度やり直そう」
そう言って彼は、彼女を追いかけたかった。
しかし、彼の口からその言葉が出ることはなく、遠ざかる彼女の後ろ姿を見つめたまま、彼は何も言えずにしばらくそこに立ち尽くしていた。
それも長くは続かず、彼女の後姿が見えなくなる前に、彼は振り返って反対方向に歩き出した。
別れを決意した彼が第一歩を踏み出したその時、一つの文明が滅んだ。
細菌類たちの文明である。
われわれ人類には想像の及ばない世界だが、地球の細菌類たちの中には高度な文明を築いている種が存在する。
太陽が沈んでは昇り、再び沈む、多くの生物たちが起きて活動をして眠りにつく、24時間という時間の中で、細菌類は何世代もの世代交代を繰り返す。
代わり映えしない休日の朝、一本の電話で目覚めた成人男性が、電話越しに彼女から一言「話がある」と告げられる。
電話を受けた彼が慌てて家を飛び出すまでの約15分間、その短い時間の中で、細菌類たちは公園の落ち葉に埋もれた腐葉土の上で新たな文明を築いていた。
とは言え、細菌類たちは最初からそこに定住していたわけではない。
細菌類たちがその湿度と有機物に富んだ地に安住を求めたのは、人間の時間で言うところの15分前、それはちょうど、一体の人類のメスが一体のオスに電話をかけた時刻とほぼ一致する。
そして、その人類のオスは、家を出てから公園まで歩いて15分の道のりを、驚異的な速度で走ったために5分で辿り着いた。
その5分間のうちに、細菌類たちの“人口”は爆発的に増加し、彼らは土中の無機物で都市を建造し、いくつかの政治的な権力争いの末に、一つの統一国家を築いていた。
一方その頃、人類のオスは公園まで全力疾走して体力を消費しながらも、脳内ではこれまで彼女との付き合って来た記憶を振り返っていた。
とは言え、それはつい一ヶ月前の出来事である。
一ヶ月前、生まれ育った田舎を離れて都会に出て来た彼は、アルバイト先で出会った彼女と瞬く間に恋に落ちた。
ちょうどその一ヶ月前、時を同じくして細菌類たちは住み慣れた故郷に別れを告げることとなった。
故郷の終わりは突然やってきた。
かつて経験したことのない災害に見舞われ、細菌類たちの半数以上が住居を破壊され、命を落とした。
なんとか生き延びた数少ない細菌類たちは、広い大陸を渡り、大河を超え、幾多の仲間たちの死と誕生を目にしながら、何世代にもわたっての移住生活を送らざるを得なかった。
細菌類たちが捨てることを余儀なくされた故郷、そこは偶然にも、その人類のオスが一ヶ月前に旅立った生まれ故郷の村の位置と完全に一致する。
彼が旅立ってほどなくして、その村はダムの底に沈んだのであった。
彼が都会で新しい生活を始め、恋人と出会い過ごしてきた一ヶ月間という時間をかけて、細菌類たちは長い旅路の果てにこの公園の腐葉土を発見したのだった。
電話から20分後、細菌類たちの運命など知る由もない人類のオスが、その公園へとたどり着いた。
予定時刻よりも40分も早く到着したにもかかわらず、彼女はすでに到着していた。
二人の間に気まずい沈黙が流れた。
時間にして数分間の出来事であったが、二人にとっては永遠のように長い時間であった。
その数分間のうちに、細菌類たちの世界に天才と呼ぶべき存在が生まれた。
その天才は生まれて間もなくして自分達が住んでいる大地は、彼らの想像の及ばないほど巨大な球体の上に存在していることを悟った。
彼は異端者として非難されながら一生を終えたが、その意思は弟子へと受け継がれた。
その弟子は、その球体の上には自分達の想像も及ばぬような巨大な生物が存在しているのではないかと仮説を立てた。
彼の説もまた、多くの細菌類たちから相手にされなかったが、それでもその意思は、彼のさらに弟子へと受け継がれた。
こうして、天才の意思は弟子から弟子へと代々受け継がれ、多くの知恵と知識が伝承され、蓄積された。
その知恵と知識は、長い歴史の中で次第に細菌類たち全体に広く受け入れられ、彼らの文明は急速に進み、多くの科学者たちが生まれた。
一方その頃、彼らの遥か上空では、一体の人類のメスが長い沈黙の果てに、一ヶ月間連れ添ってきた人類のオスに別れの言葉を告げていた。
「私達、もう会わないことにしましょう」
その時、細菌類の気象学者は、長きにわたり平静を保っていた彼らの住む都市の上空で、突如として出現した不穏な空気の流れを観測した。
彼が、それは災害の前兆ではないかとの仮説を立てると、多くの細菌類たちは彼を予言者だと騒ぎ立てた。
彼の仮説は過大解釈され、やがてそれは「風が止むとき大いなる不幸の右足が訪れる」という予言へと姿を変えた。
この世界の終わりを告げる予言に、多くの細菌類たちは恐怖した。
しかし彼らは騒ぎ立てるばかりで、具体的にこの世界を救おうとはしなかった。
それどころか、この世界を救う方法を模索している科学者たちを、狂信者と非難した。
ある航空学者は、全ての細菌類たちを乗せて上空へと避難する巨大ロケットの開発を急いでいたが、彼もまた非難の対象となり、研究は頓挫した。
事態は何も好転しなかった。
一方その頃、一体の人類のオスは恋人との仲がまったく好転しないまま、何も言えずに立ち尽くしていた。
その人間にしたらわずかな時間のうちに、細菌類の科学者たちは、彼らの文明を救う方法を必死に模索した。
が、それには時間が足りなかった。
別れを決意した人類のオスが、振り返って反対方向に歩き出す。
その時、「大いなる不幸の右足」が、上空から細菌類たちの文明を襲った。
それは彼らの力も及ばない、巨大で容赦ない力だった。
彼らの暮らす都市は瞬く間に破壊され、全ての細菌類たちは死に絶えた、かに見えた。
しかし、彼らは完全に死に絶えたわけではなかった。
生き残ったわずかな細菌類たちの中に、物理学者がいた。
その物理学者が研究していたのは時間であり、研究が進めば時間を遡行する方法さえも発見できると信じていた。
誰もが彼の言葉を信じようとはしなかった。
しかし、「大いなる不幸の右足」が訪れる直前に、その装置はついに発明されていたのである。
彼の研究所はかなり町はずれにあったため、「大いなる不幸の右足」の被害を受けずにすんでいた。
最後の望みを託し、彼はその装置を起動した。
気付くと物理学者は、住み慣れた研究所の中にいた。
実験は成功したのだろうか。彼は町へと急いだ。
そこには、破壊される前の見慣れた町の姿があった。
彼は町の住人たちの会話に耳を傾けた。
住人たちは口々に、「大いなる不幸の右足」の噂話をしていた。
実験は成功していた。しかし時間がない。
物理学者は、友人の航空学者に会うことにした。
彼なら、この世界を救ってくれるかもしれない。
航空学者は、巨大ロケットの開発を諦め、施設をたたむところであった。
そこを訪れた物理学者は、彼に全ての望みを託すことにした。
全ての財を投げ打って、彼の進めてきた巨大ロケットを共同開発することを決めた。
しかし、やはり開発には時間が足りなかった。
彼らに出来たことは、試作ロケットの飛行実験に至るまでであった。
それでも、いつかこのロケットが世界を救うことに繋がるかもしれないと希望を託して、彼らは試作ロケットを飛ばした。
ロケットは彼らの頭上を、遥か彼方へ上昇し、やがて見えなくなった。
その時、風が止んだ。
「私達、もう会わないことにしましょう」
そう言い終わると彼女は、振り返って歩き出そうとした。
しかしその時、彼女は左目に違和感を覚えた。
「痛っ」
それを見た彼は言った。
「泣いてるの?」
彼女の目からは、涙が流れていた。
「違うわ、目にゴミが入っただけよ」
そう言いながら涙を流す彼女を見て、彼は何故かとても美しいと感じた。
数秒の沈黙の後、彼は言った。
「もう一度やり直そう」